終末のアダムと、その父
「本屋」の入り口、地下4階の分厚い耐爆扉を潜ると、老齢のマスターは検品の真っ最中だった。赤い革張りの立派な大型本を手に取り、仔細に眺め、奥付けを確認して隣の山に乗せる。ぼさぼさの白髪頭、ほとんどが白いまだらな無精髭。ぴかぴかに磨き上げられた眼鏡のレンズの奥では鋭い目が光る。でも、普段は着ないようなアーミージャケットを着ていたりして、どことなく「気合い」が入っているのを感じる。いつもと何かが違っている。
「よう、なにかいいものは手に入ったか」
しかしその口ぶりはいつもどおりだった。
「いや。急に呼びつけるから物色してる暇がなかった。聖書が2冊」
俺はバックパックを下ろし、水に濡れないよう丁寧に油紙に包んだ本を取り出した。
「なんだよ、つまらねえな。たまにはもうちょっと面白いモン持ってこい。『ネクロノミコン』とか、『はてしない物語』とか」
「存在しない物を持ってこさせようとするな。かぐや姫かよ。あと、はてしない物語ならあるだろ。それで我慢しろ。ジジイのくせにファンタージェンに行こうとするな。厚かましいぞ」
俺は取り出した聖書をカウンターに積む。
「ジジイにも夢をみる権利くらいある。……フン、聖書か。つまらんが、ウチ一番の売れ筋商品でもある。神に縋らなきゃこの世の中を生きていけないやつがいるおかげでな」
「奴ら」の攻撃で地球上のあらゆる電磁的記録が吹っ飛んで以来、電子書籍はもちろん、紙の書籍を作ることも難しくなった。どころか、社会はその秩序を維持することができず文明は崩壊した。正義とは法と秩序を指していた時代ははるか遠く。今や再び暴力が世の中を支配している。そんな時代に、腹を1ミリも膨らませない「本」などという物体を商う変わり者はマスターくらいだ。あとは、俺。
「このご時世に、食えないものにカネを払う余裕があるやつがいることに俺はびっくりするけどね」
「今の世の中だって、三大欲求を満たすものだけが価値あるものというわけじゃないさ」
マスターはにやりと笑う。
「それで話って?」
マスターから呼びつけられた理由を問う。無線が鳴ったその時、俺は廃墟の中からできるだけ保存状態のいい紙の本を「仕入れ」る仕事の最中だった。そこは「攻撃」以前は本当の本屋だった場所で、貴重な本がある気配がしたのに、そんなことはどうでもいいからと。ようやく侵入できた宝の山を前に、仕方なく俺は仕事を途中で切り上げた。取り敢えず一番の売れ筋商品だという聖書を「仕入れ」ることしかできずに。
「間もなくレジスタンスは『奴ら』に報復攻撃を行う。この地球の支配者が電子知性体じゃなく、無視しても差し支えないと『奴ら』が判断した有機物だってことを見せてやるのさ」
「どうやって……」
何しろ「奴ら」の攻撃でコンピュータ群は死滅してしまった。今や肉眼で目視可能なレベルに展開された、成層圏に浮かぶ「奴ら」の「体」を攻撃するのは困難だろう。
「コンピュータがほとんどやられたせいで時間がかかったがな、人類の知性を甘く見てもらっちゃ困る。……ともあれ、「奴ら」は直ちに報復の報復を行うだろう。全地球的な熱核攻撃の可能性が高い。そこで、俺はお前にこの『本屋』を託したい。俺が出て行ったらその耐爆扉を閉めろ。お前1人なら1年はこの中で生きていけるだけの備えがある」
「そんな急に……」
「悪いがお前に拒否権はない」マスターはぴしゃりと言う。「俺はお前を後継者と見込んで本の『仕入れ』を任せてきた。全ては計画されていたことだ」
俺はマスターとの出会いを思い出す。汚い色の空から汚い雨が降っていたその日、俺の前に傘を差した怪しげな初老の男が現れた。
――坊主、何読んでんだ?
俺は半ば睨めあげるように男を見た。
――聖書。
俺は、焚き付けに使われてページが減った聖書の残りを読んでいた。
――神様を信じてるのか?
――別に。何か読んでると気が紛れるってだけ。
「俺はあの日、お前と会ったあの日、お前の中に『渇望』を見た。文字に対する渇望を。そういう人間にしかここは任せられん。……そして1年経ったらここを出て、『イブ』を探すんだ」
「イブ?」
「そうだ。いるはずだ。お前と同じように厳重に匿われた娘が。お前は終末のアダムになるんだ。人類の灯を絶やすな。血を繋げ。そうすればいつか、ここに眠ってる知の巨人たちの肩を必要とする者が生まれてくる。必ず。そいつが巨人の肩から成層圏まで飛び上がって、『奴ら』に次の一矢を報いてくれると願う。そのためにお前は知の灯台守になれ。そしてお前の息子と娘にその任務を引き継いでいけ。いいな」
「もしイブが見つからなかったら?」
「どんな時にも幸運な人間ってのはいるもんだ。神が本当に存在するなら、必然により守られた者がいるはずだ」
「神がいなければ?」
俺の切羽詰まった質問に、マスターはにやりと笑って答えた。
「お前は健康な若い娘と出会うが、致命的に性格が合わない」
「まじかよ」
「幸いここは暇つぶしには事欠かん。あとは、祈れ」
「俺は攻撃の失敗を祈るよ。そうすれば報復で人類が絶滅することもない」
俺はマスターに行ってほしくなかった。あの日、飢えと寒さから救い出してくれた育ての親だ。
「そういうわけにはいかないのさ。人類のプライドに賭けて。じゃあな。『奴ら』にちょっとした痒みくらいを与えて、喜びのうちに死ねることを祈っててくれ」
マスターはそう言うと、カウンターの下から重そうなバックパックを引き摺り出し、「よいしょ」という掛け声と共に背負った。
「待ってくれ、まだ……」
「こういうのは長引かせると却って良くない。騙し討ちみたいなことで悪かったがな。俺は行くよ。じゃあな。これから必要になると思われることは、全部教えてある。大丈夫、お前ならできるさ。お前は最良の生徒であり俺の自慢の息子だ」
マスターはちら、と俺の方を振り返るとそのまま足を踏み出した。俺とは逆の向きに耐爆扉を潜る。
「待ってくれよマスター……、父さん!!」
しかし育ての父は振り返らなかった。代わりに背を向けたまま手を振る。その意味は、「幸運を祈る」。俺は立ち尽くすしかなかった。息子よ、親離れ子離れの時が来た、父の背中はそう語っていた。
人類の未来を託される者は、それこそ神に選ばれた特別な人間なのだろうと思っていた。なのに。あの雨の日、たまたま通りかかったところにいたのが、雨宿りしながら湿気を含んだ聖書の残骸を読んでいた俺だった。ただそれだけで自分の後継者にすることを決めてしまうなんて。バカとしか言いようがない。
きっと父は帰ってくる。この俺が人類の数少ない生き残りになるなんて、あるわけない。そんな特別な人間じゃない。特別な人間がいるとすれば、彼こそがそれだ。
父はこの耐爆扉を外から開扉する唯一の鍵を持っている。俺は扉が外から開かれる日を信じ、「閉扉」のボタンを押した。