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泥棒猫には極上の毒を

作者: 秋月アムリ

 王都の春は、むせ返るような花の香りで幕を開ける。

 王宮の広大な庭園で開催されるティーパーティは、その春の訪れを祝うもっとも華やかな催しだ。

 色とりどりのドレスを纏った貴婦人たちが蝶のように舞い、紳士たちが談笑する風景は平和そのものに見える。

 だがその実態は、硝子の破片を散りばめた絨毯の上を歩くような、見えない緊張感に満ちた戦場でもあった。


 その中心に一際輝く男女がいた。

 王太子、ジュリアン・アシュレイ。

 そして彼の婚約者である公爵令嬢、レティシア・オルティスだ。


 ジュリアンは絵画から抜け出してきたかのような美貌の持ち主だった。

 陽光を浴びてプラチナブロンドの髪が煌めき、紫石英(しせきえい)のような瞳はどこか憂いを帯びて遠くを見つめている。


 彼がただ微笑むだけで、周囲の令嬢たちは頬を染め、ため息を漏らすのだ。

 まさしく神に愛された造形美と称されるに相応しい。


 対してレティシアは、氷の彫像のように冷ややかな美貌を持っていた。

 豊かな白銀の髪を一分の乱れもなく結い上げ、背筋を伸ばしてジュリアンの半歩後ろに控えている。

 その瞳は鋭く周囲を巡回し、まるで獲物を狙う鷹のようだった。

 彼女は常に扇で口元を隠し、ジュリアンに近寄ろうとする者を無言の圧力で牽制している。


(今日もまた、始まったわね)


 会場の端でその様子を、冷ややかな笑みとともに見つめる者がいた。

 伯爵令嬢、メロディア・コーネットだ。


 彼女は蜂蜜色の髪を緩く巻き、流行の最先端を取り入れた淡い桃色のドレスを着こなしている。

 愛らしい顔立ちと、計算され尽くした無邪気な振る舞いで、最近社交界で急速に評価を上げている存在だ。


 メロディアは隣にいた友人に囁いた。


「ご覧になって。レティシア様ったら、今日も殿下を独り占めなさって」

「まあ本当。まるで看守のようね」

「殿下が可哀想だわ。あんなに素晴らしい方なのに、息をするのも窮屈そう」


 周囲の同調する声に、メロディアは満足げに頷く。

 彼女の狙いは明確だった。

 王太子妃という座。

 そしてそれを手に入れるために排除すべき最大の障害が、あの堅苦しく面白みのない公爵令嬢レティシアだ。


 メロディアはグラスを給仕に預けると、自信に満ちた足取りで王太子の元へと向かった。

 彼女の武器は若さと愛嬌、そして男の庇護欲を掻き立てる演技力だ。

 あの防御を崩すことなど、彼女にとっては遊戯の一環に過ぎない。


「ジュリアン殿下、ごきげんよう!」


 鈴を転がすような声で、メロディアは二人の間に割って入った。

 完璧なカーテシーを見せつつ、上目遣いでジュリアンを見つめる。


 ジュリアンはその声に反応し、ゆっくりと視線をメロディアに向けた。

 その瞳が一瞬、虚空を彷徨うように揺れる。


「……あ」


 ジュリアンが何かを言いかけた瞬間、レティシアが素早く一歩前に出た。

 まるで王太子の言葉を遮るかのようなタイミングだった。


「ごきげんよう、コーネット嬢。本日は天候にも恵まれ、素晴らしいお茶会ですこと」


 レティシアの声には抑揚がない。笑顔は張り付いた仮面のようだ。

 だがその瞳の奥には、焦燥のような色が微かに揺らめいているように見えた。

 メロディアは内心で舌を出した。


(また邪魔をする。自分が会話に入れないからって、殿下の発言まで管理するつもり?)


「ええ、本当に。あの、私、殿下に見ていただきたいものがあって」


 メロディアはレティシアを無視し、ジュリアンに一歩詰め寄った。

 手にしたのは、自身が刺繍したというハンカチだ。

 王家の紋章が不器用ながらも一生懸命に縫い込まれている。


「先日のお礼にと思いまして。拙い出来ですけれど……受け取っていただけますか?」


 ジュリアンはぼんやりとハンカチを見つめた。

 その美しい顔には、何の感情も浮かんでいない。

 ただ静かに、差し出されたものを受け取ろうと手を伸ばす。


 バシッ。


 乾いた音が響き、周囲の視線が一斉に集まった。

 レティシアが扇で、ジュリアンの手を軽く叩いたのだ。

 そして素早くその手を自分の手で包み込み、下ろさせた。


「……レティシア?」


 ジュリアンが不思議そうに呟く。

 レティシアの顔は蒼白だった。


 彼女は必死な形相で、ジュリアンの耳元に何かを囁く。

 そしてすぐにメロディアに向き直り、毅然と言い放った。


「お気持ちは感謝いたしますわ、コーネット嬢。ですが、王族が軽々しく臣下からの贈り物を受け取るわけにはいきませんの。特に、身につけるものは」


 その言葉は正論だ。

 毒や呪いの可能性を考慮し、王族への贈り物は厳しい検査を経るのが通例である。

 だが、あの美しい王太子がただハンカチを受け取ろうとしただけで、手を叩いてまで阻止する必要があっただろうか。

 周囲の空気は一瞬にして凍りつき、そしてすぐにヒソヒソとした非難の声へと変わった。


「あの方、叩きましたわよ」

「嫉妬深いのにも程があるわ」

「メロディア様が可哀想ですわ。あんなに純粋ですのに」


 メロディアは、この状況を最大限に利用することにした。

 彼女は殊更に傷ついた表情を作り、大きな瞳に涙を溜めてみせる。


「申し訳……ございません。私、ただ殿下に喜んでいただきたくて……。出過ぎた真似をいたしました」


 震える声で謝罪し、涙をこらえるように俯く。

 その健気な姿は、周囲の同情を一心に集めた。


 対照的に、レティシアの態度はあまりにも冷酷に見えた。

 彼女はジュリアンの腕を強く抱え込み、まるで所有物を誇示するかのように立ちはだかっている。


「……行きましょう、ジュリアン様。向こうで宰相閣下がお待ちです」


 レティシアは逃げるようにその場を去ろうとした。

 ジュリアンは抵抗もせず、ただ引かれるままに歩き出す。

 その背中はどこか頼りなく、支配的な婚約者に従うだけの操り人形のようにも見えた。


 メロディアは涙を拭うふりをして、口元を歪めた。


(これは勝ったも同然ね)


 レティシアのあの余裕のない態度。

 必死すぎて、見ていて痛々しいほどだ。


 あんなに美貌の王太子を捕まえておきながら、自分に自信がないのだろう。

 だからこそ、あのように束縛し、他者を排除することに躍起になっているのだ。


「メロディア様、大丈夫?」


 取り巻きの令嬢たちが駆け寄ってくる。

 メロディアは弱々しく微笑んで首を振った。


「ええ、私は大丈夫。ただ……殿下が心配で。あんなに素敵な方なのに、ご自身の意思を何一つ尊重されていないみたいで」

「本当にそうね。公爵令嬢だか何だか知らないけれど、あそこまでいくと異常だわ」

「殿下もきっと、助けを求めていらっしゃるはずよ」


 種は蒔かれた。

 あとは水をやり、毒花を咲かせるだけだ。



 *



 数日後、王宮の回廊で奇妙な噂が流れ始めた。


『公爵令嬢は嫉妬に狂い、王太子を支配下に置いている』

『王太子は彼女の洗脳下にあり、自由な発言すら許されていない』


 根も葉もない噂ではない。

 あのお茶会での出来事が、尾ひれをつけて広がっているのだ。


 レティシアはその噂を知ってか知らずか、相変わらずジュリアンに張り付いていた。


 ある夜会でのことだ。

 ビュッフェ形式の立食パーティで、ジュリアンがふらりと料理の並ぶテーブルへ向かった。

 彼は美しく盛り付けられたローストビーフの前で足を止める。

 そして、フォークを手に取った瞬間。


「ジュリアン様!」


 レティシアが血相を変えて飛んできた。

 彼女はジュリアンの手からフォークを取り上げ、まるで子供を叱るかのような剣幕で小声で何かを言っている。

 遠目には、食べたいものすら自由に選ばせてもらえない哀れな王太子の姿にしか見えなかった。


「……あれは酷すぎるわ」


 柱の陰から見ていたメロディアは、呆れを通り越して笑いが込み上げてきた。

 食事の管理まで徹底しているとは。


 体型維持のためか、それとも毒見をしていないからか。

 いずれにせよ、あの徹底ぶりは常軌を逸している。


 ジュリアンはフォークを取り上げられ、しょんぼりと肩を落としている。

 その姿が、母に叱られた幼子のようで、メロディアの胸を妙にくすぐった。


(あの方には、もっと優しく包み込んでくれる女性が必要なのよ。そう、私のような)


 メロディアは決意を固めた。

 あの冷たい魔女の手から、王太子を救い出す。

 それは正義であり、何より彼女自身の野望を満たす最短のルートだった。


 チャンスはすぐに巡ってきた。

 レティシアが公爵家の用事で席を外さなければならない時間ができたのだ。


 彼女は不安げに何度もジュリアンを振り返り、護衛の騎士に厳重な監視を命じて退室していった。

「絶対に、誰とも会話をさせないでください」と言い残して。


 その過剰なまでの警戒心が、逆にメロディアの闘志に火をつけた。

 彼女は給仕からワイングラスを受け取ると、護衛の隙をついてジュリアンの元へと滑り込んだ。

 バルコニーの近く、風通しの良い場所で、ジュリアンは一人夜空を見上げていた。


「こんばんは、ジュリアン殿下」


 甘い声で囁きかける。

 ジュリアンはゆっくりと振り向いた。


 その瞳は宝石のように美しいが、どこか焦点が合っていないような不思議な深みがある。

 近くで見れば見るほど、溜息が出るような美貌だ。


「……あ、君は」

「メロディアです。先日のお茶会では、失礼いたしました」

「メロディア」


 ジュリアンは彼女の名前を反芻(はんすう)した。

 それだけで、メロディアの背筋がぞくりと震える。


 なんて甘美な響きだろう。

 この唇から、もっと愛の言葉を囁かれたい。


「レティシア様がいらっしゃらなくて、寂しいですか?」


 試すように尋ねると、ジュリアンは首を傾げた。


「レティシアは……(うるさ)いからな」


 ぽつりと、零れ落ちた言葉。

 メロディアは目を見開いた。


 これだ。

 これこそが王太子の本音だ。

 常に監視され、管理され、命令される毎日にうんざりしているのだ。


「ええ、ええ。わかりますわ。あの方は少し……厳しすぎますものね」


 メロディアは一歩踏み出し、ジュリアンの腕にそっと手を添えた。

 護衛が止めに入ろうとしたが、ジュリアンがそれを手で制した。


「私なら、殿下をもっと自由にさせて差し上げられますわ」

「自由……?」

「はい。お好きなものを食べ、お好きな服を着て、お好きな言葉を話す。そんな当たり前の幸せを」


 ジュリアンは「自由」という言葉に反応したのか、瞳を輝かせた。


「自由……いいな。僕は、もっと……」


 言葉を探すように宙を仰ぐ。

 その横顔は、檻に囚われた美しい鳥が空を夢見ているかのようだった。


 メロディアは確信した。

 この王太子は堕とせる。

 いや、もうすでに心は離れているのだ。

 あとはほんの少し、背中を押してあげるだけでいい。


 メロディアはジュリアンの耳元でそっと語りかけた。


「今度、お二人でお話ししませんか? レティシア様には内緒で」


 メロディアの誘惑に、ジュリアンは子供のような無邪気な笑みを浮かべた。


「内緒で……ああ、いいとも」


 その笑顔の破壊力は凄まじかった。

 メロディアは勝利の予感に震えながら、彼の手を握りしめた。


 遠くから戻ってくるレティシアの姿が見える。

 彼女は二人が接触しているのを目撃し、顔色を変えて駆け寄ってきた。

 ドレスの裾が乱れるのも構わずに走ってくる姿は、なりふり構わぬ必死さそのものだ。


「離れてください!!」


 レティシアの悲鳴のような声が響く。

 メロディアは余裕たっぷりにジュリアンから離れ、優雅に一礼した。


「ふふ、ごめんなさいレティシア様。殿下が退屈そうにしていらしたので、少しお相手をしていただけですの」

「……貴女、何度言ったら」

「そんなに目くじらを立てなくても。殿下だって、たまには息抜きが必要でしょう?」


 メロディアは勝ち誇ったような視線を投げかけ、その場を後にした。

 背後でレティシアがジュリアンを問いただす声が聞こえる。


「何を話しましたの!? 変な約束はしていませんね!?」

「……内緒、さ」

「内緒って何ですか! お願いですから、私の目の届かないところで勝手なことをしないでください!」


 ヒステリックなレティシアの声と、それに反抗するように沈黙するジュリアン。

 亀裂は確実に深まっている。


 メロディアは確信した。

 あの公爵令嬢から全てを奪い取るのは、そう遠い未来ではないと。


(待っていてくださいませ、私の王太子様。すぐにあの口うるさい女から解放して差し上げますわ)


 メロディアの胸には黒い野心が渦巻いていた。


 レティシアは、走り去るメロディアの背中を見つめながら、扇の下で唇を噛み締めていた。

 その瞳に浮かぶのは、嫉妬や怒りだけではない。

 もっと深く、切実な、絶望に近い感情。

 彼女はジュリアンの袖をギュッと掴み、まるで命綱を握るかのように震えていた。


「……お願いです、ジュリアン様。どうか、大人しくしていてください」


 その言葉は祈りのようだった。

 だが、その祈りが誰に向けられたものなのか、今のジュリアンには理解できない。

 彼はただ、美しい夜空に浮かぶ月を見つめていた。


 レティシアは深く溜息をつき、彼の手を引いて夜会の喧騒の中へと戻っていく。

 その背中は、見えない重荷を背負っているかのように小さく見えた。


 舞台は整った。



 *



 王宮の奥まった一角にある談話室は、重苦しい沈黙に包まれていた。

 豪奢なカーテンは閉ざされ、薄暗い室内には二人の令嬢が対峙している。


 テーブルを挟んで座るレティシアの顔色は、蝋細工のように白かった。

 対するメロディアは、勝ち誇ったような余裕を唇の端に滲ませている。


お話(・・)とは何でしょうか、レティシア様。私、これから殿下とお会いする約束がありますの」


 メロディアは時計を気にする素振りを見せた。

 その仕草一つにも、今の自分が選ばれた側であるという優越感が透けて見える。

 レティシアは膝の上で固く握りしめていた拳を解き、震える手でテーブルの上に置かれたベルベットの小箱を押しやった。


「……これを受け取ってください」


 蓋が開かれると、大粒の蒼玉をあしらった首飾りが鈍い光を放った。

 一級品であることは、宝石に詳しくない者が見ても明らかだ。

 メロディアは目を丸くしたが、すぐにその意図を察して鼻で笑った。


「まあ。素敵な贈り物ですこと。でも、どういう風の吹き回しですの?」

「……解決金、です」


 レティシアの声は、絞り出すように掠れていた。


「貴女のご実家は、領地経営に行き詰まっていると聞きました。これがあれば、借金の返済や、新たな事業を興すこともできるでしょう。だから……」

「だから?」

「ジュリアン様から、身を引いてください」


 その言葉を聞いた瞬間、メロディアの中で歓喜のファンファーレが鳴り響いた。


(ああ、なんて愚かな女!)


 金で恋敵を排除しようなど、三流の悪役がすることだ。

 それほどまでに追い詰められているのか。

 あの公爵令嬢が、なりふり構わず頭を下げている。


 メロディアは小箱をパタンと閉じると、それを指先で弾き返した。


「心外ですわ。私と殿下の絆を、金品で測ろうとなさるなんて」

「お願いします! 彼は……ジュリアン様は、私が支えなければならない御方なのです……!」

「はぁ。私、貴女のように殿下をお荷物扱いするつもりはありませんわ」


 メロディアは立ち上がり、見下すような視線をレティシアに浴びせた。

 レティシアは反論もせず、ただ下を向いて小刻みに震えている。

 その姿は、敗北者のそれ以外の何物でもなかった。


「残念でしたわね。貴女のその浅ましい行い、殿下が知ったらどう思われるかしら」

「っ……! それは……!」


 レティシアが縋るように手を伸ばすが、メロディアはドレスの裾を翻して部屋を出て行った。

 廊下に出た瞬間、メロディアは笑いを噛み殺した。


(完璧よ。これで決定的な証拠ができたわ)


 彼女は足早にジュリアンの待つ温室へと向かう。

 最高の悲劇のヒロインを演じるために、目元を少し擦って充血させることも忘れなかった。



 温室では、ジュリアンが花を愛でていた。

 彼はメロディアの足音に気づくと、パッと顔を輝かせる。

 その笑顔は天使のように無垢で、見る者の庇護欲を掻き立てる。


「メロディア! 遅かったね。待ちくたびれたよ」

「申し訳ございません、ジュリアン様……っ」


 メロディアは駆け寄ると、ジュリアンの胸に飛び込んだ。

 わざとらしく肩を震わせ、嗚咽を漏らす。


「どうしたんだい? 誰かに何かされたのか?」

「レティシア様が……私を呼び出して……」

「レティシアが?」


 ジュリアンの眉間に皺が寄る。

 その名前が出ただけで、彼の機嫌が目に見えて損なわれるのがわかった。


「宝石をあげるから、殿下の前から消えろと……」

「なんだって?」

「私、悔しくて。殿下への想いは、そんなものじゃ変えられないのに。あの人は、殿下の愛すらもお金で買えると思っているのですわ……!」


 メロディアの言葉に、ジュリアンの瞳に暗い炎が宿った。

 彼はメロディアの背中を抱きしめ、怒りに震える声で呟く。


「あいつは……いつもそうだ」


 ジュリアンの中で、積年の鬱屈が爆発した。

 レティシアはいつも正しい。

 服装を正し、言葉遣いを直し、公務の時間割を管理し、彼の自由な時間を奪っていく。

 まるで、出来の悪い子供を躾ける家庭教師のように。

 そこに敬愛はなく、あるのは義務感と、どこか彼を見下すような冷たい視線だけだ。


「僕を馬鹿にしているんだ。僕の気持ちも、君の純粋な想いも、あいつには理解できない」

「ジュリアン様……」

「もう許さない。こんな屈辱、耐えられるものか」


 ジュリアンはメロディアの肩を掴んで引き剥がすと、その瞳を真っ直ぐに見つめた。


「今夜の夜会で、全てを終わらせる。僕が愛するのは君だけだ、メロディア」


 その言葉は、メロディアが夢にまで見た勝利宣言だった。

 彼女は涙に濡れた瞳で微笑み、王太子の頬に手を添える。


「はい、殿下。私、どんな困難が待っていても、お側にいますわ」


(さようなら、負け犬の公爵令嬢。貴女の席は、私がいただくわ)



 *



 その夜、王城の大広間は異様な熱気に包まれていた。

 煌びやかなシャンデリアの下、着飾った貴族たちがグラスを片手に談笑しているが、その視線はチラチラと入り口に向けられている。

 昼間の「買収騒動」は、メロディアがそれとなく流した者たちの口添えによって、すでに社交界の噂となっていたのだ。


 会場の隅には、レティシアの姿があった。

 いつものように背筋を伸ばして立っているが、その顔色は優れず、扇を持つ手には力が入りすぎているように見える。

 誰も彼女に話しかけようとはしない。

 沈みゆく船に同乗する愚か者はいないのだ。


 やがて、会場の扉が大きく開かれた。

 儀典長が杖を突き、高らかに告げる。


「ジュリアン・アシュレイ殿下、ご入場でございます!」


 現れたジュリアンの隣には、当然のように婚約者であるレティシアが――いない。

 彼の腕に寄り添っていたのは、薄桃色のドレスを纏ったメロディアだった。


 会場がどよめきに包まれる。

 公式の場で、婚約者以外の女性をエスコートするなど、前代未聞の醜聞だ。


 だがジュリアンは、そんな周囲の反応など意に介さず、堂々と歩を進めた。

 彼は会場の中央で足を止めると、群衆の中にいるレティシアを見つけ、鋭く指差した。


「レティシア・オルティス! 前へ出よ!」


 よく通る声が広間に響き渡る。

 音楽が止まり、静寂が訪れた。


 人々が割れて道を作る中、レティシアは静かに歩み出た。

 その足取りは重く、視線は床に落とされたままだ。


「……お呼びでしょうか、殿下」

「とぼけるな! 貴様、今日メロディアに何をした!」


 ジュリアンの怒声に、レティシアの肩がビクリと跳ねた。


「我が愛するメロディアに金品を渡し、身を引くよう脅迫したそうだな。王家との繋がりを、金で売り買いできるとでも思ったか!」

「そ、それは……誤解でございます。私はただ、殿下のためを思って……」

「黙れ! 貴様の言う『ために』はもう、うんざりなんだ!」


 ジュリアンは吐き捨てるように叫んだ。

 その顔は紅潮し、感情のままに言葉を紡ぐ。


「いつもいつも、小言ばかり。僕のやることにケチをつけ、行動を制限し、まるで籠の中の鳥のように扱ってきた。挙句の果てに、僕が心から安らげる女性を金で排除しようとするとは……その性根、腐りきっている!」


 メロディアはジュリアンの後ろで、怯えたように身を縮めてみせた。

 だがその瞳は、レティシアを嘲笑うかのように細められている。


「殿下、もうおやめください。レティシア様も、きっと魔が差しただけなのです……」

「優しいな、メロディアは。だが、この女に情けは無用だ」


 ジュリアンは一呼吸置くと、会場にいる全員に聞こえるよう、高らかに宣言した。


「レティシア・オルティス! 貴様のその冷酷無比な振る舞い、そして未来の王族となるべき者への不敬、もはや看過できん! よって今この時を持って、貴様との婚約を破棄する!」


 婚約破棄。

 その言葉が落ちた瞬間、会場からは悲鳴にも似た感嘆の声が上がった。


 レティシアはその場に崩れ落ちた。

 両手で顔を覆い、肩を激しく震わせている。


「う、うう……っ」


 漏れ聞こえる嗚咽。

 誰もがそれを、絶望の涙だと思った。

 長年尽くしてきた婚約者に公衆の面前で捨てられ、全てを失った哀れな令嬢。


「……これが、貴様の望んだ結果だ。さっさと消えろ!」


 ジュリアンは冷たく言い放ち、メロディアの腰を抱き寄せた。

 メロディアは勝利の喜びに打ち震えながら、崩れ落ちたレティシアを見下ろした。


(勝った。完全に私の勝ちよ)


 あの気位の高い女が、地べたを這いつくばっている。

 これ以上の愉悦があるだろうか。


 レティシアは震える声で、一言だけ呟いた。


「……謹んで、お受けいたします」


 その言葉はか細く、風前の灯火のように儚かった。

 ジュリアンは鼻を鳴らし、満足げにメロディアの手を取った。


 二人は新しい時代の主役として、喝采と困惑の入り混じる中を退場していく。

 床に残されたレティシア一人を置き去りにして。


 転換点は過ぎた。



 *



 夜会の翌朝、王都は蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。

 街角のカフェでも、市場の井戸端でも、話題は昨夜の「断罪劇」で持ちきりだ。


 嫉妬に狂った公爵令嬢が、王太子の真実の愛を引き裂こうとして逆に断罪された。

 それは退屈な日常を送る人々にとって、これ以上ない極上の娯楽だった。


 そしてその渦中の人であるメロディアは、王宮の一室で優雅に紅茶を啜っていた。

 窓から差し込む陽光が、彼女の勝利を祝福するかのように煌めいている。


「まあ、そんなに皆様が噂を?」

「ええ、もう持ちきりですわ。メロディア様の健気さと、殿下の男らしさに感動したと」


 取り巻きの令嬢たちが、興奮した様子で報告してくる。

 メロディアは謙虚に頬を染めてみせたが、内心では笑いが止まらなかった。


 全てが計画通り。

 いや、想像以上の展開だ。


 まさかあの場で婚約破棄まで宣言されるとは。

 ジュリアンの愛は、それほどまでに深かったということだ。


(あの女、今頃屋敷で泣き腫らしているのかしら)


 想像するだけで紅茶が美味しくなる。

 長年、王太子の婚約者という座に胡坐をかき、周囲を見下してきた報いだ。


 メロディアはカップを置き、窓の外に広がる王宮の庭園を見下ろした。

 これからは、ここが自分の庭になる。

 あの美しい王太子も、この地位も、名誉も、全てが自分のものだ。


「ジュリアン様……」


 愛しい人の名前を呟く。

 彼は少し子供っぽいところがあるけれど、そこがまた母性本能をくすぐるのだ。

 私が支えてあげなければ。

 あの冷たい元婚約者とは違い、私は彼を全肯定し、甘やかしてあげるのだ。

 それこそが、彼が求めている癒やしなのだから。



 *



 数日後、正式な婚約解消の手続きを行うため、王宮の謁見の間に当事者たちが集められた。

 重厚な扉が開き、レティシアが入室してくる。


 彼女は喪服のように飾り気のない濃紺のドレスを纏い、顔には薄く白粉をはたいているようだった。

 その表情は仮面のように硬く、感情が読み取れない。


 玉座には国王陛下と王妃殿下。

 その傍らには、ジュリアンが不機嫌そうに立っている。

 メロディアは正式な場ゆえに末席に控えていたが、ジュリアンが時折送ってくる熱っぽい視線に、こっそりとウインクで応えた。


「レティシア・オルティスよ」


 国王の厳格な声が響く。


「この度の騒動、誠に遺憾である」

「……はい」


 レティシアは短く応えた。

 弁解も、涙乞いもしない。

 ただ事実を淡々と受け入れるその姿は、不気味なほどの静けさを漂わせていた。


「我が息子ジュリアンたっての希望により、アシュレイ公爵家との婚約は白紙に戻す。……双方の合意とみなしてよいか?」

「異存ございません」


 レティシアの声は透き通るように冷静だった。

 ジュリアンが鼻を鳴らす。


「ふん。ようやく自分の立場をわきまえたか。最初からそうやって素直になっていれば、こんな大事にはならなかったんだ」


 王太子の刺々しい言葉にも、レティシアは眉一つ動かさない。

 彼女は差し出された書類にサラサラと署名を済ませると、ペンを置いた。

 その瞬間、彼女の纏う空気がふわりと変わった気がした。


 これまで彼女を覆っていた重苦しい鎧のような緊張感が消え、どこか憑き物が落ちたような、清々しい透明感が漂い始めたのだ。

 メロディアは違和感を覚えた。


(何よ、その顔。もっと悔しがりなさいよ)


 あれは強がりに違いない。

 最後のプライドを守るための、精一杯の虚勢だ。

 そう結論づけて、メロディアは勝ち誇った笑みを浮かべた。


「では、これで失礼いたします」


 レティシアは完璧なカーテシーを披露した。

 その優雅さは、皮肉なことに、この場にいる誰よりも品格に満ちていた。


 彼女は踵を返し、出口へと向かう。

 すれ違いざま、メロディアの横で一瞬だけ足を止めた。


「……コーネット嬢」


 低い、氷のような声。

 メロディアは背筋を伸ばし、挑発的に見返した。


「何ですの? まだ何か?」

「いいえ。ただ……おめでとうございます。貴女の願いが叶って」


 レティシアはそう言うと、口元を扇で隠し、瞳を細めた。

 それは微笑みのようでもあり、憐憫のようでもあった。


「どうぞ、末永くお幸せに。……彼を、よろしく頼みますわ」


 その言葉に含まれた奇妙な重みを、メロディアは理解できなかった。

 ただの負け惜しみだと受け取り、フンと鼻を鳴らす。


「言われなくとも。貴女と違って、私は殿下を心から愛していますもの」


 レティシアは何も答えず、静かに謁見の間を出て行った。

 重い扉が閉まる音が、一つの時代の終わりを告げる鐘のように響いた。


 ジュリアンが駆け寄ってくる。

 彼は子供のように無邪気に笑い、メロディアの手を取った。


「やっと終わった! ああ、せいせいしたよ。これで僕たちは自由だ!」

「はい、ジュリアン様! 私たちを邪魔するものはもう何もありませんわ!」


 二人は手を取り合い、見つめ合う。

 国王と王妃は複雑そうな表情でそれを見ていたが、溺愛する息子の笑顔には勝てないのか、小さく溜息をついて黙認した。


 障害は消え去った。

 あとは、幸せな未来へ向かって突き進むだけだ。



 *



 それから一ヶ月後。

 王都は祝祭の熱気に包まれていた。


 王太子ジュリアンと、メロディアの結婚式が執り行われるのだ。

 本来なら王族の結婚には年単位の準備期間が必要だが、ジュリアンの「一日も早くメロディアと一緒になりたい」という強い要望を考慮し、異例の早さで挙行されることとなった。


 大聖堂のステンドグラスから七色の光が降り注ぐ中、メロディアはヴァージンロードを歩いていた。

 純白のドレスは最高級のシルクで仕立てられ、無数の真珠とダイヤモンドが散りばめられている。


 その総額は伯爵家の資産の数割にものぼるものだったが、全て王家持ちだ。

 未来のプリンセスへの投資としては安いものだろう。


 祭壇の前で待つジュリアンは、この世のものとは思えないほど美しかった。

 正装に身を包み、プラチナブロンドの髪を輝かせ、メロディアを待ちわびている。

 その瞳には、彼女だけが映っていた。


「メロディア……綺麗だよ」

「ジュリアン様……」


 誓いの言葉、指輪の交換、そして誓いの口づけ。

 全てが夢のように完璧だった。

 参列者たちの拍手喝采が波のように押し寄せ、メロディアの鼓膜を心地よく震わせる。

 

(見た? 皆、私を見ているわ。私が、この国の主役なのよ!)


 かつて自分を見下していた高位貴族たちが、今は(かしず)き、祝福の言葉を述べている。

 その光景は、メロディアの虚栄心を極限まで満たした。

 彼女はジュリアンの腕にしっかりと絡みつき、満面の笑みで群衆に手を振った。


 パレードでは、馬車から沿道の民衆に笑顔を振りまいた。

 花びらが舞い散り、歓声が上がる。


「美しいお二人だ!」

「真実の愛万歳!」


 その声援の裏で、レティシアが隣国へ旅立ったという噂も流れていたが、もはや誰も気に留める者はいなかった。

 敗者は歴史の彼方へ消え去り、勝者だけが光を浴びるのだ。


 パレードを終え、王宮に戻った二人は、新居となる離宮へ案内された。

 国王夫妻の住む本宮とは回廊で繋がっているが、適度な距離があり、二人の愛の巣としては申し分ない。

 使用人たちが恭しく出迎え、豪華な晩餐が用意されていた。


 食事の間も、ジュリアンはずっとメロディアの手を握っていた。

 左手で不器用にフォークを使いながら、甘い言葉を囁き続ける。


「この肉、切ってくれないか? 君の手で食べさせてほしいな」

「ふふ、甘えん坊さんですね。はい、あーん」

「あーん。……うん、君に食べさせてもらうと、何倍も美味しいよ」


 少し幼い気もしたが、メロディアはそれを「可愛い」と解釈した。

 今まで厳しく管理されすぎていた反動だろう。

 これからは私が、彼の手足となって尽くしてあげるのだ。

 それが愛される妻の務めであり、喜びなのだから。


 夜も更け、二人は寝室へと向かった。

 天蓋付きの巨大なベッドは、深紅の薔薇の花びらで埋め尽くされている。

 甘い香りが部屋中に充満し、二人の気分を高揚させた。


「メロディア」


 ジュリアンが熱っぽい瞳で彼女を見つめる。

 メロディアは羞恥に頬を染めながら、ゆっくりと頷いた。


「はい、ジュリアン様。私、幸せですわ」

「僕もだよ。君といれば、僕は僕らしくいられる。……約束してくれないか?」

「何をですの?」


 ジュリアンはメロディアの肩を抱き寄せ、耳元で囁いた。

 その声は、甘い蜜のようにとろりと鼓膜に絡みついた。


「これからもずっと、僕の言うことを聞いてくれ。僕の嫌なことは全部取り除いて、僕が気持ちよくなることだけをしてくれ」


 それは愛の言葉のように聞こえた。

 メロディアは、何の疑いもなく、その甘美な毒を受け入れた。


「ええ、勿論ですわ。貴方様の望むことなら、何でも」

「よかった。……やっぱり君は、最高の妻だ」


 ジュリアンは満足げに微笑み、彼女をベッドへと押し倒した。

 灯りが消され、闇が二人を包み込む。


 メロディアは閉じた瞼の裏で、輝かしい未来を描いていた。

 明日からも、この甘い生活が永遠に続くのだと。

 愛する王太子と、誰からも羨まれる生活が。


 しかし、彼女はまだ気づいていなかった。

 レティシアが残した言葉の意味に。


 窓の外では、風が強まり始めていた。

 華やかな春の嵐は去り、湿った重い空気が王都を覆い尽くそうとしていた。



 *



 新婚初夜の翌朝、メロディアは豪奢な天蓋ベッドの中で目を覚ました。

 窓から差し込む陽光が眩しい。

 隣を見れば、天使のような寝顔でジュリアンが眠っている。

 長い睫毛、透き通るような肌。

 この国の至宝とも呼べる美貌の王太子が、今は自分の夫なのだ。


(ああ、なんて幸せなの)


 メロディアは幸福感に包まれながら、そっと身を起こした。

 メイドを呼び、身支度を整えてもらう。


 今日は王太子妃としての最初の一日だ。

 公務の予定はまだ入っていないが、愛する旦那様と優雅な朝食を楽しみ、庭園を散歩する計画を立てていた。


「ん……」


 ジュリアンが身じろぎし、ゆっくりと目を開けた。

 紫石英の瞳がとろんとメロディアを映す。


「おはようございます、ジュリアン様」

「……おはよう、メロディア」


 彼はあくびを噛み殺しながら上半身を起こした。

 そして、ベッドの縁に腰掛けたまま、ぼんやりと虚空を見つめて動かなくなった。


 数秒、数十秒。

 沈黙が流れる。


「ジュリアン様? どうなさいましたの?」


 メロディアが不思議に思って声をかけると、ジュリアンは眉をひそめ、不機嫌そうに右足を突き出した。


「……靴下」

「はい?」

「靴下だよ。何をしているんだい? 早く履かせてくれ」


 メロディアは耳を疑った。

 二十歳を超えた成人男性が、しかも一国の王太子が、自分で靴下も履かないというのか。


「あ、あの……侍女を呼びましょうか?」

「どうして? 君がいるじゃないか」


 ジュリアンは心底不思議そうに首を傾げた。


「レティシアはいつも、朝一番に僕の足を温めて、靴下を履かせてくれたよ。それが君の役目だろう?」


 レティシア。

 その名前が出た瞬間、メロディアの胸に小さな棘が刺さった。


 あんな冷たい女が、そんな甲斐甲斐しい世話を焼いていたなんて。

 いや、これはきっと彼なりの甘えなのだ。

 妻に対するスキンシップの一環に違いない。


「……わかりましたわ。私がさせていただきます」


 メロディアは引きつった笑みを浮かべ、床に片膝をついた。

 用意されたシルクの靴下を手に取り、王太子の足に履かせる。


 屈辱的だとは思うまい。

 これは愛の儀式なのだから。


「うん、ありがとう。……でも、少し爪が当たったな。レティシアはもっと指先が滑らかだった」


 ジュリアンは悪気なく言い放ち、次は左足を突き出した。



 その違和感は、朝食の席でも続いた。

 テーブルには豪華な料理が並んでいるが、ジュリアンはフォークを持ったまま動かない。

 チラチラとメロディアと皿を交互に見ている。


「……ジュリアン様?」

「肉」

「はい?」

「切ってくれないと、食べられないじゃないか」


 昨夜のあれは、ただの戯れではなかったのか。

 メロディアは困惑しながらも、ナイフとフォークを手に取った。


 一口大に切り分け、皿を差し出す。

 ジュリアンはそれを当然のように受け入れ、咀嚼し、そして眉間に皺を寄せた。


「大きい」

「え?」

「一口が大きすぎる。もっと小さく切ってくれなきゃ、喉に詰まってしまうよ」


 カチャン、とフォークを皿に投げ出す。

 その音は神経質に響き、給仕たちがビクリと身を竦めた。


「レティシアは何も言わなくても、僕の好きな大きさに揃えてくれたのに。……メロディア、君は気が利かないね」


 美しい顔で吐かれる不満の言葉。

 メロディアの手が震えた。

 

(またレティシア。……何なのよ、あいつも、この人も!)


 だが、ここで怒ってはいけない。

 彼女は全てを肯定し、癒やす存在として選ばれたのだから。

 メロディアは必死に笑顔を作り、肉をさらに細かく刻んだ。

 まるで幼児食を作るかのように。



 一週間が過ぎる頃には、メロディアの心は鉛のように重くなっていた。


 ジュリアンは何もできない。

 いや、何もしない。

 着替えも、食事も、移動の支度も、全て誰かがやってくれるのを口を開けて待っているだけだ。

 そして気に入らないことがあると、すぐに「レティシアはこうじゃなかった」「前のほうがよかった」と不平を漏らす。


 極めつけは、夜だった。

 ある晩、寝室の扉がノックもなしに開け放たれた。


「ジュリアンちゃん、起きてるー?」


 入ってきたのは、王妃殿下だった。

 豪奢なナイトガウンを纏い、手にはホットミルクの入った盆を持っている。

 メロディアは慌ててベッドから飛び起き、頭を下げた。


「王妃殿下! こ、このような時間に……」

「あら、メロディアさん。いたの」


 王妃はメロディアを一瞥しただけで、すぐに興味を失ったように視線をジュリアンへ移した。

 その目はとろけるように甘く、粘着質な光を帯びている。


「ジュリアンちゃん、今日ね、お母様とっても寂しかったのよ。だからお顔を見に来ちゃった」

「母上……」


 ジュリアンが嬉しそうに微笑む。

 その笑顔は、メロディアに向けるものよりも遥かに安らぎに満ちていた。


 王妃はベッドの縁に座り、ジュリアンの髪を愛おしげに撫で回した。


「可哀想に。新しい環境で疲れたでしょう? あの冷たいレティシアがいなくなってせいせいしたけれど、この子はちゃんと貴方のお世話ができているのかしら」

「うーん、まだ駄目だね。肉の切り方も下手だし、僕の好きなネクタイの結び方も知らないんだ」

「まあ、可哀想に! やっぱりお母様がいないと駄目ねえ」


 二人はメロディアの存在など忘れたかのように、甘い会話を繰り広げている。

 王妃は自らの口に含んだミルクを、口移しでジュリアンに飲ませようとさえした。


 異様だった。

 王族の母親が息子を溺愛するのは珍しくないが、これは度が過ぎている。

 ジュリアンの幼児性は、この母親によって作られたものだったのだ。


 メロディアは寒気を感じて一歩後ずさった。

 その微かな物音に、王妃が冷ややかな視線を向ける。


「……何をしているの? 気が利かないわね。私たちは親子の会話を楽しんでいるのよ。邪魔だから出て行ってくださる?」

「は……はい……?」

「聞こえなかったの? 出て行けと言ったのよ」


 先ほどまでの甘い声とは別人のような、底冷えする声音。

 ジュリアンもまた、冷たい目でメロディアを見ている。


「母上の言う通りだ。空気くらい読んでくれよ、メロディア」


 メロディアは逃げるように寝室を飛び出した。

 廊下の冷たい空気が、火照った頬を刺す。

 背後の扉の向こうからは、クスクスという笑い声と、甘ったるい会話が漏れ聞こえてきた。


(何なの……何なのよ、これ……!)


 これが、私が望んだ結末だというのか。

 憧れの王太子様は、ただのマザコンの幼児だった。


 そこでメロディアはハッとした。

 公爵令嬢レティシアは、この異常な母子から王太子を隔離し、矯正し、人間らしい振る舞いをさせるための防波堤だったのだ。


 管理ではない。介護だ。

 束縛ではない。隠蔽だ。


 レティシアが必死になっていた理由が、今さらながら理解できた。

 彼女は王太子を独占したかったのではない。

 この恥部が世間に露呈しないよう、必死で蓋をしていただけなのだ。


 そして自分は、わざわざその蓋をこじ開け――あろうことかその重荷を自ら背負い込んだのだ。



 *



 翌日、メロディアはふらつく足取りで王宮の回廊を歩いていた。

 寝不足とストレスで、自慢の美貌も精彩を欠いている。


 使用人たちの視線が痛い。

 彼らは知っていたのだ。この城の奥にある真実を。


 その時、前方から見覚えのある人影が歩いてきた。

 濃紺のドレスに身を包み、凛とした足取りで進んでくるのは、レティシアだった。

 彼女の後ろには数人の従者が続き、大きな鞄を運んでいる。


「……レティシア、様」


 メロディアの声に、レティシアが足を止めた。

 その顔色は以前よりもずっと良く、憑き物が落ちたように清々しい。

 氷の彫像と呼ばれた彼女だが、今の表情には春の日差しのような穏やかさがあった。


「ごきげんよう、妃殿下。……お顔色が優れないようですが」


 心配する言葉とは裏腹に、その瞳は静かな湖面のように凪いでいる。

 メロディアは縋るように彼女に歩み寄った。


「ど、どこへ行かれますの?」

「隣国へ。以前より縁談のあった侯爵家へ嫁ぐことになりましたの。今日は陛下へのご挨拶と、最後の荷物を運びに参りました」

「嫁ぐ……?」


 メロディアは愕然とした。

 隣国へ行ってしまえば、もう二度と会えないかもしれない。


「待って……待ってください! 貴女、知っていたのでしょう!? ジュリアン様があんな……あんな方だということを!」

「あんな方、とは? 貴女が『世界一素晴らしい男性』と評した、()()()()()()のことでしょうか」

「とぼけないで! 何もできない、ただの子供じゃない! お義母様も異常よ! どうして教えてくれなかったの!?」


 メロディアはなりふり構わず叫んだ。

 回廊にその声が響き渡るが、レティシアは眉一つ動かさない。


「教える? 何故わたくしが?」

「だって……っ、貴女はずっと婚約者だったじゃない!」

「ええ。ですから、わたくしは契約(・・)に従い、彼を完璧な王太子として教育し、支え、守ってきました……貴女にだけ教えてあげましょう。莫大な違約金を枷に、わたくしから婚約を破棄することも、彼の正体(・・)を吹聴することさえも禁じられていたのですよ。だからわたくしにとって、あなたは恩人なのです」

「ちょ、ちょっと待って、契約って? もしかして私が婚姻の儀でサインしたのって……」

「残念ですが、おそらく同様の内容が記されているでしょうね」

「そんな……」

「家同士で決められたわたくしと違って、貴女には引き返す機会があったのですから。よく目を通すべきでしたね」


 声を潜めて告げられた言葉に、メロディアは愕然とした。

 そんなメロディアを見て、レティシアは場違いなほど明るい声で言った。


「ですが、貴女が仰ったではありませんか。『彼を自由にさせてあげるべきだ』と!」


 レティシアは扇を広げ、口元を隠した。

 だが、その細められた瞳が三日月のように弧を描いているのがわかる。


「貴女は彼に『自由』を与えた。その結果、彼は抑圧されていた(たが)が外れ、本来の姿に戻った。それだけのことでございましょう?」


 反論できなかった。

 あの時、ジュリアンに「自由」という毒を吹き込んだのは、紛れもなく自分自身だ。


「貴女が望んだ『ありのままの彼』ですわ。どうぞ、存分に愛して差し上げてくださいませ」

「無理よ……あんなの、無理よ! 私にはできない! 貴女、戻ってきてよ! 貴女がいないと、あの人は……!」


 メロディアはレティシアのドレスの袖を掴もうとした。

 だが、レティシアはそれを優雅な身のこなしで避けた。

 汚いものに触れさせないように。


「お断りいたします」


 拒絶の声は、短く、そして鋭かった。


「わたくしとの契約は破棄されました。もう役務は解除されたのです。今さら戻る義理も、理由もございません」

「そんな……」


 レティシアはゆっくりと体を離し、憐れむような、しかしどこか楽しげな視線を送った。


「返品は受け付けません。最後まで責任を持って飼ってくださいね。貴女のことは生涯忘れませんわ」


 そう言い残すと、レティシアは踵を返した。

 従者たちが続き、彼女の背中は光の中へと消えていく。

 その足取りは羽のように軽く、自由への喜びに満ち溢れていた。


 残されたメロディアは、薄暗い回廊に一人立ち尽くしていた。

 足元から崩れ落ちそうな絶望感。

 だが、現実は彼女に涙を流す時間さえ与えてはくれない。


「妃殿下! ここにいらしたのですか!」


 血相を変えた侍女長が走ってくる。


「大変です! 殿下が『今日のカフスボタンが気に入らない』と暴れて、お部屋中の花瓶を割っておられます! 至急お戻りください!」


 メロディアの視界が暗転した。

 逃げられない。

 この地獄は、死ぬまで終わらないのだ。


 彼女は引きつった笑みを浮かべ、震える足を踏み出した。

 完璧な妻の仮面を被り直して。

 愛する夫の待つ、あの牢獄へと戻るために。



 *



 地獄の釜の蓋が開いてから、季節が二つ巡った。

 王都は相変わらず華やかな空気に満ちているが、王太子妃メロディアの瞳からは、かつてのような野心的な輝きは完全に失われていた。


 離宮の寝室。

 天蓋付きのベッドに腰掛けたメロディアは、虚ろな目で壁に飾られた肖像画を見つめていた。

 そこには、幸せそうに微笑む自分と、天使のように美しいジュリアンが描かれている。

 だが、今の現実はどうだ。


「メロディア、喉が渇いた」


 ソファに寝そべったジュリアンが、不機嫌そうに足をバタつかせた。

 手元にはベルがあるにも関わらず、彼は自分で鳴らそうともしない。


「……はい、ただいま」


 メロディアは重い腰を上げ、銀の水差しからグラスに水を注いだ。

 侍女を使えばいい?

 とんでもない。

 

 ジュリアンは「メロディア以外が注いだ水は不味い」と喚き散らし、侍女が近づくだけで癇癪を起こして物を投げるのだ。

 おかげで離宮の使用人たちは次々と辞めていき、今残っているのは、王家が送り込んだ口の堅い古株の者たちだけ。

 彼らはメロディアを手伝うどころか、彼女が「王太子の世話」を放棄しないよう監視する看守のような存在だった。


「どうぞ、ジュリアン様」

「遅いよ。……冷たすぎる。もっと温くしてくれなきゃ」


 ガシャッ。

 ジュリアンはグラスを床に叩きつけた。

 水が絨毯に染み込み、ガラス片が飛び散る。


「あ……」

「メロディア、君は本当に学習しないね。レティシアは指先で温度を確かめてから渡してくれたよ?」


 まただ。

 この半年、レティシアの名前を聞かない日は一日たりともなかった。

 

(なら、そのレティシアの所へ行けばいいじゃない!)


 喉元まで出かかった言葉を、メロディアは唇を噛んで飲み込む。

 言ってはいけない。

 それを言えば、彼はさらに暴れ、夜通し泣き叫び、最後には王妃が飛んできてメロディアを罵倒する流れが確定しているからだ。


「申し訳……ございません」


 メロディアは膝をつき、ガラス片を拾い集める。

 指先が切れて血が滲むが、痛みすら感じなかった。

 心の方が、とっくにズタズタだったからだ。



 その日の午後、メロディアは意を決して国王の執務室を訪ねた。

 やつれた顔を厚い化粧で隠し、震える足で扉を叩く。


「……入りなさい」


 重厚な声に促され、入室する。

 国王は書類から顔を上げず、冷ややかな声で用件を尋ねた。


「何用か、メロディア」

「陛下……お願いがございます。もう、限界なのです」


 メロディアは床にひれ伏し、涙ながらに訴えた。


「ジュリアン様の……あのようなご気質、私は存じ上げませんでした。毎日暴力を振るわれ、罵られ、夜も眠れず……。これ以上は、心身ともに持ちません! どうか、離縁をお許しください!」


 なりふり構わぬ懇願。

 だが、返ってきたのは同情の言葉ではなく、乾いた紙の音だった。


「……これを見覚えがあるか」


 国王がデスクの上に一枚の羊皮紙を投げ出した。

 それは、婚姻の際にメロディアが署名した契約書だった。

 当時は「王族になるための形式的なもの」と言われ、中身もよく読まずにサインした記憶がある。


「第十二条。『王太子妃はいかなる理由があろうとも、王太子の精神的支柱となり、その平穏を維持する義務を負う』。そして第十五条。『王太子の名誉を損なう事実が外部に漏洩した場合、その責は全て妃にあるものとする』」


 国王は冷徹な瞳でメロディアを見下ろした。


「そなたは誓ったのだ。病める時も健やかなる時も、彼を愛し、支えると。それを今さら『知らなかった』『辛い』などと、通ると思っているのか?」

「ですが、あれは詐欺です! 誰も彼があのようなご気質だとは……!」

「詐欺?」


 国王が鼻で笑った。


「レティシア嬢がどれほど献身的に彼を支えていたか。それを『束縛』だの『支配』だのと歪曲し、引き剥がしたのは誰だ?」


 メロディアは息を飲んだ。


「そなたは言ったな。『私なら彼を自由にできる』『本当の愛で癒やす』と。ジュリアンがあのようになったのは、そなたが彼に『自由』という名の放縦を与え、躾の糸を切ったからだ。自らが壊した玩具の責任を、他人に押し付けるでない」


 正論だった。

 反論の余地などなかった。

 

「それに……離縁などすれば、ジュリアンの醜聞は世界中に広まる。王家の恥を晒すわけにはいかんのだよ」


 国王の声が一段と低くなり、部屋の空気が凍りつく。


「メロディア。そなたには二つの道がある。一つは、このまま王太子妃、ゆくゆくは王妃として、死ぬまでジュリアンの妻を勤め上げること」


「も、もう一つは……?」


「精神を病んだとして、北の修道院で暮らすことだ。……もっとも、そこに入れば二度と外の光は拝めぬがな」


 メロディアはガタガタと震え出した。

 逃げ場はない。

 最初から、蜘蛛の巣にかかっていたのだ。


(レティシア……貴女は、これを知っていたのね)


 あの公爵令嬢が、なぜあんなにも厳格だったのか。

 なぜ、婚約破棄を突きつけられた時、あんなにも潔かったのか。


 彼女は耐えていたのだ。

 この異常な王家という檻の中で、たった一人で猛獣の手綱を握り続けていたのだ。

 そしてメロディアは、その手綱を自ら奪い取り、自分の首に巻きつけたのだ。




 失意のまま離宮に戻ると、一通の手紙が届いていた。

 差出人の名を見て、メロディアの心臓が早鐘を打つ。

『レティシア・ヴァン・ハウト』。

 隣国の伯爵家に嫁いだ、かつての婚約者からの手紙だった。


 震える手で封を切る。

 中から現れたのは、美しいカリグラフィーで綴られた礼状と、一枚の絵葉書だった。

 

『拝啓、王太子妃殿下。

 季節の移ろいは早いもので、わたくしがこちらに参りましてから半年が経ちました。

 こちらの領地は水と緑が豊かで、とても穏やかな空気が流れております。

 夫となったハウト侯爵は、口数は少ないですが、とても思慮深く、大人の分別を持った方です。

 昨日は二人で領内を視察し、夜は暖炉の前でワインを楽しみながら、文学や政治について語り合いました。

 誰の顔色を窺うこともなく、靴下を履かせることもなく、ただ対等な人間として向き合える喜びを、わたくしは初めて知りました』


 対等な人間。

 大人の分別。

 それはかつてメロディアが退屈だと切り捨て、ジュリアンに求めた刺激とは対極にあるものだ。

 だが今ならわかる。

 それこそが、真の幸福だったのだと。


『あの日、貴女が仰った言葉を今でも思い出します。

 「彼を自由にさせてあげるべきだ」と。

 おかげさまで、わたくしもまた、自由になることができました。

 貴女の献身的な愛のおかげです。

 心より、感謝申し上げます』


 メロディアの目から、ボロボロと涙が溢れ出した。

 文字の一つ一つが、鋭利な刃物となって心に突き刺さる。


『さて、わたくしがもっとも憂いているのは、祖国の未来です。

 今は国王陛下や王妃殿下が政を担っておられますが、やがてお隠れになったときが心配でなりません。

 彼が国の王として立つこと。それは貴女の手に懸かっておりますわ。どうか、頑張ってくださいませ』


 考えないようにしていたことをわざわざ指摘され、嘔吐感が込み上げてきた。

 そして震える指で読み進めた追伸には、こう記されていた。


『追伸:同封した絵葉書は、新婚旅行で訪れた湖です。とても美しく、静かな場所でした。……貴女様はご多忙で、旅行などなかなか行けないかもしれませんわね。ごめんなさい、配慮が足りませんでしたわ』


 メロディアは手紙を握りしめ、喉の奥から獣のような呻き声を上げた。


「うあああああああ!! おあああああああああああっ!!!!」


 悔しい。

 憎い。

 羨ましい。


 彼女は知っていたのだ。

 この地獄の深さを。


 だからこそ、あのお茶会での挑発も、宝石の受け渡しも、全て計算尽くだったのではないか。

 メロディアを焚きつけ、引くに引けない状況を作り出し、自分は加害者という立場で泥船から脱出する。

 そのために、あえて悪役を演じていたとしたら?


「レティシアァアアア……!」

「メロディア! 何をしているんだ!」


 突然、扉が開いてジュリアンが入ってきた。

 彼はメロディアの手にある手紙を見ると、顔を真っ赤にして奪い取った。


「レティシアからの手紙か? 返せ! 僕への謝罪文かもしれないじゃないか!」


 ジュリアンは手紙を乱暴に広げ、中身を読み……そして、ビリビリに引き裂いた。


「嘘だ……嘘だ嘘だ嘘だ!!」


 彼は紙吹雪となった手紙を踏みつけ、絶叫した。


「幸せそうだなんて、そんなはずない! あいつは僕を失って泣いているはずだ! 僕が捨ててやったんだぞ! なのになんで……なんであいつの方が笑っているんだ!」


 ジュリアンは子供のように地団駄を踏み、近くにあった花瓶を壁に投げつけた。

 ガシャン、という破壊音。

 だがメロディアは、もう驚きもしなかった。


 暴れる夫の姿を見ながら、彼女の心に冷たい諦めが満ちていく。

 

(ああ、この人は一生気づかない)

 

 自分がどれほど愚かで、どれほど惨めな存在か。

 自分を守ってくれていた盾を、自ら捨ててしまったことに。


「メロディア! 何とか言えよ! 僕が一番すごいんだろう!? 僕が一番幸せなんだろう!?」


 ジュリアンがメロディアの肩を掴み、揺さぶる。

 その瞳は怯えと狂気に満ちていた。


 肯定してくれ。

 僕が正しいと言ってくれ。

 そう縋り付く彼は、哀れな怪物だった。


 メロディアはゆっくりと顔を上げた。

 その唇に、張り付いたような完璧な笑みを浮かべる。

 それはかつて、彼女が軽蔑していたレティシアの、仮面のような笑顔そのものだった。


「ええ、そうですわ、ジュリアン様」


 メロディアは優しく、しかし温度のない声で囁いた。


「貴方様が世界で一番素晴らしい方です。あのような見る目のない女、放っておけばよろしいのです」


 そう言って、夫の背中を撫でる。

 ジュリアンは安堵したようにメロディアの胸に顔を埋めた。


「そうだよな……うん、そうだ。メロディアはずっと僕のそばにいてくれるよね? 靴下も履かせてくれるし、お肉も切ってくれるよね?」

「はい。……死ぬまで、お世話させていただきます」


 メロディアは窓の外を見た。

 鳥が空を飛んでいる。

 自由な空を。


 檻の中にいるのは、ジュリアンではない。

 彼という重りを足枷に繋がれた、自分だ。


(欲しがったのは私。奪ったのも私。……だからこれは、私が飲み干すべき毒だったのね)


 メロディアはジュリアンを抱きしめたまま、一筋の涙を流した。

 その涙はジュリアンの服に吸い込まれ、誰の目にも触れることなく消えていった。


 泥棒猫が盗み出したのは、極上の宝石箱。

 けれどその蓋を開けた瞬間に溢れ出したのは、終わりのない孤独と絶望という名の猛毒だった。


 二人の幸せなおままごとは、これからもずっと続く。

 観客が誰もいなくなった舞台で、幕が下りることのない永遠の地獄劇として。



 了

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― 新着の感想 ―
ぅわぁ~(;´Д`)凄い! 気になって読み耽ってました 素晴らしく凄いざまぁかな レティシアだけが幸せになれた 前半しんどかったケド よくある略奪愛のその後の 凄惨さはNO.1な気がします 救いの無い…
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