06:寝る子は育つ
ぐらりと視界が揺れ、体がふわりと浮かんだ瞬間、次に待っていたのは想像を絶する衝撃だった。
頭を打ったのか、気絶していたと思う。何が起きたのか分からず目を開こうとしたが、どろりとした液体が瞼を覆って開くことができなかった。
少しずつ五感が戻ってくると、鉄の錆びたような臭いの隙間から、ガソリンとゴムの焼け焦げた臭いがした。次に女性の悲鳴と、子供の泣き声、そして「誰かーっ!」と助けを求める声。
けれど、体を動かそうにも指一本動かせなかった。
パチパチと火花の散る音がして、動かない足が熱くて堪らなかった。なのに、「ここにいる」「誰か来てくれ」と声を上げることもできなかった。
不思議なもので自分の死期が迫っていると、込み上がってきた感情は「もっと生きたい」という希望ではない。──「死にたくない」という恐怖だ。
まだ死にたくない、こんなところで死にたくない、誰か、誰か……。
「……か、さん……お母、さん……っ」
無意識に母親に助けを求めていた。
すでに他界して数年経っているのに、今すぐそばにきて「大丈夫だよ」って言ってほしかった。抱きしめて安心させてほしかった。
死がどんな場所かも分からない。
怖くて、怖くて、自分はこのまま死ぬんだと思ったら涙が溢れた。
顔が煙に覆われて意識が遠のく。
きっと、これ以上の恐怖を味わうことはないだろう……。
★★
いつもの朝、いつものように目覚めて、いつものように起き上がる。
が、違和感を覚えてフリーズした。
「……待って、ここどこ?」
上体を起こして握りしめた布団は、ふわふわの羽毛布団。布団カバーやシーツは肌触りなめらかなシルク。ベッドはキングサイズと大きく、棺桶のように狭くて干し草を敷き詰めただけの硬い木製ベッドとは大違いだ。
「んふ、ふふっ」
あまりの気持ち良さに、布団をかぶって横になる。
──これが夢の中だったら、もっと良かったのに。しかし、花屋の娘は思う存分シルクの上で泳ぎに泳いだ後、ここが現実であることを悟った。
変わったのはベッドだけではない。女神が描かれた天井の壁紙から、部屋に置かれた高級な家具や装飾品に至るまで、初めてみるものばかりだ。
昨日はゲーゲー吐きまくったことだけは覚えている。その後は、夕飯もあまり食べられずに就寝してしまった。もちろん自分のベッドで。
それからは、いくら思い出そうとしても肝心の部分が浮かんでこなかった。眠っていたにしては、ここまで移動させられて目が覚めなかったのも妙だ。意識がなかったのなら別だが。
花屋の娘は名残惜しそうにベッドから下りた。
床に足を置くと、ふかっとした絨毯の感触に感動する。思わず、裸足なのも忘れて飛び跳ねた。ついでに部屋中を歩き回る。
その時、ひらひらした白い物を引きずっていることに気づいて立ち止まった。一瞬、お尻からトイレットペーパーがぶら下がっているのかと思った。あれはちょっと恥ずかしい。いや、かなり恥ずかしい。
だが、そうではなかった。
「なんだろ、これ」
最初は紙だと思ったそれは白い布だった。どうやら自分の太ももから剥がれたものらしい。
──と、ようやく自分の体を見下ろした時だ。
部屋の扉がノックされ、返事をする間もなく「失礼いたします」とメイドが入ってきた。深緑色の制服を着たメイドは、水が入った容器とタオルを持っていた。
そして互いの目が合った瞬間、メイドの顔がみるみる蒼褪めていくのが分かった。花屋の娘が声をかけようとした時、メイドは持っていた容器を投げ出して悲鳴を上げた。
「ぎゃあああーーー!!」
「え、えぇぇ……」
屋敷中に響き渡るような声に、こちらのほうが驚いてしまう。
何がそんなに彼女を驚かせてしまったのか。外見に問題はないはずだが、念のため鏡を探した。これでも花屋という商売をしている以上、姿を見られただけで悲鳴を上げられては、風評被害もいいところだ。
だが、見つけた全身鏡の前に立った瞬間、花屋の娘はひっくり返った。そこに映っていたのは、本来の自分とは程遠い姿だったからだ。
鏡には目と口以外、包帯でぐるぐる巻きにされた女が立っていた。ホラーだ、ホラーすぎる。メイドが悲鳴を上げて腰を抜かした理由が分かった。さすがにこれは怖い。
「どうかしましたかっ!?」
メイドの悲鳴を聞きつけて人がやって来た。
最初に駆け込んできたのは、見覚えのある男だった。オレンジ色の髪をした、花屋にも現れた男だ。
口をパクパクさせていると、先に腰を抜かしたメイドが土下座をして頭を下げてきた。
「もっ、申し訳ありません……っ!」
「い、いえー……これは私も驚いたので、あははー」
ところで、なぜこんなことになっているのか。そちらのほうが重要だ。
それにオレンジ髪の男がいたということは、彼らの領域に踏み込んでしまった気がする。
花屋の娘は状況を把握するため、ゆっくり立ち上がった。
「あの、立ち上がって大丈夫なんですか……?」
「ああ、これですか? たぶん、大丈夫ですよ」
そう言って彼らを安心させるため、花屋の娘は腕の包帯を取り始めた。
「ちょ、ちょっと待ってください! 今すぐ医者を呼んでくるのでっ!」
「そんなことしなくても……って行っちゃった」
オレンジ髪の男が出て行った廊下では人が集まってきて騒がしかったが、彼らが中に入ってくることはなかった。そのように言い付けられているのかもしれない。
花屋の娘は、その間にも身体中の包帯を取っていく。包帯は内側にいくほど赤黒く染まって、血と薬品の臭いがした。
しかし、肝心の皮膚はまったくの無傷だった。包帯をすべて取ったところで、改めてメイドに向き直った。今度は驚かれることもないだろう。そう思ったが、彼女はさらに泡を吹いて気絶した。Why?
もう一度鏡を見ても、花屋の娘がシルクのバスローブを着て立っているだけだ。他におかしいところはない。
すると、廊下から聞こえてくる声が一瞬で収まった。皆が押し黙ったのが分かる。同時に、ぞわりと鳥肌が立って嫌な予感がした。
「──それで、怪我が一日で治った理由を聞かせてもらおうか?」
この冷たい声は間違いない。
もう二度と会うことはないと思っていた男だ。
恐る恐る振り返ると、ラフな格好をしたカルロス(仮)が立っていた。逃げ場がないだけに嫌な汗が噴き出す。いっそ自分も気絶するか。
「……寝る子は育つって言うじゃないですか」
相手は、冗談が通じない男。
このまま永遠の眠りにならないことを切に願うしかない……。