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「……ん? 逃げるわけでは無さそうじゃな」
風が動いた。
土埃がもうもうと立ち込める中、一帯を漂う細かな粒子が光を受けて輝いていた。その中を切るように流動する何かが在った。その何かはシスター・マリア=アスビィルの後方へと回り込んだ。
しかし、神の力は、紅の瞳が向かう先で、相も変わらず上昇し続けていた。魔を滅する為にひたむきに光を欲し続けていた。
イルハード神の力が、密かに移動する何某かから、光を放つ何某かへと流れているのは明らかだった。
トリニテイル術は、精霊が神の力を人界へと引き込み、引き込まれた力を人界の住人たる人間が行使するものだ。そうなれば、力の元がトリニテイル術士であり精霊でもあるティアリス、力の先が人間であるルーヴァンスだということは自明の理であった。
恐らくは、ティアリスが白翼を背に負って移動しているのだろう。一方で、人の子は動かず、イルハード神の力を術へと変換し続けているに違いない。そういった虚像が、紅魔の脳裏に浮かんだ。
神の力を術へと変換する人の子。術へと備える紅魔。白翼を背に負った精霊。三者はその順番で、不明瞭な視界の中で一列に並んだ。
しかし、現状における確実性の無い視界は、その理に微かな瑕を与えていた。
紅魔は神や精霊、ひいては、トリニテイル術や精霊術にまで知識が明るいわけでは無かった。故に、神の力の流れが、それどころか、位置関係自体が、偽装されている可能性を完全に否定することまでは出来なかった。
(ふむ…… ウチのこの惑いこそが狙い、か……)
シスター・マリア=アスビィルは唇を歪めてニィと嗤った。
(精霊術かトリニテイル術に因る力の流れの偽装。同じく、何らかの術に因る光の屈折を元にした位置関係の錯誤。もしくは、今感じるままに人も精霊も在るか。可能性としてはそんなところかの…… わざわざ視界を不明瞭にしおったことからすると、最後の可能性がもっとも低いと考えるべきじゃろうが……)
紅魔が思考を巡らす間にも、神の力は高まり続けていた。強力な一撃が用意されていることだけは明瞭だった。
神と子と精霊に敵対するモノ――悪魔は考え込むよりも前に、迅速に神の使者達を邪魔すべきだった。今この時を待機して過ごさず、神の力が高まるよりも前に、人の子と精霊を制圧すべきだった。しかし、彼女はそうはしなかった。そうしない方が面白いが故だった。
戦いに勝つこと。人の子を屠ること。人界を滅ぼすこと。勝利も殺戮も滅亡も、紅魔にとって肝要だった。肝要だが、いずれも、達成するのが容易過ぎた。
悪魔にとって、勝利や殺戮や滅亡は快楽でもあった。そして、彼女にとって、容易に得られる快楽など価値が無かった。
故に、シスター・マリア=アスビィルは戯れずには要られなかった。より良い快楽を得る為に、劣勢を招くような戯れの時が必要だった。