3. メロル姉さん様
廊下の奥。
扉の向こうから、甘ったるい笑い声が漏れている。女の声。複数。
――やっぱりやめようか。
一瞬本気でそう思ったが、ここまで来て引き返すのも癪だ。
意を決して、ノックはせず、懐から紙を取り出す。
用件だけを簡潔に書き、ドアの隙間からすっと差し込んだ。
『お話があります。どうか、二人でお話しできないでしょうか』
数秒の沈黙。
そのあと、深いため息とともに、聞き慣れた声がした。
「ごめんね、今日はもう終わり。
また今度遊んであげるから、いい子にしてられる?」
「「は~い♡」」
ぱたぱた、と軽い足音が近づいてくる。
反射的に壁際へ身を寄せ、視線を切る。
「お邪魔しました♡」
「またぜひ呼んでくださいね♡」
……意外と礼儀正しい。
思っていたよりちゃんとしているな、とどうでもいい評価が少しだけ上がった。
足音が遠ざかったのを確認した、その瞬間。
「で?」
背後から、ずしりと圧がかかる。
空気が一段冷えた気がした。
振り向くと、腕を組んだ姉ちゃんが立っていた。
にこりともせず、ただじっとこちらを見下ろしている。
――ああ、これは怒ってる。
「アタシの蜜月を邪魔したからには、
それ相応の理由があるんでしょうね?」
さすが我が家の女帝だ。逃げ道は、最初から存在しない。
俺は一度だけ深呼吸して、視線を正面に戻した。
「……ルゼリア様のことです」
その名前を出した瞬間、姉ちゃんの表情が、ほんの一瞬だけ揺れた。
「昔と比べて、様子が変わったことはなかったか。何か……おかしい兆候を、知ってたら教えてほしい」
メロルはしばらく黙ったまま、俺を見つめていた。
やがて、ふうっと小さく息を吐く。
俺を見つめる視線は鋭いままだが、さっきまでの圧とは少し質が違う。
「……あんた、あの人の話をするために、わざわざ帰ってきたの?」
「傷心旅行の途中です。……ついで、みたいなもんですよ」
「嘘が下手ね」
即座に切り捨てられて、何も返せなくなる。
姉さんは肩をすくめると、部屋の奥を顎で示した。
「ほら、入んなよ」
甘い香の残り香と、乱れたクッション。
メロルは何も気にする様子もなく、椅子に腰を下ろす。
さっきまでの名残がそのまま残る私室に、正直あまり入りたくはなかったが、今さら引き返す選択肢もない。
「それで。ルゼリアがどうしたの?」
俺は、日記に書いてあったことをなぞるように話した。
訓練が過激になっていったこと。
屋敷に出入りするようになった商人のこと。
優しかったはずの声が、いつの間にか冷たく歪んでいたこと。
――そして、禁術を使い、今もなお俺に執着している様子を見せていたこと。
言葉にするほど、自分の声が他人事みたいに聞こえた。
メロルは相槌も打たず、ただ黙って聞いている。
「……そう」
すべて話し終えたあと、ぽつりとそう言った。
「正直に言うわね。アタシも、はっきりした原因は知らない」
胸が少しだけ沈む。
「でも――兆しがなかったわけじゃない」
姉ちゃんは視線を落とし、指先で机を軽く叩いた。
「学院に入ってから、よ。あの子、やたらと“心”の話をするようになった。
人の感情はどこまで操れるのか、とか。壊れた心は、どこまで戻せるのか、とかね」
嫌な予感が、背筋をなぞる。
「それ、研究の一環だったんですか」
「最初は、ね。でも途中から……どこか、焦ってるみたいだった」
姉ちゃんは一度だけ目を閉じ、続けた。
「誰かに急かされてるような。
“間に合わなきゃいけない”って、思い詰めてるみたいな顔」
あの商人の顔が、脳裏をよぎった。
「……姉ちゃんは、そのことを」
「止めなかった。止められる立場だとも思わなかった」
きっぱりと言い切られる。
「公爵令嬢で、成績優秀で、将来も約束されてた。周りが口出しできる空気じゃなかったわ」
しばらく沈黙が落ちた。
「でもね」
姉ちゃんは顔を上げ、まっすぐ俺を見る。
「もし真相を探すつもりなら、アタシもルゼリアも通ってた魔法学院に行くのが一番早い」
「……学院?」
「ええ。研究資料も、人の噂も、全部そこに集まる」
世界に三つしかない魔法学院。
その一つがある国の名を、姉ちゃんは告げた。
「ジェドナ王国よ」
聞いたことのある国名だった。魔法と商業が入り混じり、どこか享楽的で、胡散臭い国。
「香辛料の匂いがして、酒がうまくて、
人も多くて……まあ、傷心旅行には向いてるかもね」
冗談めかした口調だったが、目は笑っていなかった。
「行くの?」
問われ、俺は少し考える。
正直、怖さはある。
でも、このまま何も知らずにいる方が、もっと怖い。
「……行きます」
そう答えると、姉ちゃんは小さく息を吐いた。
「そう。なら、無理だけはしないこと。壊れたもの全部を、背負い込まなくていい」
その言葉が、妙に胸に残った。
こうして、俺の傷心旅行の行き先は決まった。
グランドール国を離れ、恋と喧騒の国――ジェドナ王国へ。
ただ、確かめるためだ。
――あの人が、どこで道を踏み外したのかを。




