第九話「ナナミとシロ」
午後の授業が終わった。レイの言いつけ通り、あたしは自分の影ができないように蛍光灯の真下に出ることはせず、ただ教室の隅っこでじっとしていた。これまでの授業を受けていないから内容はさっぱりだし、そもそもあたしはもう勉強する必要なんてないのだから、チャイムが鳴るのを待っているだけでとてつもなく退屈だったけれど。
ロッカーの上に腰掛けたり、寝っ転がったり、先生の出した問題に対して答えが分かってもないのに手を挙げてみたり⋯⋯教室内の様子を観察してみたり。思いつく限りの時間潰しを試しに試してようやく漕ぎ着けた今、帰りのホームルーム前の時間。しかしそれが始まるより先に、足早に教室から出ていく影がひとつ──少し遅れてもうひとつ。
廊下側最後列の席を空けたのは、問題児筆頭・青葉スイレン。追いかけるように中央の席から後方の出入口まで突っ切って行った醜い肥満体型の男子は、スイレンの腰巾着である田子。
五限終わりの休み時間にレイから聞いた話によると、本来出席番号順では最前席になるはずだったスイレンは、入学早々同じ列の一番後ろに座っていた生徒に交換を申し出、半ば無理やりそれを呑ませたという。
担任の教師も一度は元に戻すことを指示したものの、なぜだか席を代えさせられた生徒の方が「視力の低さを理由に替えてもらった」と申告したことにより受け入れ、以降は一切口出しをしていないらしい。
何はともあれ、そのような出来事もあってスイレンは奇しくもレイの右後ろの席に位置することとなった。その隣、即ちレイの真後ろには同じファミリーホームの一員である白羽シロの席があり、ひとり黙々と荷物をまとめるレイとは対照的に、机の中のものを鞄にしまう手を度々止めながら周囲を取り囲む友人たちと談笑する彼の座している場所は、あたしから見てもまるで別世界のようだった。
机の天板よりも上に頭頂部が一ミリたりともはみ出ないよう姿勢を低くしながら、また他の生徒たちと接触しないよう細心の注意を払いながら、あたしはレイの席の傍らまで近付いて行った。
多数の人間がひしめき合うこの隙間時間では、ないはずの影が動いていてもなかなか気づきづらいし、もし誰かと衝突することがあっても多少の誤魔化しは効く。そうまでしてあたしがレイの近くに来たのは、どうしても今すぐ確認したいことがあったから。
「ね、スイレンたち出ていっちゃったけれど、追わなくても大丈夫なの?」
どうせあたしの声はレイ以外には聞こえないのだから、別にそうする必要はないのだけれど、なぜだかあたしはすぐそばの彼に対し囁き声で問いかけていた。
「いつものことさ。中村のやつが逃げないよう、向こうのクラスに出待ちしに行っただけだ」
帰り支度を続けつつおもむろに鞄を立て、口元の動きを周囲に悟られないようレイはあたしに倣ってひっそりと返答をした。意識して彼の話す内容に耳を寄せなければ聞き取れないくらい、教室の喧騒の中では心許ない声量だったけれど。
「心配するな。ホームルームが終わる時間にどこも大して差はない。もしこっちの方が遅くなったとしても、すぐ追いつける」
「そう⋯⋯ならいいけれど」
瞬間、前方の出入口がガラッと開かれ、ひとりの若い女性教師が入ってきた。このクラスの担任のようだった。
「はい、みんな着席ー。ホームルーム始めますよ」
徐々に静寂が満ちていく教室内で、皆が続々と自分の席に着く中、どさくさに紛れてあたしはこの部屋の隅っこに戻った。
少しの間、また退屈になる。でも改めてクラス全体の雰囲気を見て、問題児の消えたこの空間はどこか緊張感が抜けているように感じた。
各教科係、担任からの連絡が滞りなく完了し、最後に号令を済ませると、生徒たちは各々の放課後を過ごし始めた。そんな中で速やかにひとり教室を後にしようと席を立つレイ。しかしつま先の向きを変えたその刹那、「待って」と彼を呼び止める透き通った弱々しい声がひとつ。
「どうした? ナナミ」
胡桃沢ナナミ。短めのおさげを両耳の辺りから垂らした可憐な少女。とは言ってもまあ、あたしよりは劣るけれど。それより髪型が若干被っているの、なんだか嫌な感じね⋯⋯。
彼女は教室の外へと身体を向けたまま視線だけ送り返すレイの眼前まで歩み寄ると、その背後で胡散臭い笑顔を貼り付けたままさっきのように友人たちと駄弁を弄するシロの様子をやや気にしながら、こそこそと紙袋を差し出した──ボソボソと、あたしの今いるこの位置からは聞き取れないような小さい声で何かを吹き込みながら。
あんな声量じゃあ、あたしよりも近いところにいるシロにも聞こえているかどうか怪しい。いや元からレイにだけ伝えるつもりで話しているのかもしれないけれど。それにつけても、あれほどまでの気の遣い方は異様に思える。
「ああ、わかった」
そうとだけ返答しながら紙袋を受け取ろうとレイの伸ばした手がナナミの指に軽く触れた瞬間、ビクッとナナミの全身が跳ねた。同時に、過剰とも言えるほどに彼女は紙袋ごと腕を引いた。更に両肩を緩慢に上下させながら、こめかみの辺りに汗を流している。
眉間にシワを寄せ細めた視線を段々と落としていくナナミの顔を、腰を低くして覗き込みながらレイが呼びかけると、彼女の方もハッと正気を取り戻した。不自然な反応。一体あの子は、何を抱えているんでしょうね。
「悪い。触れるつもりはなかったんだが」
「ううん、違うの。ちょっとびっくりしちゃっただけ。私の方こそごめん」
言い終えてからひとつ深呼吸し、今度は紙袋の底の部分を両手で抱えるように持ち替えると、レイの方も彼女の意図を汲んで持ち手の部分を掴むように受け取った。確かにこの方法なら、間違ってもお互いの指が触れることはない。
「それじゃあ、よろしく頼んだわね」
「ああ、また後でな」
事情を知らない第三者からしたら少々不自然にも見えるような挨拶を交わすと、ナナミは先に背を向け駆け足で前の出入口から退室した。
その背中を見送った後でレイは一瞬だけ渡された紙袋の方に視線を落とし、それから振り返りざまに机の上に置かれていた自身の鞄を手に取ると、ナナミが出ていった方とは逆の出入口へと歩を進めていく。
すかさずあたしも彼と合流し、共に廊下へと出る。直前、シロの方に一瞥だけ送ると、まだどうやら他の生徒たちと談笑を続けているようだった。
レイに対して無関心なのか、そういう風に見せかけているだけなのか。虚仮のような笑顔の裏側に隠された秘密を、本心を、あたしはまだ知らない。そう──今はまだ、それでいい。どうせいずれ目にすることになるのだから。彼らがそれぞれ秘めている真の顔、闇を。
だからひとまずは、目の前の物語に集中しなくては。レイの影を踏みながら、その背後にぴったり着いていく。




