5. てがかり
昨夜の記憶は、途中で途切れている。
視界が滲み、知らない天井が二重に揺れていた。
(……最悪だ)
――確か、スピリタスに勧められるまま酒を頼んで。
飲みやすさに調子に乗って、ペースを上げて。
『お馬鹿さんね♡』
その、楽しそうな笑い声を最後に、何も覚えていない。
いつの間に、こんなところに。
「……はめられた」
そう呟くとスピリタスがベッドの奥からひょこりと顔を出した。
「はめてないわよ♡
ちゃんと“強いお酒よ”って言ったじゃない」
昨夜は、スピリタスがテキーラをショットで流し込んでいたのを横目に、お酒の味が苦手なクロードは飲みやすい甘めのカクテルを探していた。
「ロングアイランド・アイスティーなんてソフドリ同然だと思うじゃないですか!」
「レディキラーカクテルよ。覚えておきなさい。」
会話に合わせて頭がズキズキと痛み出す。
「水……」
「はいはい」
差し出されたコップを受け取り、一気に喉へ流し込む。
冷たい水が焼けた喉を通り過ぎ、グラついた脳が少しだけ正気を呼び覚ます。
スピリタスが、悪魔のようににっこり笑う。
「学院に行く前に、今日は買い出しに付き合ってもらうわよ」
「……俺、この状態なんですけど」
立ち上がれる気がしない。というか、立ち上がりたくない。
「大丈夫大丈夫。死にゃしないわ♡」
何も大丈夫ではない。
とりあえずシャワーを借り、服を着替える。
スピリタスに促されるまま外に出ると、太陽が容赦なく照りつけてきた。
白く反射する石畳、行き交う人々のざわめき、遠くで鳴る呼び声。すべてが頭に直接響いてくる。
「……っ、頭が割れる……」
「情けないわねえ。ホレ」
よろよろと真っすぐ歩けないでいると、さすがに気を使ったのか、スピリタスが足を止める。
「二日酔いの薬あるなら早く言ってくださいよ!!!」
「この素材コスパ悪いからギリギリまで使いたくなかったのよ。感謝しなさい」
薬を飲んでしばらくすると、視界が徐々にクリアになってくる。
周辺を見渡す余裕が出てくると、グランドールにはない、カラフルな品々に目を奪われる。それと同時に、スピリタスを遠巻きに見る視線の数々。男からも。女からも。
ー畏れ、憧れ、嫉妬。
グランドールよりもよほど「魔女」という存在が大きいのか、スピリタスは有名人のようだ。隣を歩くクロードにもその視線が突き刺さる。
スピリタスは気にする様子もなく、怪しい店の前で何度も足を止める。そして買い物の品が増えるたび、荷物を押し付けられる。
「これと、これと……あ、それも」
「……何に使うんですか」
「実験♡」
最早何に使うのか分からない素材を手早く選び取る。引き留める店主を背に、颯爽と黒髪をなびかせ、次の店へ向かう。
露店街を抜け、少し暗くて奥まった通りに入ると、ガラッと雰囲気が変わった。
ジェドナ王国は砂漠に囲まれており、カラっと腹の奥からじんわりと熱が伝わってくる空気のはずなのに、ここだけは雨の香りがする。
どこの看板も控えめだが、並ぶ品には不思議と触れたくなる魅力と危険さが共存する空気が宿っている。怪訝な顔をするクロードを感じ取ったのか、スピリタスがこっちを向いた。
「夜烏通りよ。ここの品はうかつに触れないで。
魔女が求める品は大体揃ってるけど、その分、取扱いには気をつけなきゃいけないの。」
珍しく真面目な顔だ。
「魔道具やその素材は触れただけ触れただけで“力を発揮してしまう”ものがある。そして、強制的に対価を払わされることがあるのよ。
...まあ、そうならないように仲介するのが魔道具屋の仕事なんだけど。」
「対価って具体的には?」
「ん~、これが時によって場合によりけりなのよね、厄介なことに。
まあ、私が言えることは魔女ライセンスすら持たない人間が、専門知識もなく触ると痛い目に合うってことだけね。」
「あと、たっっっかいわ。」
「へ?」
「ここらで働いてる人たちはね、学院出身者が多いの。だから、目利きも一流♡
グランドール国で売ってたら倍の値段するわよ」
「倍...」
「やっぱり、魔女にとっても魔法学院は大きな存在なんですか」
「もっちろんよぉ。魔女の資格を得るには魔法学院への入学がメジャーだしね」
「スピリタス様もここのご学院出身で?」
「ん〜内緒♡」
そう言いながらスピリタスは、迷いなく一軒の店に入っていく。
「ここよ」
店内には小瓶入りの鈍く光を放つ鱗片や、ビーカーに入った淡く光る液体、生け捕りにされた棘付きヤモリ。所狭しと奇妙な物体が無秩序に置かれている。まさに「雑然」という言葉がぴったりの空間だ。
「いらっしゃ――」
カウンターの奥から出てきた女店主は、顔を上げた瞬間、目を丸くした。
「……あら。スピリタスじゃない」
「チャオ〜。久しぶり♡」
まるで近所の常連にでも声をかけるような調子だ。
「相変わらず、派手ね」
「失礼ね♡今日は客なんだから、ちゃんと接客して頂戴」
女店主は肩をすくめつつ、俺の方を見る。
「……そちらさんは?」
「荷物持ち」
「弟子?」
「まあね~♡」
「やめてください」
即座に否定すると、二人して楽しそうに笑った。
「まあいいわ。奥、見ていって。最近いい素材が入ったの」
「さすが♡話が早いわ」
慣れたやり取りを交わす。
どうやら、この店もスピリタスの縄張りらしい。まだまだ荷物が増えそうな予感にそっとため息をつく。
店の奥は、表よりもさらに雑多なものであふれていた。
棚には無造作に置かれた瓶、吊るされた護符、乾燥した何かの臓器。
空気が、ほんのわずかに重い。恐らく、表よりも危険なものを取り扱っているのだろう。
棚を眺めていたクロードの足元で、かすかな音がした。
ちりん。
軽く乾いた音。
視線を落とすと、床に小さな石が転がっている。
翡翠色。親指の先ほどの大きさで、内部に薄い光を宿していた。
(……何だ、これ)
拾おうとしたわけではない。
ただ、避けきれず、靴先が触れた――その瞬間だった。
視界が、裏返る。
天井が遠ざかり、床が迫り、世界が一回り大きくなる。
「……にゃ?」
喉から漏れたのは、間抜けな鳴き声だった。
自分の声だと理解するまでに、数拍かかった。
低くなった視点。黒い毛に覆われた前脚。
バランスを取ろうとして、よろりと揺れる身体。
(……は?)
混乱する間もなく、店内に笑い声が響いた。
「あははっ、ちょっと見なさいよ」
スピリタスが腹を抱えている。
「やだ、猫になったわよこの子」
「……あらまあ」
女店主も口元を押さえ、くすりと笑った。
「変身系ね。しかも即時発動型」
「にゃっ!? にゃあ!!」
抗議のつもりで鳴くが、二人には完全に面白がられている。
「大丈夫よ。変身型なら時間が経てば――」
そこまで言いかけて、スピリタスの視線が床に落ちた。
翡翠色の小石。
ころりと転がるそれを見た瞬間、彼女の表情から、笑みが消える。
「……それ、どこから来たの?」
声のトーンが変わった。
女店主も気づき、しゃがみ込む。
小石を、素手で触れないよう、布越しに拾い上げた。
「……予感の石」
空気が、ぴんと張り詰める。
「偶然落ちるような代物じゃないわね」
クロードは、二人の様子を見上げながら、背筋が冷えるのを感じていた。
(予感……?)
次に起こることを知らせる石。
――嫌な予感しかしない。
その時。
ちりん。
店の扉の鈴が鳴った。スピリタスと女店主が、同時に顔を上げる。
入ってきたのは、一人の男。
砂色の外套。
顔の下半分を覆う布。
柔らかく、愛想のいい目元。
クロードの心臓が、跳ねた。
(……こいつだ)
記憶の奥に、引っかかる。
ルゼリアの家。
時折、訪れていた商人。
物腰が柔らかく、「珍しい魔具を扱っている」と紹介されていた男。
(間違いない……)
「いらっしゃいませ」
女店主の声は、完璧に平静だった。
「今日はどういったご用件で?」
「ええ。少し前に話していた“例の品”を」
記憶の中の穏やかな声。
「相変わらず、嗅覚がいいこと」
「お褒めに預かり光栄です」
二人は、にこやかに言葉を交わす。
だが、その空気は、薄氷の上だ。スピリタスは何も言わず、鋭い視線だけを向ける。
「にゃあ!!にゃ、にゃあ!!」
クロードは必死に鳴き、前脚で床を叩く。
(そいつだ!そいつが――!)
だが、猫の声は、警戒の視線にはならない。
「おや。 随分と人懐っこい猫ですね」
商人が視線を落とす。
クロードと、目が合った。
一瞬。
ほんの一瞬、男の目が細まった気がした。
ぞわり、と毛が逆立つ。
「この子に好かれるなんて、珍しいわね」
スピリタスは、意味ありげに微笑んだ。
商人は肩をすくめる。
「では、例の品を」
女店主は無言で頷き、奥から包みを持ってくる。
中身は見えない。
だが、嫌な気配だけが漂っていた。
取引は、あっという間に終わってしまった。
「それでは、また」
男は軽く会釈し、扉へ向かう。
鈴が鳴り、外の光が差し込む。
そして――消えた。
店内に、重い沈黙が落ちる。
「……今の客、何者よ」
スピリタスが低く問う。
女店主は、首を横に振った。
「悪いけど、話せないわ」
きっぱりと。
「魔女には守秘義務がある。お客の素性も、取引内容も」
クロードは、床に座り込んだまま、歯噛みする。
(……くそ)
分かっているのに。繋がっているのに。
今は、猫の姿で、にゃあと鳴くことしかできなかった。




