5-54
『ルーちゃんたちと遊びすぎですよぉ、アスビィル。だから、わたくしの支配を受けてしまう程に弱るのですわぁ』
突然、魔界に居るアスビィル本体の元へ声音が届いた。ゆっくりとした口調の、緊張感のない声だった。
アスビィルはその声に聴き覚えが有った。
『お、王の魂! お前――』
『その呼び方は止めてくださいな。どちらかと言うと、貴女たちの王がついでなんですからぁ』
魔界へと届いた声は可笑しそうにしていた。言葉の端々に笑顔が散りばめられていた。
『何故、人間を護る……? お前も人間を嫌っていた筈じゃ』
『そんなの簡単なことですわぁ。わたくしに『人間』を護る気などありません。わたくしはマルクァスとヘリオスと、セレネを護るのです。『家族』を護る。その願いに忠実なだけ。只それだけのことですわ』
『家族……』
合点がいったというように、魔界に在る紅い瞳の悪魔と、人界に在る碧い瞳の屍体が嗤った。彼女は誰でも無い、彼女自身を嘲笑っていた。
『アレはお前の…… どうりでのぅ。ウチも何故気付かなんだか』
魔界の一角で呟いた魔の者の表情には、既に諦観が有った。人界に在る彼女の器に宿る力は、急速に衰えて行っていた。勝敗はもはや決していた。
瞳から紅の失せた、抜け殻のような屍体を円らな空色の瞳に映して、ティアリスが訝った。
「……ヴァン? またてめーが?」
ティアリスの問いに、ルーヴァンスは首を振った。
「いえ。僕ではありません。僕以上のサタニテイル術士が、この町にはいるんですよ」
彼は一瞬、視線を南へと向けた。
(助かりました。ミッシェル隊長。……いや、元隊長、か)
そちらにいるはずの元上司に心の中で敬礼した。
それから、力強く笑い、視線を人界に在る悪魔の器へと戻した。
「それよりも――」
「おっけーですよ」
相棒の言葉に頷いて、ティアリスは神の力を人界へと引き込んだ。
白き光がより強く、輝きを放った。黒を押し返し、そのまま、霧散させた。
そして――
かっ!
人界のみならず、神界、魔界、精霊界――四界全てを照らさんがばかりに、いっそうの輝きをました白き光は、一気に魔を飲み込んだ。
僅かに残っていた紅が、白へと帰した。
「があああああああああああああぁああッッ!!」
断末魔と共に光に包まれ、『エグリグル』の悪魔アスビィルはついに消えさった。
後には何も残らなかった。悪魔も、屍体も、何もかも。
パドル=マイクロトフが潜在的に望んでいた願いすら叶うことなく、全てが終わってしまった。
絶望も何も、希望すらも、決して残ることなどなく……愚者が自死すら厭わずに抱いた願いの結果が無というのは、ただただ、空しばかりが際立っていた。
白翼に抱かれて夜天に浮かぶ人と精霊の背後では、真紅の六芒星が漸う淡紅へと変じ、遂には唯の黒一色へと成り果てた。その黒の只中には、一抹の寂しみが浮かんでいた。遥か遠くから届く優しい光の筋が、大地を照らしていた。
こうして、人界を冒していたひとつの事件の幕は、どこか物寂しさを残したまま、下ろされたのだった。