ナカムラくんと僕
ナカムラくんと僕
朝、珍しく早く目を覚ました。
カーテンを開けると窓から灰色の空が見えた。外は肌を引き剥がすような冷たい雨が降っていた。黒い雨粒がアパート
の屋根をはげしく打ちつけていた。
仕事を辞めてからもう何日も外出していない。今日も一日家にいるだろう。ゆっくり起きて新聞を取りに玄関に出た。
アパートのドアを開け新聞受けに手を伸ばして朝刊を取ると、新聞にくっついて一枚の紙切れがポストから出てきた。紙
切れは床にポッと落ちた。拾って見てみると、A4のコピー用紙に、読みにくそうな細かい字でメッセージが書いてあっ
た。ベッドに引き返して灯りをつけ、その文字を読もうとしたが、神経質そうな震える字で書かれたその文章を読むのは
一苦労だった。だが、読み始めると、僕は頭をかかえてしまった。そこには、僕の思いもしなかった過去が書いてあった
からである。
そのコピー用紙に書かれていたのは、忘れていた友人からのメッセージだった。
僕はその友人ナカムラくんのことをその時まですっかり忘れていた。でも、そのメッセージを読んでいるうちに、ナカ
ムラくんが僕の人生に深く入り込んでいたあの頃のことが脳裏によみがえってきた。
メッセージの文面には、少年時代の思い出がいろいろ書かれていて、それが記憶の扉を揺さぶり、ナカムラくんとの過
去の日々のあれこれが黒い雨粒となってどっと僕の心に降りそそいだ。。
おぼろげな過去の記憶が、ガラス越しに見る景色のように透きとおって見えてくると、その記憶にまとわりつく感情が
徐々によみがえってきた。
メッセージには、僕とかかわった日々の思い出があれこれ書かれていたが、最後は次のような文面で締めくくられてい
た。
「君はあのことを忘れていないだろうね」
その言葉は謎だったが、さらに続けて、ナカムラくんは今の僕に会って話したいと言う。
部屋のベッドに横たわって天井を見ながら考えていると、それまでぼんやりしていたナカムラくんの姿が次第に像を結
んできた。ナカムラくんとの思い出が、ぼくの心にわき上がる泡となって浮かびあがってきたのである。
あの頃、ナカムラくんは僕のただひとりの友人だった。 僕は一人っ子で、他の子供と遊んだ記憶はない。
そんな僕の唯一の友人がナカムラくんだった。
ナカムラくんに初めて会ったときのことを覚えている。
そのとき、僕は近所の公園に隣接する林でひとり虫取りをしていた。 林の奥の方で電極にとぶ火花のようなパチパチ
という音がした。音のするほうに近づいていくと、灌木の茂みの中で何かが光っていた。僕は火事かと思って逃げようと
したが、「ちょっと待って」という声が聞こえた。光っている茂みをもう一度見ると、その茂みの向こうに小柄な男の子
が一人立っていた。見たこともないよその子だった。
その男の子は、真っ赤なシャツに白い半ズボンを穿いてそこに立っていた。
彼は口の端からぺろりと舌を出して、僕に近づいてきた。「僕、昨日こっちに引っ越してきたナカムラです」と名のっ
た。その場の不穏な空気に心が騒いだが、その見知らぬ男の子に僕は思いきって声をかけた。
「ミット貸してあげるからいっしょにキャッチボールしない?」
ナカムラくんは、東京からお母さんと一緒に引っ越してきた。
僕の生まれた町では、彼は田舎の風景にそぐわない存在だった。髪の毛は縮れて巻き毛になっていて、色白でなで肩の
その男の子は、大きな眼をしていてすっきりとした顔立ちで、肌はつるつる輝いていた。都会風のカラフルなシャツを着
こなし、言葉遣いも垢抜けていて、僕と話す時は女の子のような赤い唇がゆっくり動いて、鳥の鳴き声のような声で語尾
に抑揚をつけた優しい話し方をした。
歩くときは、足に障害があるらしく、足を引きずるようにペタペタと音を立てて歩いた。
ナカムラくんは、いつもくったくがなく朗らかで、どんな時も何も悩みがないように思えた。 まるで僕と正反対だ。
僕はといえば、鈍くさい田舎の少年で、ナカムラくんと知り合うまで一人も友達がいなくて、学校や放課後はいつも孤
独だった。いつも一人で虫やオタマジャクシを追いかけて一日を過ごした。
自分の世界にどっぷりつかっていて、周りの世界は僕にとって何の関わりもない情景に過ぎなかった。僕はみじめで、
世界はおぞましく、空虚だった。ここは本来ぼくがいるべき場所ではないように感じていた。
僕の中で時間は静止していて、空間は無限に広がっていた。誰も僕の世界に入ってきてほしくなかったし、孤独の時間
は甘い蜜のようだった。
ナカムラくんと知り合ったのはそんなときだった。
ナカムラくんは、お母さんと二人暮らしだった。お母さんは一人で小さな飲み屋をやっていた。二坪ほどの小さな店で、
道路に面してお店が広く開いていて、カウンターに椅子が四、五脚置いてあった。夜になると店に赤い灯りが点って、カ
ウンターの向こうでお母さんが客にお酌をしているのが見えた。汚れた服を着たおじさんがいつもカウンターでコップ酒
を飲んでいた。七輪で焼いた魚がおかずだった。
店の裏が彼らの住居だった。ナカムラくん母子は、そこでひっそり暮らしていた。居間が二間に台所とトイレしかない
小さな平屋で、台所の広い土間には大きなかまどと水瓶があった。水瓶には水道の蛇口から水がぽたぽたと落ちていた。
その暗く陰気で湿った空間を僕はよく覚えている。その空間は陽もあたらず冷え冷えとしていて、そこはナカムラくん一
家の背負った悲しい過去が淀んでいるように思えた。
ナカムラくんのお母さんは、髪を引っ詰めにしていて、おくれ毛に汗がまとわりつくと、海から上がった海女のように
見えた。血管が透けて見えそうな白い肌が、お酒を飲んでいるときはうっすらとピンクに染まった。なぜかいつも悲しそ
うな顔をしていたので、僕は、お母さんはきっととても疲れているんだと思った。
ナカムラくんは、お母さんのことはあまり話さなかったが、お母さんのところにときどきよく知らない男の人がやって
くる、と言った。男の人が家にいるときは、ナカムラくんはずっと外で遊んでいなくてはならなかった。そのことを話す
ときは、ナカムラくんはとても寂しそうな声になった。
ナカムラくんは、一度、その男の人が来ていたとき家の中を覗いたことがある。お母さんからは絶対覗いてはいけない
と言われていたのに。
そのときお母さんは居間で仰向けに倒れていた。着物がはだけて白い胸が見えた。お母さんを助けに行こうとしたとき、
お母さんは「来ないで」と強い言葉で言い放った。ナカムラくんが家の入り口で躊躇していると、男がタバコを吸いなが
らナカムラくんの脇を通って家の外に出て行った。
ナカムラくんは、半裸姿のお母さんをずっと見ていたが、涙が出て止まらなかった。それをぬぐわずにナカムラくんは
お母さんをずっと見ていた。
僕とナカムラくんは、外の世界から隔離された二人だけの小さな世界に閉じこもっていた。
果てしなく長いけだるい夏の午後、僕とナカムラくんは広い野原でキャッチボールをした。風のない暑い日は、日照り
をさけて彼の家で相撲を取った。誰もいない暗い土間で、お互いお気に入りの力士の四股名を名のって身体を寄せ合い、
がっぷり組んで投げを打ちあった。彼の髪の毛が柔らかい羽毛のように僕の肌をくすぐった。彼の小さい身体から漂って
くる甘い体臭がむせるように僕に迫ってきて、僕は息苦しくなり、そのまま気を失いそうになった。二人で組み合って激
しく動き回ると、彼の髪の生えぎわから首筋に滴り落ちる汗を、僕はそのまま舌で啜った。その湿り気のある絹のような
肌は、ナメクジのぬらぬらした粘液でおおわれていて、その感触で僕の心は否応もなく萎えてしまった。
遊び疲れると、夏の太陽が照りつける広場で並んで座って、ビー玉を太陽にかざしてのぞき込む。ガラスの中に小さい
泡がたくさんあって、夜空に瞬く星々のようにきらめいていた。
ナカムラくんは言う「あの星の一つから僕は来たんですよ」
ガラス玉の中の小宇宙。その中に僕たちの世界は閉じ込められ、それを外から覗いている僕たちはいったい何だったん
だろう。
「そこが僕たちの住みかさ」
ガラス玉は、コンクリートの床に落ちて砕け散った。
ナカムラくんは、いつかあのガラス玉の宇宙に戻ってゆくのだろうか。
あの頃、永遠に思えた光あふれる夏の一日を僕たちは何の心配もなく二人きりの時間を思い切り楽しんだ。彼のあの声、
あの身体のぬくもり、あの歩き方...全てが僕の感覚に染みついている。
ナカムラくんといると、僕はもはや孤独ではなくなった。学校にいても、生徒たちの嬌声や様々な雑音はもはやもう気
にならなくなっていた。ナカムラくんはいつも僕のかたわらにいた。
でも、それまで僕が感じていたあの生きづらさはどこから来ていたのだろう。僕はいったい何を恐れていたのだろう。
ナカムラくんの存在は暗黒を照らす一筋の光だった。
ナカムラくんは僕の耳元でささやく。
「大丈夫じゃないけど大丈夫さ」
その言葉は、僕の前に立ち現れる世界のおぞましさを払いのけてくれて、僕の心に響いた。ナカムラくんは、泥水から
顔を出した一輪のハスの花だった。
あの夏の日、僕たちはいつか別れを予期するかのように、その時その時の今を精一杯生きていたように思える。
僕が見つめるナカムラくんの瞳は、僕にこう語っていた。
「君は今を生きているかい」
それでも僕にとってナカムラくんは謎の存在だった。ナカムラくんが何者なのか、どこから来たのか、僕はどうしても
知りたかった。ある日、彼がふと僕の前から消えて、どこにも見えなくなった時があった。僕は必死に彼を探して歩きま
わり、町外れの河川敷にやってきた。
町から少し外れたところに大きな川が流れていて、川辺は訪れる人もなく、ただ急流を走る水音だけがあたりに響き渡
っていた。
もう夕暮れが近かった。
水辺に蛍草が群生していた。青紫色の花びらが水面に映えて、川辺のあちこちで風に揺れていた。
迫り来る宵闇が川べりにひろがり、あかね雲が水面を朱色に染めていた。蛍草にたくさんのホタルが群がっていた。さ
らに暗くなって、夜の闇があたりをつつんだ。尻を光らせたホタルが暗闇の中を星のように一面に飛びまわっていた。
僕が川のほとりにやってきたとき、ナカムラくんはそこにひとり立っていた。ホタルがナカムラくんめがけて集まり、
ナカムラくんはホタルに囲まれて青く発光する幽鬼のように輝いていた。 たくさんの蛍がナカムラくんの身体にまとわ
りつき、青く光るひとがたを作っていた。
そのひとがたは、夜空にむかって何かつぶやいていた。空にはまばらに星が瞬いていた。僕はそのつぶやきを聞こうと
したが、よく聞き取れなかった。でもその言葉は日本語ではない何か不思議な外国語のように聞こえた。
ナカムラくんはしばらくそこに立っていたが、やがて水辺に近づき、川の中にずんずん入っていった。そして、その燐
光を放つ彼の身体はそのまま水の中に消えてしまった。
僕は声もかけられず、ただ彼の姿を草陰から見ていただけだった。僕はじっと彼を見ていた。彼が振り向かないことを
祈った。その時、僕は見てはいけないものを見てしまったと思った。彼の消えた姿を瞼に残して、僕はそっと立ち去った。
ナカムラくんのことを考えるとき、記憶が僕に語りかけるのは、ワタナベくんのことだ。
ある夏の午後、僕たちは河川敷で水遊びをしていた。拾った石で水切りをしたり、すすきの穂を折って猫じゃらしを作
っておたがいをくすぐりあったりして遊んだ。 そこにワタナベくんがやってきた。
ワタナベくんは身体の大きな乱暴な男の子で、まわりの子をひどくいじめたのだが、特に僕のことはなぜか目をつけて
はげしくいやがらせをした。僕の横をうしろから通り過ぎるときはいつも僕にデコピンをしたり、僕の持ち物を(大切に
していたペンケースなどを)取り上げどこかに隠したり、火の付いた蚊取り線香を僕の腕に押しつけたりした。ワタナベ
くんは悪の権化だと僕は思った。
ワタナベくんは、僕とナカムラくんが遊んでいると、やってきて意地悪をした。僕たちを遊んでいる場所から追い出し
て、ひとりでその場所を占領するのだ。
僕とナカムラくんは、ワタナベくんに仕返しをすることにした。 ワタナベくんに、学校の帰りに川辺で会おうと声を
かけた。そして、僕たちはその時間がくると、すすきの穂のあいだに隠れてじっと待った。
僕とナカムラくんは綿密に計画を立てていた。ワタナベくんが下校時にこの河川敷を通ることを知っていた。あの辺に
はいつももやい船が二、三艘つないである。ワタナベくんが来たらあいつを舟に乗せて、もやい綱を解いて舟を流してや
ろう。あいつは泳げないのだ。きっとあわてるぞ。
おびきよせられたワタナベくんが近づいてくる。
水面にアメンボが浮いていた。
僕たちは草陰から走り出してワタナベくんに近づいた。ワタナベくんはギョッとした顔をして僕たちを見た。僕はワタ
ナベくんに「いっしょに舟に乗ろうよ」と誘って、彼ひとりを船に乗せ、もやい綱を解いて舟を川にむかって押し出した。
舟は水上を滑るように雨上がりの急流を揺れながら下っていった。 急流はところどころ渦を巻き、おそろしげな音を
立てて流れていた。
ワタナベくんは最初、驚いたような顔をしていたが、船縁にしがみつき悲しそうな顔をしてこちらを見た。
「おい、なんてことをするんだよ」
ワタナベくんは泳げないのだ。
舟は急流に呑み込まれ、くるくる回転しながら激しく揺れていた。彼の姿は波の合間に見え隠れし、僕たちの視界から
消えていった。
そのあと、どうなったのか、僕はよく覚えていない。
三日後に、遠い河口でワタナベくんは水死体で見つかったと誰かが言った。
この光景が、スクリーン上に映し出される古い映画フィルムの映像のように僕の心に映し出されている。しかし、それ
が現実に起こったことなのか、それともうたた寝をしたときに見た夢の続きだったのか、よく分からない。 僕はワタナ
ベくんの死体を見たわけではないし、ただ人の噂を聞いただけだ。彼が生きているのか本当に死んでしまったのか、僕に
は分からない。でも、いま考えると、みんな夢のうちのように思える。
その後、ワタナベくんとは会っていないし、その姿を見たこともない。 あの出来事は、今では全く現実味がないのだ。
ナカムラくんがやってきてから半年ほどたった頃だった。そのナカムラくんが急にいなくなった。
僕はあの恐ろしい日のことを思い出す。
彼を誘って釣りに行こうと、いつものように釣り竿とバケツを持って彼の家に行った時、玄関に鍵がかかっていて、家
の中がしーんと静まり返っているのに気がついた。居間のあたりを窓の外から覗いても、電灯も付いておらず、家の中は
暗く、まったくひとけがなかった。僕は胸騒ぎがして自分の家に走って帰り、そこにいた母に尋ねた。
「あの角のうちはどうしたの。どこかに行っちゃったのかな。どうしよう...」
母は、動揺している僕などかまわずにしらっと応えた。
「あのうちはね、家賃が払えなくなってどこかに引っ越したらしいよ。大家さんがそう言っていたよ」
「うそだよ。うそだよ。そんなはずないよ。嘘だと言ってよ、お母さん」
母は、ぐずる私を無視してそれ以上なにも話さなかった。
ナカムラくんは行ってしまった。僕には何も言わずに。そんなことがあるのだろうか。僕は悲しくなった。
吹きすぎた風のようにナカムラくんは去って行った。僕は、その姿を追った。しかしその影は時間とともに薄れ、いつ
か見えなくなってしまった。
それでも僕はナカムラくんの影を追い求めた。ナカムラくんを失うことは、僕にとって地獄に行くも同然だった。何も
話さなくても、お互いのことは何でも分かる、と僕は思いこんでいた。でも、ナカムラくんは何を思っていたのだろう。
ナカムラくんが話さなかったことを今からでも聞きたいと思う。二人だけでそっと持ち続けた世界の秘密を、誰にも打ち
明けることなくいつまでも持っていたいのだ。
あれから何年も経った。ずいぶん多くの時間が流れ、年月はナカムラくんの影を消し去ったが、ナカムラくんは月が雲
の合間に隠れるように消えて、また満月のように僕の前に現れようとしている。ナカムラくんはそのあいだ何をしてきた
のだろうか。ナカムラくんが僕に会いに来るという。情けない僕の姿を見られるのは恥ずかしいが、現在の彼に会いたい
気もするし、少し怖い気もする。
一体、ナカムラくんは誰だったのだろう。どこから来てどこに去って行ったのか。僕はいつまでも考えていた。遠くか
らやってきて、遠くへ去って行った不思議な友人。忘れかけていた夢が、今になって、なにかの拍子で束の間よみがえる。
ナカムラくんは、いつも心の中で僕に問いかけてくる。
「君は今を生きているかい」
今になって思い出すと、ナカムラくんの姿は、ぼんやりと僕の前に浮かびあがり、彼とともに過ごした日々が、すべて
まるで夢のように思える。しかし、夢が現実より無意味だと本当に言えるだろうか。
僕も故郷を離れて何年にもなるが、それでもあのときあの場所でナカムラくんと過ごした数ヶ月は、僕の心の中で宝石
のように輝いている。
僕たちは広場でよくボール投げをやった。彼がボールを高く投げるとボールは風に揺れて空から落ちてきて、僕のミッ
トに収まった。そして僕がボールを投げ返すと、彼は取りそこねて、足を引きずりながら転がっていくボールを追いかけ
た。誰もいない広場で僕たちは何時間もそれを繰り返した。見ている人は誰もいなかった。
先日、何年ぶりかで故郷の町に帰ったとき、ナカムラくんと遊んだ広場に行ってみた。広場は昔のままだった。近所の
人を訪ねてみたが、誰もナカムラくんのことを覚えている人はいなかった。
僕のことをよく知っていたスズキさんに出会ったので、ナカムラくんのことをきいてみた。
スズキさんは言う。
「君はよく一人で遊んでいたな。ひとりでぶつぶつ言いながら、広場で相手もいないのにボール投げをやっていたよ」
「僕といっしょにいたナカムラくんのことを覚えていますか」
「いや、君はいつも一人だったよ。私の知るかぎり、君は誰ともいっしょじゃなかったな」
ナカムラくんが、これから僕のところにやって来ようとしている。 今朝ポストに入っていたメッセージのあと、過去
が洪水のように押し寄せてきた。僕はそれを拒否することができないし、起こってしまったことを元に戻すこともできな
いのだ。
現在の僕は仕事もなく、都会で先のない暮らしをしている。世界は僕に向かって相変わらず閉ざされたままだし、ナカ
ムラくんが一度開けてくれた扉は再び閉ざされてしまった。僕はただうなだれて、立ちつくす。
ナカムラくんはもう一人の僕だったのだろうか。僕が決して受け入れなかったものをナカムラくんはたくさん持ってい
たように思う。彼の大きな眼は、空や木や草を映して輝いていたし、彼の温かい手は、僕の冷たい首筋を温めてくれた。
よそ行きにすました僕の横顔を彼はリラックスしたほほえみに変えてくれた。そんな友達が、彼のほかにこの地上のどこ
にいるだろうか。
ナカムラくんは僕が置き忘れた何かを届けるためにやってくるのだろうか。その忘れ物を遠い過去から持ってくるのだ
ろうか。それは僕が無くしたものだ。きっとナカムラくんは、その忘れ物で僕の過去を取り戻してくれるだろう。
「君はあのことを忘れていないだろうね」
耳元で彼がささやく声がする。
今、アパートの階段を上ってくる足音が聞こえる。特徴的なペタペタと足を引きずる音だ。その足音は、僕にナイフの
鋭い切っ先を突きつける。そのナイフはきっと僕の心臓を切り裂くのだ。
「君は今を生きているかい。ワタナベくんのことを忘れていないだろうね」
パチパチと電極に火花がとぶような音をたてながら、足音が階段の最後の踏み段まで来て、廊下をこちらにずっと歩い
てくるのが聞こえる。
今、それが僕の部屋の前でぴたりと止まった。
僕はドアを開けようか、開けまいか、迷っている。
【了】