第四話「ダンサー・イン・ザ・ダーク その③」
しばらくの間この霊体で活動していて、いくつか気づいたことがある。
まず物理的なルールについて、この体はあたしにとってだいぶ都合よくつくられているということ。壁はすり抜けて移動できるけれど、床下に沈むことはないし、階段だって普通に使えている。
幽霊全体で共通のルールなのか、あたしだけがこうなのかは皆目見当もつかないけれど⋯⋯しばらく探索していて、今のところそれらしきモノと出会うことがなかったものだから、情報交換もできないし。
人間なんて星の数ほど死んでいってるはずなのだから、すぐにでも巡り会えそうなものなのにねぇ。やっぱり幽霊なんていないのかしら? あるいは意外とみんな円満な死を遂げていて、未練も無念も何一つなくまっすぐ成仏できているとか。まあ、いくらここで頭を捻ったところで想像の域を出ないし、考えるのはやめにするわ。
さて、脱線してしまったけれど、気づいたことはもうひとつある。それは、どうやら今の姿はあたしが死んだ時のまんまであるということ。元々中学校の入学式に向かっていたのだから、制服姿なのはもちろんなのだけれど、その日の朝にこしらえた両肩の辺りにぶら下がる三つ編みまで再現されている。
そして何度も述べている通り、あたしは基本的には何かに触れることはできない。でも唯一あたし自身には触れられるらしく、また身につけているヘアゴムや制服も霊体の一部で、可能な範囲で髪型をイメチェンしてみたり、別にそんな気も起きないのだけれど、多分この服の着脱も自由にできるはず。
と、こんな状態になってから何時間も経っているわけじゃないし、まだまだわかってないこともあるかもしれないけれど、あたしが重要だと感じる部分の把握は済んだと思う──『ダンサー・イン・ザ・ダーク』に関する点、以外は。
現時点で、これが「特定の人物の意識に潜入し幽霊の存在を認識させる能力」だということの他に、得られている情報の方が少ない。まだ一人にしか使っていないし、それもたった数分会話した程度だから、当たり前なのだけれど。
ただ、そこら辺の適当な人間に対して実験的に試してみるなんてことはしない。あたしがこれを使うのは、あくまであたしの求めている「悲劇の主人公」を見つけたときだけ。ルールなんて判明していなくとも、その後でいくらでも確認できるし、都度考えればいい。
だからまあ、何はともあれこうして能力を使うに値する人間を探し歩くしかすることがないのだけれど⋯⋯宛もなくさまようには、あまりにも世界は広く選択肢が多すぎる。
そこで考えたのは、ある程度スポットを絞ってその周辺を中心に巡回してみるということ。次の目的地が定まっていれば収穫がなくても足踏みしなくて済むし、何より飽きづらいと思うから。
そして既にあたしは巡る場所を決めていて、間もなく最初の当該地点に到着しようとしている──ちょうど今見えてきたわ。目前の歩道橋を渡ったすぐ先に、あの日たどり着くことができなかった、あたしが通うはずだった中学校が。
そう、あたしが選んだのは「学校」。せっかく幽霊になっても制服を着ているんだから、一番に行くべきなのはここよね。
それに学校を選んだのには他にも理由がある。これから「悲劇の主人公」を探すのに、最も適している場所のひとつだと考えたから。
大人と子供が否応なしに密集し、閉鎖的空間の中で様々な思惑が交錯するこの場所。上下関係、レギュラー争い、成績不振、体罰、スクールカースト、いじめ⋯⋯などなど。そこから生まれる不平不満が淀み満ちていく学校にこそ、あたしの求める物語はきっとある。
歩道橋の階段を上り、橋面の中ほどまで差し掛かったところで、あたしは堂々とそびえ立つ校舎の方を見上げた。その更に向こうにあるはずのグラウンドからは、活気あふれる溌剌とした歓声や哄笑が、ここにまで届くほど響き渡っている。
この春から、あたしも通うはずだった中学校。小学校での六年間を鑑みたら、やっぱりあんまり期待できるところでもなかったけれど⋯⋯部活動で新しいことを始めてみたり、案外気が合う友達ができちゃったり、そんな「もしも」を考えるとなんだか、やるせないわね。
あたしはこれから全国の学校という学校を渡り歩くわけだけれど、ここだけは特別なのだから、何もなかったとしてもしばらくは、居着いてみるのもアリかもしれない。
「え?」
そんな仮定の未来に思いを馳せながら、尚も校舎の方を睨め回していたら、屋上の縁に佇む人影が見えた⋯⋯ような気がした。
いや、でも見間違いかもしれないし、なにより新年度が始まったばかりのこのタイミングで、早まるような出来事なんてそうそうないんじゃないかしら。
利き目である右眼に近い方の手を丸めて筒状にし、望遠鏡のように覗き込みながら今一度、校舎屋上の縁をなぞるようにゆっくり見直してみる。
「⋯⋯嘘」
今度こそ見間違いでもなんでもなく、確実にその姿を捉えることができた。風に靡く少し大きめの学ランを纏ったその男子生徒は、今でも身じろぎひとつせず、ただぼうっと突っ立っていた。表情まではここからじゃ全くわからないけれど、いやに妖しく儚げな雰囲気はこんな距離でも強かに伝わってくる。
どうして? なんのために? 考えるより先に、あたしは走り出していた。もし彼が何かに絶望していて、すぐにでも身を投げようと思い詰めているのなら、その前にせめて事情を聞き出さなければならない。あたしの求める『救いのない物語』を見届けられる、せっかくのチャンス。だからどうか間に合って、まだ死なないで。
歩道橋の階段を一段飛ばしで駆け下り、流れるように中学校の正門から敷地内に踏み込むと、考えうる限り最短のルートで校舎の屋上を目指した。入学式の日まで他にやることも特になく、毎日のように学校案内のパンフレットを熟読していたあたしの頭には、校内図が正確に叩き込まれていた。
これだけ全速力で走り続けても、心臓も肺もないから疲れないし息も上がらない。⋯⋯いやそもそも息はしていないのだけれど。ともかく滅多に運動することがなく五十メートル走では十秒を切ったことすらないあたしでも、速度を落とさずまっすぐ屋上へと向かったものだから、何分とかからずともその扉の前にたどり着くことができた。
望外の僥倖に思わず上がってしまっていた口角を抑えつつ、目の前の隔てを突破すると、さっきあたしのいた方角に、外から見ていた通り遥か真下の地面とにらめっこしたまま直立している男子生徒の後ろ姿を確認する。
内心ほっとしながら、あたしはすぐさま彼の後頭部辺りを浮遊している黒い毛玉に手を伸ばした。⋯⋯もしかしたら、すぐ目の前で人か飛び降り自殺するところを見られるかもしれない。そんな高揚感に再び口元が緩みそうになるのをなんとか堪え、ついにあたしは二度目の『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を発動させた。
パパの時と同様、解れた糸はあたしの指先から肘、肩、胸、腹部から脚⋯⋯そして顔全体へと瞬時に巻き付くと、やはり溶けるように消えてなくなった。視界が開けると、こちらから声をかけるまでもなく既にその場で振り返りかけていた男子生徒と視線がぶつかった。光を一筋たりとも受け入れない、ブラックホールみたいに深い漆黒の瞳だった。
「おかしいな。鍵は閉めたはずなんだが」
開口一番、抑揚のない淡々とした口調と声で彼はそう呟いた。
「そんなこと言ったらあんただって、なんで屋上に入れてるのよ」
この学校では本来屋上は生徒の立入が禁止になっていて、普段から締め切られている。だからこの男子が平気な顔で侵入できていること自体、そもそもおかしい。
「あーそれは、たまたまこいつを拾ったからだよ」
学ランのポケットから鍵らしきものをつまみ出し、見せびらかすように揺らす。カチャカチャと鳴る耳障りな金属音に、あたしは思わず顔をしかめた。
「拾ったのなら返せばいいでしょう? なんでしれっと利用してんのよ」
「こんな機会そうそうないからに決まってるからだろ」
首を傾げながら、心底不思議そうな表情で彼は即答した。⋯⋯何か変ね。若干の機微は見せても、その奥の感情が読み取りづらい。ここまでの会話の中にも、それを察せられるほどの手応えはなかった。こちらのジャブを、紙一重で躱すかのようなつかみどころのなさ。
調子狂うわね。これ以上無意味な問答を続けていても面倒なだけだし、さっさと本題に入りましょうか。
「それでそんな際どいところに立って、飛び降りでもするつもりだったのかしら?」
鋭角に切り出すと、彼はほんの少しだけ目を見開いた──ような気がした。
「飛び降りか⋯⋯それもありかもな」
「は? 何言って⋯⋯」
「見ろ」
意外な返答に戸惑う暇もなく、さっきまで彼自身が注視していた地面を示される。やはり不気味なその言動を怪訝に思いながらも、とりあえずは倣ってみることにする。
校舎裏に位置するそこは駐車場となっていて、生徒たちにとっては常日頃から特に用事のない場所のはず。でもこの直下に目に入ったのは、四人の男子生徒。人目を忍ぶように、彼らは戯れていた──いや目を凝らしてよく見てみたら、何だか様子が変だわ。
一人の男子は上裸で壁際に立たされ、その両側にしゃがむ二人からは脚を固定されている。その向かいにはエアガンを構えているもう一人の男子がいて、距離を調整しながら何度も発砲していた。弾を当てられた男子が痛みに身体を捩るたび、すかさず両隣のどちらかが髪を引っ張り上げ、無理やり姿勢を真っ直ぐに矯正される。
ほんの数秒の光景でも判断材料としては充分なくらいに典型的な、「いじめ」の現場そのものだった。
「もし俺がここから身を投げるとして、道連れにできるのはせいぜい一、運が良くても二が限界だ。それも確率としてはかなり低いだろうな」
唐突に悍ましい内容の台詞を言い連ねる隣の男子に驚かされながらも、視線を彼に戻し大人しく耳を傾けることにする。
「一人を狙うにしても確実性は極めて薄い。大抵の場合、俺だけ死ぬのがオチだ。でも俺が死ぬのは、少なくとも奴らを全員殺した後だな」
「殺すって⋯⋯なんでまた?」
「お前の方こそ、なんでそんなに俺の事情が気になるんだ? 今初めて会ったばっかりだろ」
こちらの詮索をまたもスカすように、質問を質問で返される。でも確かに、当然の疑問よね。あたしが彼の事情を知らないように、彼もまたあたしの事情を知らないのだから。
「それにまだ、お前がどうやってここに入ってこられたのかも答えてもらってないしな」
「それは⋯⋯あたしが幽霊だからよ。壁とか関係なく移動できるの」
「幽霊か⋯⋯それっぽくは見えねえな」
顎に手を当て、まじまじとあたしの格好を観察してくる。相変わらず、表情は平淡なまま。もっとリアクションしてくれたっていいのに、食えない奴ね。
「何よ。じゃあ他の幽霊にでも会ったことあるわけ?」
「イメージの話だ。白装束とか極端に長い髪とか、そういうな。別に信じられないって言ってるわけじゃねえよ」
「信じてくれてるにしてもちょっと、冷静すぎるような気がするけれど」
率直な印象を口にすると、彼はまた控えめに首を傾けた。
「だって幽霊って、言ってしまえば死んだだけの人間だろ。お前の態度的にも、何かしてくるようには見えないしな」
「まあ⋯⋯言われてみれば。でもそういうイメージからかけ離れていればいるほど、やっぱり信じられないものなんじゃないのかしら?」
「信じて欲しいのか欲しくねえのかわかんねえよ、お前」
わざとらしく後頭部を掻きながら、ため息混じりにそう呟く。ここに来て初めて露わにした、苛立ちの感情。ただしこれも、「若干の機微」に片付けられる範囲内。これだけの言葉を交わしてもまだ、この男子の心が、深層が見えてこない。
「悪かったわね」
「いや。でも信じてんのは本当だぜ。それだけの存在感を放っておきながら、背後に来るまで俺が気づけなかったんだからな」
存在感、ねえ。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』は、他人の意識の中に入り込む能力。その性質上、相手にはその存在を強く認識させてしまうのかもしれない。思い返してみれば、父親もこの男子も、初めはこちらに背を向けていたのに能力を使用した時には既に、あたしからアクションを起こすまでもなく気取られていた。
「どういうカラクリかは知らねえが、まるで頭ん中に直接植え付けられたみたいに、いきなりお前の気配が現れたんだ。いっそ幽霊だって言われた方が納得できるだろ⋯⋯こんなところに土足なのもおかしいしな」
指摘されてはっとする。あたしにとってその必要がないものだから完全に意識の外側だったけれど、校内で上靴に履き替えていないのは、彼にしてみたら確かに異常よね。
「なるほど。不可解な現象のひとつひとつが、あたしのカミングアウトに説得力を持たせたわけね」
「ああ。それで? まだ一個目の質問に答えてもらってないけど」
ひとつあたしが答えたのだから、今度は彼が答えてくれる番かと思ったけれど⋯⋯まあ、最初に質問攻めしちゃってるし仕方ないわね。
「父親に殺されたのよ、あたし」
これまた突拍子のない切り出しにも、彼は表情をぴくりとも変えないまま「ほう」とだけ声を漏らす。そういうタチの人間なんだと再認識しながら、あたしは話を続ける。
「生まれた時には母親はいなかったし、その父親には毎日のように殴られてたわ。あたしは誰にも愛されることがないまま死んだの」
彼の吸い込まれそうなくらい黒い瞳を見つめながら、抗うようにこちらの闇を打ち明ける。双眸に孕んだ闇を一切膨縮させないまま、彼は傾聴に徹していた。
「だからあたしよりも不幸な人間を探すことにした。悲劇で始まり悲劇で終わる、そんな『救いのない物語』を」
「それで俺に行き着いた、ってわけか。ま、確かにこんなとこに立ってりゃただ事じゃないと思うわな」
「ええ、見つけたのはたまたまだけれどね。あたしもこの春からここに通う予定だったのよ。先生達から何も聞いていないの?」
登校途中に死亡して入学式に来られなかった女子生徒がいる、って話なら集会でされていそうな気もするけれど。あたしのために全校で黙祷してくれたっていいはずだし。
「いや、特に何も。ていうかタメだったんだな。てっきり先輩かと思ってたけど」
「えっ、なんでよ?」
あたしの話が一切出ていない事実を流してしまえるぐらい意外なことを言われ、思わず訊き返す。こつん、と後頭部を拳骨で軽く小突かれたような感覚。
「学年色だよ。うちらは赤だろ? でもお前のリボンは違う色だったから」
トントン、と自身の胸板を人差し指の先で叩きながら彼はそう応えた。示されている通り、あたしは自分の胸元に視線を落とすと、確かにリボンの色は赤ではなく緑だった。今年度で言うところの二つ上の学年色だわ。二年先輩だと誤認した上でこの態度だったことには驚きだけれど、とりあえずは目を瞑ることにする。
「お下がりってやつか? でも色ぐらい揃えるだろ、普通」
その一言だけで、なぜ学年違いの制服を着ているのかがあたしには理解できた。理解できてしまった。でもそれは、もうどうだっていいことのはず。なのに、話題を変える次の言葉がなかなか出ない。
「ってか、何か聞いてるかもってことは学校が始まってから死んだのか? いつだよ?」
「ああ⋯⋯始まってからもなにも、入学式の日よ。今日から数えたら二、三日ほど前ってとこかしら」
「は?」
不意に愕然とした様子で柄にもなく間抜けな声を漏らす彼に、「なによ」とだけ返す。
「いや⋯⋯学校が始まったのは先週からだから。記憶か計算か、どっちかは間違ってるんじゃないか?」
「死んですぐ幽霊になったわけじゃないからわからないわよ。葬式の日程から逆算してアタリをつけただけだし⋯⋯」
そこまで言って、あたしはこの食い違いに対するひとつの解答を見出した。それはさっきの制服の問題と繋がる──可能性がある。いやそれどころか、確信に近かった。だからこそ、この件を追及することに本来必要性はない。けれど、
「ねえ。今日って何月何日かしら?」
確認せずにはいられなかった。あたしの死の真相を突き詰めるためなら太陽にさえ飛び込めるって、覚悟したんだもの。おおよそのあらすじはパパの口から聞くことができたけれど、細部まで解明できる機会があるのなら、掘り返す意義は十二分にあるわ。あたしの魂のためにも。
「四月十八日の木曜日だよ。ついでに一応、入学式は先週の八日だ」
ご丁寧に、聞いてないことまで。でもこれではっきりしたわ。あたしが入学式の日だと思っていた三日前の十五日は、偽の日程だったということ。でも確かにどうせ殺す計画なら、わざわざ本当のスケジュールを伝えておく必要も無い。この制服も、緻密に偽造された年間行事の載ったパンフレットも、用意周到な罠だったと。
ちっぽけな少女ひとりのためにそこまでするか、なんて嗤笑が思わず零れてしまうぐらいに、あたしの運命はどうやら蟻地獄の奥底で雁字搦めにされていたらしい。
でもこれでいい。なぜならあたしはもう、ひとりじゃないから。たった数分のあの時の会話で、言葉で、パパの足を搦め捕った。この絶望の巣穴に引きずり込んだ。これで奴も、あたしの命を奪うためにかけた労力の分だけ、後悔の渦中で揉まれることになる。
奴の禿頭を踏み台にすれば、地上に顔を出すことはできる。辺り一面の砂地を、眺望することはできる。他の巣穴の様子はどうか。今目の前にいるこの男子は、どんな形の蟻地獄に囚われているのか。
「どうかしたか?」
「いいえ。でももうあたしの話はいいでしょう、終わった人生なんだし。そろそろあなたのことも聞かせてちょうだい」
急に黙りこくってしまったからか、訝しげに顔を覗き込んできた彼にすかさず切り返す。一息に唸りながら、彼はまたわざとらしく後頭部を掻きむしった。
「別にいいけど⋯⋯話すと長くなるし、少なくともこの昼休み中じゃ収まりきらないぞ」
「どうせこれからしばらく一緒に行動することになるんだし、ちょこっとずつでもいいわよ。できれば今日中だけでまとめてくれたらありがたいけれど」
「そんな勝手に⋯⋯まあ、着いてくんのは構わないけど邪魔はすんなよ」
「言われなくてもしないわよ。あたしはあくまで映画や舞台の観客、小説や漫画の読者に過ぎないのよ。物語の中になんか入れるわけがないでしょう?」
彼の心外な杞憂に、すらすらと反論の言葉をまくしたてる。少し面倒くさそうに眉をひそめながら、彼はしきりに相槌を打っている。
「あたしはただ、あなたの生を観ていたいだけ。だから安心しなさい」
「ああそう。ならいい」
無愛想に吐き捨てると、彼は身を翻し、屋上の縁の迫り上がった部分に腰掛けた。
「それじゃあ明日は決まったことだし、そろそろお互い名乗らない?」
呼び方を改める一遇のチャンスを逃すまいと、彼が息を吸う前に先手を打つ。自己紹介のタイミングにしては、遅すぎるような気もするけれど。
「あたしは黒江萌倖。見た目通りの可愛らしい名前でしょう?」
「⋯⋯紫堂レイだ」
こちらの問いかけを完全にシカトしながら、可愛げなく自らをそう名乗ると、彼──レイは「時系列が前後するかもしれないけど」とだけ断りを入れ、しどろもどろながらも語り出した。
どこか心地よく思えるほどの平坦な語り口調を保つレイに、今はただ、風にそよぐ草木よりも静かに傾聴することにした。




