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従者クロードの傷心旅行  作者: きさきなのは


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2. クロードの過去

サミュエル男爵家。


クロードの生家であり、十年近く足を向けていなかった場所だ。

兄は放蕩中、姉は魔女。


昔から賑やかで、自由すぎる家だったが——本当のところ、それが嫌いだったわけではない。

むしろ、自分が変わってしまった今でも、変わらず迎え入れられるのか。それが、怖かったのだ。


夕食の席では、仕事はどうだ、体は壊していないか、その主人はどんな方だと、次から次へと言葉が飛んでくる。

暖かく、くすぐったいほどの愛情だと分かってはいる。けれど、早くに家を出てから十年。


この家で「優等生の次男」として過ごしていた頃の自分と、今の自分が、同じ人物だとはどうしても思えなかった。


食後も早々に席を立ち、割り当てられた自室に引っ込む。懐かしい匂いのする部屋だった。


最低限の調度品と、使われないまま時を過ごした机。

引き出しを開け、閉め——その奥で、指先に紙の感触が触れた。

 

日記だった。

 

表紙の色を見た瞬間、胸の奥がひくりと引き攣る。

ルゼリア様に仕えていた頃、業務の合間に書きつけていた記録。持ち出した記憶すら曖昧で、まさか実家に残っていたとは思わなかった。



「……まだ、あったのか」



 迷いながらもページをめくる。


それと同時に、今まで封じ込めてきた記憶が、音を立ててほどけていった。








 ――ルゼリア・アイスベルク公爵令嬢に出会ったのは、四つ年上の姉が招待された、初夏の午後のお茶会だった。

普段より念入りに髪を整えられ、少しだけ大人びた服を着せられて、メロルと並んで庭園へ足を踏み入れる。


薄桃色の薔薇が一面に咲き誇り、蔦が音もなく石壁を這っており、柔らかな陽光は、まるで祝福のようだった。



「あら、サミュエルご姉弟ではないですか。ごきげんよう」



人見知りだった俺は、姉の背に隠れてしまった。

それでも、優雅なカーテシーを披露する少女に、一瞬目を奪われたことは覚えている。

姉と親しげに話すその少女には、すぐに懐いた。



「るぜりあさま!」


「まちでかってきたの、メロルにはナイショよ?」



「るぜりあさま!」


「クロードはいつもかわいいわねえ。わたしの弟になる?」



「るぜりあさま!」


「ねえ、クロード。わたしの執事になれば、ずーっと一緒にいられるのよ?」



 幼かった俺は、おままごとの延長のような気持ちで頷いてしまった。

 従者の意味も分からぬままに。




 ルゼリア様は、少し気まぐれで、わがままなところはあったが、優しかった。

 泣き虫だった俺は、失敗するたびにキッチンの物陰で膝を抱えていた。

 いつも探し出してくれたのは彼女で、必ず同じ目線まで腰を落とし、顔を覗き込んでくれた。


「クロードはわたしの執事なんだから、堂々となさい」


 出来の悪い弟を見るような、その笑顔が好きだった。



 仕えるようになってから二年。ルゼリア様は魔法学院に通い始めた。



 男子禁制のため、俺は同行できず、代わりに与えられたのが——暗部としての訓練だった。


 情報収集、裏の処理、護衛。


 筆頭執事候補として必要だと言われたそれは、成長途中の体には過酷だった。


 それでも、耐えた。


 鞭の痛みも、毒蛇の冷たい感触も、すべては「隣に立つため」だと信じていた。



 だが、本当に辛いのは、そこからだった。

 



とある商人の男が屋敷に出入りするようになってから、空気が歪み始めた。


 公爵家全体が、張りつめた緊張に包まれ、使用人たちは怯えていた。

 ルゼリア様と顔を合わせる機会は極端に減った。

 廊下ですれ違っても、目を合わせてもらえない。



「暗部としての訓練よ。あなたは、もっとできる子でしょう?」



 そう言って、彼女は俺を暗い部屋へ連れて行った。

 その声は優しいはずなのに、どこか冷たく、歪んでいた。


 殴打。鞭。



「痛い?」



と微笑むその瞳は、何かが抜け落ちたように空虚だった。



「痛覚、薄いのね。面白くないわ」



 苛立つように唇を噛み、彼女は背後の商人を呼ぶ。



「この子、もっと追い詰めてあげて。効かないみたいだから」



 符が肌に貼りついた瞬間、頭の奥が押し潰される。


――怖い。 ――怖い、怖い、怖い。


けれど、それは術のせいではなかった。

自分が慕っていた人が、目の前で自分を見下ろしている。


その現実が、何よりも苦しかった。



「ねえ、どうして逃げないの? あなた、いつも私の言うこと聞くからかしら?」



呼吸がうまくできなくなった。


胸が締めつけられ、空気が入らない。


(ちがう……ルゼリア様は……)



十五になる年、俺は壊れた。


叱責のたびに呼吸が浅くなり、やがて夜勤明けの廊下でうずくまる。



「……みっともない。失望したわ」



 それが、とどめだった。



(もう、無理だ……)



 日記を閉じ、胸に押し当てる。


 苦い後悔と、名付けられなかった感情が、静かに疼いた。


 ——そういえば。


 姉さんは、ルゼリア様の幼馴染だった。


 壊れる前の彼女を、俺よりずっと近くで知っていたはずだ。



「……聞くしか、ないよな」



 逃げてきた十年分の時間が、重くのしかかっていた。


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