第八話「約束事」
彼の進行方向にもちろんあたしはまだ立っていたから、当初目論んでいた通りそのままぶつかっても良かったのだけれど、寸前で阻止したレイのあの時の顔が過ぎったものだから反射的に避けてしまったわ。何もあんなに睨まなくたっていいのにねえ、怖い怖い。でもわかったこともある。
「どうやら、お前の姿自体は見えてないようだな」
⋯⋯と、先に指摘されてしまったけれど。
「そうね、ちょうどあたしも同じことを考えてたわ」
「でも物には触れられる、か。『デスノート』の死神とか⋯⋯『ジョジョ』のスタンドみたいな感じか?」
「うーん、確かに似ているけれど⋯⋯今のあたしはどうやら何にでも触れてしまうみたいだし、すり抜けることもできるそれらとは少し話が違うわよ」
「⋯⋯まあ、それもそうか」
この彼からユーモアのある例え話が出たことを意外に思いながら、会話が初めてマトモに続いている事実にあたしは少し感動した。これからしばらく行動を共にするんだから、早いとこ慣れておかないとって思っていたのよね。共通の話題があるのならそれは比較的易しくなるし、ひとまずは安心と言ったところかしら。
「漫画とか、結構詳しかったり?」
「まぁ⋯⋯ちょっとな。フタバのやつの影響だ」
「フタバって⋯⋯ああ、さっきの話にも出てきたお仲間のことね」
緑ヶ丘フタバ。スイレンたちの襲撃時に大怪我を負い、現在も入院しているという彼。それにしてもファミリーホームの同居人って、関係性が特殊すぎて⋯⋯家族って言ったらいいのか兄弟って言ったらいいのかわかんないからこんな物言いになってしまったわ。嫌味っぽく聞こえてなければいいけれど。
「ああ。そうだな⋯⋯持って行ってやってもいいかもな」
「え?」
「こっちの話だ。いや、隠すようなことでもないが⋯⋯どうせ話すことになるし、今は後回しだ」
不親切にもこっちだけが気になるような切り上げ方をすると、レイはすぐ隣を通り過ぎ中村が先に駆け出した方向、すなわちあたしたちが下りてくるのに使った階段へと向かい始めた。少し遅れて、あたしも後に続く。
「それよりお前、俺と二人の時以外は影から出るなよ。鏡にも映るな。誰かと触れ合うのも厳禁だ」
「⋯⋯鏡に映るかどうかってのは、まだ検証してないわよ?」
「だからだよ。わからない以上、念の為避けておくに越したことはない」
「一応聞いておくけれど、なんであたしがそこまで気をつけなきゃいけないのかしら?」
そんな問いかけにレイはまたすぐに応えることはせず、歩みを止めないまま半分だけこちらを振り返った。相変わらず、ガラの悪い目つきで。
「騒ぎになりかねないことはするなって言ってんだよ。お前の行動がどれだけ些細なものであっても、俺の計画にどんな影響を与えるかわからないからな。それに、アニメのキャラがテレビから出てくることはないって言ったのはお前の方だぞ」
「確かに同じようなことは言ったけれど、そんな安っぽい喩えはしてないわよ」
そうか、とだけ無愛想に返しながら、レイは視線を前方に戻す。話しているうちに、もう階段を上り始めるところまで来ていた。教室に到着する前にあたしからもいくつか聞いておきたいことがあったし、残念だけれどここは大人しく彼に従うことにする。
「仕方ないわ──」
って思ったけれど、やっぱりこっちが譲歩してやったみたいな態度を取るのはやめておこうかしら。まだ途中までしか言っていないのに、本当に心底嫌な顔をされているわ。
「あぁいやまあ⋯⋯そうね、バタフライ効果的な何かが起こって興醒めするのは、観ているあたしも同じだものね」
「ま、そうだよな」
この反応はちょっとムカつくけれど⋯⋯実際のところ、そんなイレギュラーをあたし自身受け入れられないのは確かではある。ましてその原因が自分にあるとしたら、最悪の悲劇が観られなくなってしまうとしたら、あたしはずっとずっと後悔することになる。ひょっとしたら、普通に生きて死ぬよりも遥かに長い時間を。読者の声を意識しすぎた漫画が廃れていくところは、何度も目にしてきたというのに。
だからまあ、逆よね。あたしは自ら進んで彼の言う通り、オーディエンスに徹する。幽霊の存在を、レイ以外の誰にも知覚されないように。
さて、そんなことよりもさっさと話の続きを切り出すとするかしら。
「それにしても、よくあの位置から画鋲に気づいたわね。足元が見えてなかったのもあるけれど、あたしは全く気づかなかったわ」
「いや、あれはお前が暴走したあの時に急遽講じた策だよ。最初から転がってたわけじゃなく、現地調達したモンをそういう風に見せかけてただけだ」
ああ、やけに都合がいいと思ったらやっぱりレイが何かしてたのね。ていうか、暴走って⋯⋯一向に動き出す気配がないからあたしからアクションしてやったっていうのに。
「余計な手間かけさせやがって。さっきも言ったが、もう変な気は起こすんじゃねえぞ」
「わかってるわよ、しつこいわね」
依然として抑揚もなく淡々と釘を刺してくるレイに、悪態のようにそう吐き捨てる。面倒臭くなる前に無理やりにでも話題を打ち止めにし、その他にも気になっている事柄へと鋭角に切り替える。
「ところで、まさか偶然彼と逢えるなんて、ラッキーだったわね」
「まあな。奴が現れるまで、五限が移動教室じゃない日だけでも張ろうとは思ってたが⋯⋯初回で済んで良かったぜ」
あたしがレイと出会ったまさに今日というタイミングで、本当にたまたま展開が動き始めたんだという事実に驚かされるも、話を続ける。
「いやでもそれ、来ない日だったらどうしてたのよ。まさか授業が終わるまであそこに居座るつもりだったんじゃないでしょうね? それに、来るのが保健室とも断定できないはずじゃない」
「一〇分ほどで切り上げるつもりだったさ。あと、なんの根拠もなかったわけでもないぞ」
「根拠?」
「この階段から教室に向かう時、奴のクラスの方がうちよりも遠く、つまり奥にあるんだよ。俺の席は廊下側だからな⋯⋯五限が始まった後で奴が通り過ぎるのを二回ほど見てる」
「⋯⋯たった二回じゃない」
率直な感想を呟くあたしの方をまた威圧的な眼差しで一瞥だけしてから、レイは気怠そうにかなり大きめのため息を吐いた。
「そうかもしれないが、他の曜日よりも今日は特に自信あったんだ。五限がお互いに移動じゃないのは月・木のみ。先週授業が始まってから数えて、その両日とも俺は奴が教室の前を通るのを見てたからな」
「なるほど。でもそれだけじゃあ、やっぱり場所までは特定には至らないんじゃないかしら? 結果的に合っていたからよかったけれど」
「お前も屋上から見てたはずだ。奴はほぼ毎日、昼休みにスイレンたちに呼び出されて今日みたいな仕打ちを受けてる。剣道を真剣にやってるあいつなら、部活動に支障がないよう授業に遅れてでも手当しに行くだろう」
そこまで聞いたところで、ちょうど四階に到着してしまった。まだまだ話したいことはあるし、何なら今のを聞いてまたひとつ疑問点が増えてしまったのだけれど⋯⋯どうせこれから彼と対話するタイミングなんていくらでもあるのだから、仕方ないけれどここはまたの機会ってことで。
廊下に出たところでなぜだか立ち止まったレイを追い抜かし、あらかじめ知らされていた彼のクラス、一年二組の教室へとあたしは先に向かい始めた──まさにその刹那、待てと小声でレイに呼び戻された。振り返ると、階段を跨いだ反対側の方向を彼は片手の親指で示していた。
さして間もないうちに身を翻しそちらへと歩を進める彼の背中を慌てて追いかけ、そのまま誘われるようにすぐ傍の男子トイレにあたしたちは入り込んだ。
「ちょっと!」
「勘違いすんな、俺は別に用はねえ。ただ、お前が消化不良って顔してるもんだからもうちょっと付き合ってやろうと思ってな。ついでに⋯⋯」
言葉の通り確かに奥の方へと足を踏み入れるわけでもなく入ったばかりのところで停止したまま、レイは顎を突き出し手洗い場の方を指し示した。
目に入ったのは必要以上とも言えるほどに巨大な鏡張りの壁と、その中に映る──あたしと彼。どうやら、レイの推測は合っていたみたいね。同時に、あたしが気をつけるべきことがまたひとつ確定してしまった。得意げに鼻を鳴らすレイに少しだけ腹を立てつつも、先程交わした彼との約束事に、心の中でだけれど追加で了承する。
それにしても昼間なのに、薄暗くて気味の悪い空間ねえ。タイルの溝は黒ずんでいる箇所ばかりだし。嗅覚はどうやら機能していないみたいだからそこのところは良かったけれど、どのみち今後は中にまでついて行こうとはとても思えないわね。鏡に映らないよう毎回神経を注ぐのも馬鹿げてるし、レイが用を足している時は外で待つのが無難かしら。
「さて、さっきの話の続きだが⋯⋯仮に今日は奴と逢えなくても、俺が戻った後で教室の前を通ったら次はもう少し長めに待てばいいし、通らなければ周りの席の誰かにでも、俺のいない間に奴を見かけたかどうか聞いてみたらいい。もしそこで目撃証言があったなら、その後で考えてたさ。もう必要ないことだけどな」
「あぁ、まあ、そうね。それより、中村⋯⋯だったかしら? 彼が剣道部だってこと、知ってたの?」
不意の切り出しに熟考を打ち破られ、露骨に戸惑いながらも話題を軌道修正する。ここに入る直前の会話の中で抱いた違和感。レイは中村に対し部活動を決めたかどうか質問していた。なのにさっきの口ぶりからしたら、今日初めて中村と話す前からそのことを留意していたことになる。
「まあそりゃ、奴と接触を図るべくずっと観察してたからな。そうでなくても、体験入部期間から竹刀袋持って学校来てるやつはどうやっても目立つだろ」
なるほど。やはりあの自然な会話運びは、リサーチあってのものでもあったわけね。まあ流石に、なんの用意もなく無策で逢いに行くほどレイも馬鹿じゃないか。
「あっそう。ちなみに知ってたと言えば、彼の名前を知ってたのが小学校で同じクラスになったことがあるからってのはほんと?」
「その聞き方的に察してそうだが、もちろん嘘だ」
いや別に、堂々と即答できるような行為でもないはずでしょうに。
「やっぱり⋯⋯じゃあどうやって知ったのよ」
「スイレンたち同様学校は一緒だったからな。卒アルで顔と名前を一致させた。念の為、奴が帰った後で靴箱の名前と照らし合わせもしたしな」
クレバーだけれど狂気じみたその確認方法に、あたしは思わず表情を歪める。
「うーん、やってることがストーカーのそれなのよね。怖いわよあなた」
「幽霊よりはマシだろう」
「自分で言ったこと忘れたの? 幽霊なんて所詮死んだだけの人間だって。あたしに言わせりゃ、生きてるだけで他者に害を為すスイレンや何かよからぬ事を企んでるあなたの方がよっぽど怖いわよ。ああ、そういう奴らが霊になったら確かにとても怖いわね」
皮肉めいた言葉にひと回り大ぶりのカウンターをかましてやると、レイは少しばつが悪そうに息を漏らした。そんな彼の様子に、別に面白いわけでもないその反応に、なぜだかあたしの口元は緩んだ。
「そんなことより、いいのかしら?」
話題を逸らすや否や、雑に質問を投げかけるあたしに、レイは「何が?」と手短に返事をした。
「中村のことよ、あんな焚きつけるような真似して。彼がスイレンたちを再起不能にしたりとかしちゃったらあなたも困るんじゃない?」
言い終えたところで、レイは双眸を大きく開きながらこちらに視線を向けてきた。この問いかけに対する答えの提示がないまま、静寂だけが辺りを揺蕩する。少ししてこの膠着状態を壊したのは、蛇口から雫が滴り落ちた音と──それに続くように、ははっとレイの喉奥で弾む笑い声だった。
「冗談だろ? 絶対ありえねーから安心して見とけよ」
冷淡で大人びたようなこれまでの顔つきとは打って変わって、年相応の少年然とした朗笑を初めて露わにする彼に衝撃を受けながらも、その言葉をあたしは信じてみることにした。嘘つきのはずの彼が、今だけはなぜか、純粋な子供のように見えたから。
こくこくと何度か首を上下に振ってみせると、レイの表情は再び元の冷ややかな仏頂面に戻った。そのままあたしたちはこの場を後にし、今度こそ授業真っ只中の教室へと向かう。
二〇分ほど遅れて途中参加する彼に一旦は注目しながらも、笑いもヤジもなく黙々と板書を続ける他の生徒たちと、問題なく教師への適当な言い訳と着席を済ませるレイの様子を見て、あたしはなんとなく彼のクラス内での立ち位置を察した。




