Fairy Sense 《雪月花》
ひどく緩慢な動きで綿雪が降ってくる。
厚い雪雲は、月に一度の完全な円を描いた月も隠していて、大学構内に点在する外灯ばかりが、彼の足取りを照らしている。
不意に、彼は足を止めた。
とある先輩に、狼のようなと表現される琥珀の瞳が、降ってくる綿毛を追って空へと視線を遡らせていく。
幻想的な感覚だった。
現実には、氷の結晶が降ってきているというのに、感覚は天使の羽が舞う中で空へと吸い込まれて行っている。雪は雲の上で踊る天使の羽が降ってきているだという、聞いた時には意味の分からなかった言葉も信じてしまいそうになる。
こんなに重たい雲で覆われているのに、晴れている時よりも空が明るく感じるのも、天使がそこにいるからなのだろうか。
そこまで思い、そこで終わった。
彼は自分の口から立ち上る白い息を見て、早く帰る決意を再確認した。フリースとマフラーで守られた上半身と違い、下半身はジーンズだけの頼りない装備だ。ボトムズでの防寒に、どんな手立てがあるのか、今度誰かに聞いてみた方がいいかもしれない。
降り積もった雪の柔らかな純白の絨毯を踏み締めるブーツは冷気も寒気も防いでいるが、それでもジーンズの裾から引きずられる熱はそろそろバカにならなくなってきている。雪の降る場所が出身地とは言え、より北に入ったこの土地は、少し彼の予測を凌駕していた。
また足を踏み出して、分かれ道を下っていく。
広い構内に自然溢れるこの大学には、ちょっとした森林から植林、川のせせらぎに小高い丘まで、奇妙なくらいに道が複雑で近道も抜け道も多い。
こんな雪深い季節にまでヒールを履く女子大生ならともかく、彼のような杜撰で濡れることを厭わない性格なら、このまま除雪のされていない木々の合間を通った方が家が近い。
ただし、時折枝から落ちてくる塊には注意しなければいけないが。枝をしならせる程の重量は、人を行き埋めにすることもあるし、そこに氷柱などが下がっていたら体が串刺しになる。
沈む足取りも、雪に取られることもなくしっかりと踏み締める彼の視界に、奇妙なものが入ってきた。
右手側、木と木の隙間になったそこに、くぼみがあった。それは、かなり小柄な人物が寝転がった跡のように見える。
「どこのバカだ。ガキじゃあるまいし」
雪に突っ込んで喜び、そのまま家に帰って親に怒鳴られ、その内風邪を引く。小学校の頃には、クラスに数人そんな奴がいた。
しかし、彼にとって雪は、昔からそれほど魅力的なものではなかった。
冬はこの上なく好きだが、それは雪や白鳥のようなその時にしか見られないものが好きなのではなく、雰囲気が好きだった。凍りついた静寂の空気が、それに差し込む日本刀のように鋭い日や月の明かりが、ともすれば、世界に独りになったような感覚が好きだった。
さらに彼が数歩も歩くと、今度は木に向かって小さな足跡が残されていた。彼が踏み固めた雪に比べれば、二回りは小さく、浅い。かなり小柄で軽い人物のものだ。
彼の思考が、それに当てはまる唯一の存在を思い当たり、自然と足が止まる。
「いや、流石にまさかな」
如何に妖精と呼ばれる程不思議な感性を持っているからと言って、こんな危なくて子供っぽい真似はしないはずだと、彼は首を振った。
「月が綺麗ね、緋月」
けれど、そんな期待を裏切って、細やかな風にも聞き間違える声が降ってきた。
緋月が道に張り出した桜の枝を見上げれば、ベージュのダッフルコートに身を包み、マフラー代わりなのか自慢の艶やかな夜の海を吸い込んだ色合いを奏でる髪を首に巻いた妖精がいた。赤いチェック生地に革の飾りベルトが三つ並んだ巻きスカートからは、真珠のようになめらかな素足が太ももからさらけ出され、枝から投げ出されている。
彼女はそんな不安定な体勢で、空から降る六花を眺めている。
「えっと……こんな雪雲が厚いと、月なんて見えませんよ、明槻先輩」
いったいどこから突っ込めばいいのかと、緋月は数瞬、頭を悩ませたが、質問に答えることにした。
しかし、木の上で素足を揺らす明槻海弥は、心外だというようにため息を吐いた。その不満は白く凍りつくけれど、消え去りはしないようだ。
「まったく、相変わらずロマンスを解さない男ね。それでよく物書きだなんて名乗れるものだわ」
ところで、彼女が履いていたはずの靴はいったいどこに言ったのだろうかと、緋月は自分の思考を誤魔化すことにした。視線を彷徨わせても、それを見つけることは出来ないのだけれど。
その様子を、海弥の紺碧に煌く瞳が、冷たく見下していた。
「ほら、靴ならここよ。あと、今の英訳は『It is beautiful moon, isn't it?』ではなくってよ」
海弥のたおやかな手から苛立たしげに放り投げられたパンプスは、緋月の頭を一度ずつ打って地面に転がる。
その衝撃で、他にどんな英訳があるのかという疑問は、緋月の頭から蹴りだされてしまった。それに、それよりも気になることがある。
「寒くないんですか?」
「雪が降っているのに?」
質問に質問で返された緋月は、こめかみに人差し指を当てた。
普通、雪が降っているからこそ寒いのではないだろうか。どうにも、この妖精との会話は言語野に異常な負荷が掛かってしまう。
「雪が降っている時の方が、熱は奪われないのよ。厚い雲は放射冷却を阻むし、雪の凝結は空気に熱を放出するしね」
出来の悪い生徒を諭すように、優しい声音で海弥は謳う。
彼女が手を伸ばせば、その指先にひとひらの冬の花びらが舞い降り、すぐに解けた。
「てんじょうの、うたげにてんにょまうそでが、てんかちらせばさちとふるかな」
極楽の天上に咲く天花が、宴に舞う天女の振袖に触れて散ってしまったので、それは雪となって降り、この地に幸をもたらす。
情緒の奏でのままに海弥が紡ぐ歌は、天女の舞を誘う雅楽の如くたおやかに、細く結われながら天へと伝わっていく。
それは天で散らされた天花と共に、世界を静寂に包み込んで刹那を凍りつかせて永久の美しさへと変えてしまった。
ただただ、余韻だけが響き、思考が廻ることさえも許されず、魂で感じ入ることしか出来ないような時間が重ねられていく。
「あ……」
けれど、それを破ったのは、他ならない海弥の、思い出したという感じで出された幼くも聞こえる声だった。
「違う、言いたいの、これじゃなかった」
「は?」
幻想に彩られていたところに、唐突に現実の幕が引かれて、緋月の思考が急速に回転を始める。
わざわざ待ち伏せていたのか。なんで桜の木に登っているのか。月が綺麗ねという言葉に何の意味があったのか。そもそもそんな格好で寒くないのか。特に足。というか、下から見上げると絶妙な光景で目のやり場に困る。いや、見てない見えてない。でもスカートの中身が見えなくても、そのすらりとした生足だけでも十分際どい。
堰き止められていた言語の波が、一斉に押し寄せて、引くことも知らずにせめぎ合っている。
思考しているのに、思考が停止している。何も考えられない。
「緋月。あなた、本当に寒い所の……そうね、北海道より北の雪は見たことがある?」
また随分と話が飛んだな、と思いつつ、緋月は首を横に振って否定する。彼の到達した最北点はこの町だ。
「そう」
海弥は少し残念そうに喉を震わせる。
けれど空ばかりを見詰める彼女の表情は、下から見上げる緋月には分からない。
「雪というのはね、雲では氷の粒だったものが、降下中に一度解けて、再び凝結したものなの。空気中の塵を核にしているから、こんなに綺麗な結晶を象るのよ」
六花と呼ばれる冬の花びらは、六枚の枝を伸ばしてそこに飾りを付ける。
現実に降る幻想は、大気の中で時間を凍りつかせながら人を誘い、大地と共に町並みを飲み込んで純白に染め上げる。
それが命が安らかに眠る冬の異世界。
チョコレート色に甘いダッフルコートのトグルを手のひらで弄びながら、海弥はその世界の美しさへと惹きつける。
「上空の気温が高いとね、雪は少し融けてしまうのよ。ご覧なさい。この綿雪は花びらのひとひらでなく、解けた手を繋いでいるわ。その中に空気を取り込んで、柔らかな綿となって世界を包むのよ」
緋月は降り来る綿毛の一つを手のひらで迎える。
よく見れば、確かに海弥の言うとおり、伸びた結晶の腕が絡み合い、空気を掴んでふんわりとした柔らかさを感じる。
けれど、人よりも冷たいと言われる緋月の手でも、その硝子細工は解けて白から透明へと、より純粋さを際立てた。
「寒い土地の雪は、融けることはないわ。ひとひらひとひらが、冷たく凛と独りあり、触れればさらさらとこぼれていく。粉雪と人は言うけれど、わたしはシュガースノーという表現をしたいわ。こればかりはスノーシュガーと、砂糖に雪を想像したイギリス人の方が、日本人より情緒豊かだったと思うの」
海弥はそこで一息、肺をも凍りつかせるような冬の空気を吸い込んだ。
冷たい雪の香りは、どこか涙に似ている。
そして、海弥は落ちた。
なんの前触れもない衝撃に、驚いたように雪は舞い上がり、風に乗って逃げていく。
余りに突然で、緋月は何が起きたのか、理解出来ていなかった。
「明槻先輩!?」
刹那の空白を彼の思考が噛んだ後に、緋月は青褪めた声で愛する先輩に呼びかけた。
けれど、そんな後輩の心配も余所に、海弥は淑やかに真珠の白を誇る手を上げて、その動きを止める。
「大丈夫よ。ちゃんとさっき、落ちても怪我しないくらいに雪が降り積もっているのを確認してあるから」
一方的にそれだけ告げると、海弥は上げた手を降ろし、そのまま体の横に投げ出す。
手だけでなく、ネイビーブルーに佇む自慢の髪も乱れるままに、ほっそりとした素足も力なく、身動ぎすることはない。
碧玉をはめ込んだような瞳だけが、雪を眺めて空へ舞い上がる幻想を見詰めている。
「辛く厳しい寒さの中では孤高の美麗を誇り、穏やかで生温い中では誰かと融け合って一つになりたくなる。人間と一緒ね」
そっと、海弥の瞳が伏せられた。
孤独から逃れて愛情に融けることを選んだ天花が、彼女の長い睫毛に降り立つ。その白さは透明に移ろい、目尻からこぼれ流れた。
「ねぇ、あなたはどっちの方が素敵だと思う?」
緋月は答えられない。
誰にも届かない美しさを誇ること。
自分を失くして誰かに委ねること。
それが、何を意味するのかも、そもそも意味があるのかさえも、分からない。
緋月には答えるべき言葉も、その前にある哲学も持ち合わせていないのだ。
沈黙はしかして、それだけでも雄弁に、彼の心情を物語る。
「まぁ、どちらにしろ、春には融けて山に染み込み、湧き水となっていつか海に辿り着き、また空へ登ることに変わりはないのだけれどね」
いつまでも答えない緋月に焦れた様子もなく、不意に体を起こした海弥は彼に向かって手を伸ばした。
緋月は躊躇なくその手を取る。
そして、海弥に眉をひそめられた。
「紳士的なのはいいのだけど、先に靴を渡してくれないかしら?」
海弥は不機嫌さを露わに突き放し、その手を打つ。
そして呆然とする緋月の前で、髪やコートについた結晶を叩き、自分で立ち上がって素足のまま靴まで足跡を残す。
小さく、土踏まずのアーチも綺麗なそれは、指先までくっきりと象られるけれど、しんしんと降る六花が覆い被さっていく。このまま雪が続けば、明日の朝にも埋められていることだろう。
「さて。飛梨の家で鍋をするの。緋月も来る?」
靴を両手に一つずつ下げて歩き出した海弥が、思い出したように緋月に振り返る。
身長差のせいで自然と上目遣いになる視線に、ほんのりと甘えた香りが漂っている。きっと妖精はこんな仕草で、好みの人間を幻想の国に引き込むのだろう。
「行きます。食費浮きますし」
最後の付け足しは、緋月のせめてもの抵抗だった。
しかし、そんなものはお見通しとばかりに海弥は微笑んでいる。
「ところで、靴履かないんですか?」
「だって、この冷たさが心地良いんですもの」
やっぱり妖精の感性は理解出来ないと思いながらも、緋月は海色の髪を揺らして歩く小さな背中の後を追っていった。
Fin
雪って綺麗ですよね。わたしはあの純白が舞う空に浮かび上がる感覚を味合わないと、冬を感じられなくて情緒不安定になってしまいます。
いや、冗談抜きで。
海弥の感覚はすっごい書きやすいんですが、緋月の方がなかなか困ってしまいます。そこは理解しなさいよといいたんですが……。
あれ? ってことは、わたしの感覚って――(思考を強制切断)
『月が綺麗ね』は夏目漱石です。最近、わたしの周りでよく聞くんですが、流行ってるんですかね?
それと、海弥が途中で言った『違う、言いたいの、これじゃなかった』はわたしが書いてる時に思った心情そのままです。いやぁ、うっかり予定外の話に熱が入っちゃいました。
雪が降る幻想の中、あなたは強い美しさと弱い優しさのどちらを見出しますか?