01:名無しのエキストラ
物語には必ず、名前を持たないエキストラが登場する。
花売りの少女、屋台を切り盛りする店主、その前を歩く老夫婦、そして野良犬──彼らが登場するのは一度きり、もしくはたった一文、一コマ……。
けれど、物語を進めていく上で時にはとても重要な役割を担っていて、なくてはならない存在だ。
たとえば、リンゴひとつ転がす役でも。
「……っと、危ない危ない。リンゴ、落とすところだった」
野菜売りの店主から押し付けられるようにして渡された麻袋から、リンゴが転がり落ちそうになって咄嗟に受け止めた。──いや、受け止めてしまった。
それが後に、とんでもない事態を招くことになるとは思わず。
女は真っ赤に熟したリンゴを見つめ、「帰ったらリンゴパイでも作ろうかな~」と大きな独り言を呟く。
その時、後方の大通りが騒がしくなって振り返った。
どうやら一台の馬車が事故ったらしい。この世界ではよくあることだ。適当に舗装された道路は、馬車が度々脱輪するぐらいに悪く、同様に秩序もあってないようなものだった。
リンゴを持った女は、人だかりができ始める前に事故現場から離れた。その馬車事故では一人の少女が巻き込まれ、大惨事になっていたとは知らず。
名無しのエキストラはリンゴを転がすことなく、鼻歌を唄いながら帰って行った。
「──おい、このバス大丈夫か……?」
それが死ぬ直前に聞こえてきた声だ。
ぐらりと揺れてバスが横転し、志野奈々子は24歳という若さで死んだ。……と、思う。あの状況で生きていたら奇跡だ。
現に、目を覚ましたらまったく違う人間になっていたのだから。
見覚えのない天井、見覚えのない室内、見覚えのない自分の姿──名前も知らない「誰か」に憑依していた。
しばらく身に起きた現実を受け入れられずにいたが、元より図太い性格もあって、二日後には歌を口ずさみながら近所を散策していた。外へ出て分かったことは、ここが「リンフルト国」という国の王都であること。おかげで、死ぬ直前まで読んでいたWEB小説の中であることが分かった。
『黄金眼の王子と報復の魔女』──投稿サイトに掲載されていたWEB小説で、完結作品から見つけて、一ヶ月前から読み進めていたものだ。100万文字を超える大作で、バス事故に遇わなければあの日に最終話を読み終えていたところだ。
物語は剣と魔法が存在する国で、王族だけが受け継ぐ黄金眼を持った王子が、継母から命を狙われながらも仲間たちと苦境を乗り越え、特別な能力を持つ少女と出会い、自分の運命に立ち向かっていくロマンスありのファンタジーものだった。
ありきたりと言えば、ありきたり。
けれど、王子の幼少期から書かれた作品は、彼の成長を我が子のように見守る親の感覚で読み進めていく読者が多かったせいか、後半の感想欄は王子の父親や母親と名乗るコメントで溢れた。
他にも個性豊かな脇キャラクターも人気で、それぞれの物語も閑話などで書かれたことで、本編が完結するまで随分とかかったようだ。リアルタイム組と盛り上がれなかったのは悔やまれるが、完結という安心感に包まれながら一人で楽しむことにした。
平日は通勤するバスの中、お昼休みは手作りお弁当を食べながら、夜は眠りにつく三十分ぐらい……小説を読んでいる時だけは現実を忘れて、その世界に没頭することができた。死ぬ間際まで。できることならラストまで完走したかったが、死んでしまったものは仕方ない。
──と、物語の内容を思い出してみたものの、まったくの無駄だった。
これまでにも、物語の内容を知る人間が、作中の登場人物に憑依する小説はいくつも読んできた。その殆どが主要キャラに成り変わって運命を覆す話だった。未来が分かっているのに、何もしない手はないだろう。とくに憑依したキャラクターが死ぬ運命にあれば尚更、黙って死を受け入れる者はいない。姿形は登場人物でも、魂は別人なのだから。
だが、女が憑依したのは、ヒロインの少女でもなければ、悪役の継母でもなく、主人公たちを取り巻く脇役でもなかった。
与えられた役は──名無しのエキストラ。
皆はこのキャラクターを「花屋の」や「花屋の娘」と呼ぶ。名前は知らない。二階建ての家屋を店舗兼住居にし、一階で新鮮な花を売っていた。
花の知識はなかったのに、どういうわけか花に触れると名前から効果まで、あらゆる情報が見えた。これが異世界人あるあるのチート能力かと思ったが、だからと言って凄いことができるわけでもない。
それより、定期的にやってくる客に花を売った翌日、なくなった花が勝手に補充されているほうが感動的だ。
他にも怪我や病気は、一日寝ると「あら不思議」な具合に治っていた。
──物語が円滑に進むよう用意された、エキストラだから。
主要キャラクターがストーリーに沿って問題なく動けるように、エキストラたちはつねに準備された状態で待機していなければならない。
と、推測してみたが、果たしてそれが他のエキストラも適応されているのか分からない。ただ、毎日が繰り返されるわけではなく、間違いなく時間は進んでいた。
しかし、物語と照らし合わせたことはない。
憧れのヨーロッパにいるような美しい景観に、住む家があって、仕事やお金にも困らず、名前がないことを除けばまったく不便ではない生活。死ぬ前よりずっと気楽で、ストレスフリーな毎日。浮かれ気分で足取りは軽く、鼻歌も弾む。
そして、声高らかに一度は言ってみたいあの言葉を口にする──「ボンジュール!」
「──閣下、今すぐこの女性を探してください」
暗幕のかかった部屋に、向かい合って座る男女。どちらもローブのフードを被って、素性は知れない。明かりは蝋燭に灯された火と、丸テーブルに置かれた淡く光る水晶玉だけ。甘い雰囲気は微塵もない。
女は緊張した面持ちで、水晶玉を撫でるようにして両手を翳した。長く伸びた黒い爪が怪しげに光る。
「お前に言われた通り、決まった日時と場所で例の女を捜しに行ったが会うことはおろか、見つけることもできなかった。……魔女よ、私を謀ったか」
「とんでもございません、閣下を騙すなど……っ。ですが、予期せぬ事態が起きたことは事実です」
「私を裏切ればどうなるか分かっているな」
魔女を前にしても恐れるどころか、高圧的な態度をとる男に、女はごくりと唾を呑み込んだ。男が腰に差した剣の鞘に触れたことで、女は慌てて口を開いた。
「き、希望の星が突然消え、新たな星が生まれたのです……! そこに書かれた女性を連れてきてくだされば、閣下の望みも叶うはずです!」
「……新しい星か」
魔女は急ぎ、水晶から得た情報を羊皮紙に書いて男に渡した。
今度こそ問題が起きないように、人物を特定できるような内容まで書いた。あとは命乞いするように両手を組んで、何度も頭を縦に振った。
「彼女は閣下たちを導く「預言者」です。この娘がいれば、これから起こりうる危険を回避することができるでしょう──」
と前回同様、自信たっぷりに言ってくる魔女に、男は目を通したばかりの紙に悪態をついた。
「花屋の娘が、か」
「はい、花屋の娘です」