68話 新しい餌
風向きを見るのは得意だった。
王宮に来た客がドラゴンに乗りたいと言った際に、追い風の時を選んで乗せる必要があったからだ。
王宮のドラゴンはあまり飛んだ経験がないので、向かい風の中を人を乗せて飛ぶことは難しいのだ。そもそも人を乗せるというだけで機嫌を損ねてしまう時もある。
そんなことを懐かしく思いながら、私はイスクラに乗せてもらって、アンドルゾーヴォの上空を飛んでいた。
特に用事があるわけではない。
気晴らしと、イスクラの体力増強を兼ねての飛行だ。
今日は風があまりないので、翼のトレーニングにはもってこいの日なのである。
「王宮のドラゴンたちは元気かしら。すぐ翼が疲れてしまうから、定期的に飛ぶ訓練を受けていると良いんだけれど」
「『王宮』『ドラゴン』『軟弱』」
イスクラがあざ笑うように言うので、私は苦笑しながら彼女の首筋を撫でた。
「そんなこと言わないの。彼らは飛行に適していない種だし、そもそも自由に飛ぶことを許されていなかったのだから」
「『飛ぶ』『人間の』『許可』『いらない』『そんなもの』!」
「ええ、ここではね。王宮は……何と言うか。特殊でいびつな場所なのよ」
「『ミルカ』『閉じ込めた』『牢獄』」
イスクラが怒りに鼻を鳴らす。
(牢獄、か……。今思い返してみればそうだったのかもしれない。あの時は必死で、自分が不自由であることを分かっていなかったけれど)
こうして自由を得て初めて見えるものがある。
それでもあの時の自分を、あわれだとかみじめだとか思わない。その時の自分にできることを全力でやっていただけだ。
物思いにふけっていると、遠くからケネスさんの乗ったドラゴンがやって来た。
手を振ると、こちらに近づいてくる。
「ミルカ嬢! タリが帰ってきたようです!」
「タリさんが……すぐに戻ります!」
イスクラは心得た様子で、ゆっくりと翼をたたみながら、ヴォルテール様の屋敷の方に鼻先を向けた。
ヴォルテール様の執務室にイスクラと共に入ると、異臭がぷんと強く匂った。
ただし、私にとっては嗅ぎ慣れた匂いだ。
「これは……。岩を熱した時に感じる硫黄かしら」
「ミルカ嬢。良いところにいらっしゃいましたね。今から報告するところですよ」
にこっと笑うのはタリさんだ。この匂いは彼女から漂っている。
いつものきっちりとした格好ではなく、薄汚れて膝のところに穴の開いたズボン、ぼろぼろのシャツに帽子をかぶっている。
男装だ。髪は濃い茶色に染められ、うなじにかからない程度の短髪になっている。前に、帽子の中に髪をたくしこんで、短く見せているのだと教えてもらった。
彼女は懐からスキットルを取り出すと、流れるような仕草でその中身をあおった。一連の動きはまさに少年労働者という感じで、タリさんが役に入り込んでいたのが分かる。
そう。タリさんは今まで、王宮のドラゴン舎に潜入していたのだ。だから王宮のドラゴン舎特有の、硫黄の匂いがしていたのである。
潜入といっても、ドラゴンの餌を運び込む商人としてわずかに出入りした、という程度らしい。ドラゴン舎は一応王宮の財産であるドラゴンを飼っている場所なので、すぐ中に潜入できるものではないのだ。
今からタリさんが見てきたものを報告してくれる。観衆は私とイスクラ、ケネスさん、そしてヴォルテール様だ。
ヴォルテール様が静かに尋ねた。
「王宮のドラゴン舎はどうだった」
「空気が最悪でした」
端的なタリさんの報告に、やはり、と思う反面、ドラゴンたちの体調が気にかかる。
「ドラゴンの専門家は多分一人もいませんね。衛兵たちもよく頑張ってますが、ドラゴンたちの気が立っているのと、ドラゴンに対する知識がないせいで、全く手が回っていません」
餌も、一頭ずつ丁寧に与えるのではなく、ドラゴン舎の真ん中に肉の塊を置いて済ませているそうだ。
(そんなことをしたら、一番弱い個体が餌を取れなくて衰弱してしまう……。強いドラゴンだって、食事のたびに争っていてはストレスだわ)
「庭もちらっと見ましたけど、惨憺たる有様でしたよ。全部ボロボロで、修繕が全く追いついてません」
「プラチナドラゴンはどうだった」
するとタリさんは少し気まずそうな顔になった。
「別のドラゴン舎にいて、私は立ち入り禁止だったんです。でも迷ったふりをしてこっそり覗きに行こうとしたら、目を血走らせた初老の男に止められてしまって、中までは……」
その男は物凄い剣幕で、少年に扮したタリさんを蹴飛ばしたのだという。
思わず、ひどい、と呟くと、よくあることだとタリさんは笑った。
「とはいえそれだけ厳重警戒しているということは、プラチナドラゴンに何かあったということだろうと思って、王宮のメイドに色々聞いてみました。そうしたら色々面白いことが分かって」
タリさんが話してくれたところによると、第二皇子であるハンス――私のかつての婚約者――の外出頻度が上がり、いつもとは違う客と会っているのだそうだ。
メイドは茶の用意や後始末をするから、その際に客がどのような立場なのか、ある程度分かるものらしい。
人品いやしからぬ人間であれば、茶器に口紅のあと一つ残さない。
けれどその客は、茶を全て飲み干し、添えられた菓子はぼろぼろ零しながら食べた挙句お代わりを要求し、置いてあった葉巻は全て持ち帰ったとか。
「それはかなりマナー違反ですね……」
教育を受けた者であれば絶句するほどの振る舞いをする人間と、ハンス皇子は付き合っている。
タリさんは続けた。
「連中は二日と置かずハンス皇子と会って、ドラゴン舎の方に向かっているとか。いつも険しい表情で、ドラゴン舎から戻って来る時なんかはハンス皇子が客人を怒鳴りつけていることもあるそうですよ」
(客人を使用人が見ている前で怒鳴るなんて、王族としていかがなものかしら)
けれど皇子の苛立ちは歓迎すべきことのように思えた。
なぜならばそれは、「ブランカはプラチナドラゴンではなかった」というでっち上げが成功しているのと同義だからだ。
この調子でいけば、ハンス皇子にとってブランカは価値ある存在ではなくなる。
ケネスさんが弾んだ調子で言う。
「カイル宛に来るブランカからの便りでは、偽装は上手く行っているらしいじゃないですか! これでブランカを手放す気になるんじゃないですか?」
「そうとも限らん」
ヴォルテール様はまだ安心していないようだ。
「飢えたハイエナが、自分が噛みついている獲物が、丸々と太った豚ではなく、痩せたリスであることに気づいたとしても。――果たしてそのリスを食うことを諦めるだろうか?」
「てことは何ですか、ブランカがプラチナドラゴンじゃないと分かっても、解放しないってことですか」
「第二皇子の面子を尊重してやる必要がある」
だから、とヴォルテール様はタリさんの方に目をやった。
「わざわざタリに様子を見に行かせたのだ」
「分かってますよ。第二皇子がプラチナドラゴンの子に固執するのは、その子が自分が王になることの正統性を保証してくれるから。聞き込みによると、あの人どうも、お兄さんへの反発心がすごいらしいんですよね」
「昔から対抗心のようなものはあったと思います。でも、次の王様になるのは、お兄様のマティアス皇子だと最初から決まっていました」
実力のある方を王にする、という観点から言っても、マティアス皇子の方が実績を残している。
とはいえそれは、長子が王になると最初から定まっていたからなのかもしれない。誰だって、自分が期待されていると分かれば、張り切って実力を発揮しようと思うだろう。
「誰かが、ハンス皇子に自分が王になれる可能性を吹聴したのかもしれませんね。もしかしたら、彼の側にいるアンナという女性かも」
私が呟くと、ヴォルテール様は険しい表情になった。
「一度抱いた希望を捨てさせるのは難しいものだ。何か別の希望を与えてやらねば、奴はブランカに食いついて離さないだろうよ」
獲物を咥えたハイエナの鼻面に、違う獲物をぶら下げてやる。そうすればハイエナは、ブランカという獲物から目を逸らすだろう。
ヴォルテール様はそう仰りたいのだ。
「でも、別の希望といっても何があります? 今更金で動くような男でもないでしょう。名誉は金では買えない」
「その通りだ、タリ。だから私が動く」
「ヴォルテール様が?」
「ああ。この北方辺境の統治権を奴の鼻先にぶら下げる」
タリさんがはっとしたような表情を浮かべた。
「……なるほど。それは確かに、第二皇子にとっては美味そうな餌ですね」
「私が演ずるのは、狡猾で金のことしか考えていない統治者だ。ここいらで北方辺境を第二皇子に『売る』方が得策だと考え、彼に接触を試みる」
「第二皇子は妄想する。北方辺境の統治権を手に入れれば、そこを足掛かりに王宮での影響力を増すことも可能だと」
ヴォルテール様は肩をすくめた。
「実際それが可能かどうかは問題ではない。新しい希望を持たせてやることが大切なのだ。――というわけだ、タリ。ドラゴン舎の様子を引き続き監視しながら、第二皇子周辺にそれとなく噂を流せ。北方辺境領主ヴォルテール・バルトが、統治に倦んでいると」
「了解」
「ケネス。頃合いを見計らって第二皇子周辺の人物に接触しろ。ヴォルテール・バルトに任せていては北方辺境は破綻する、代わりにここを統治してくれる人物がいないか探している、という触れ込みでな」
「承知しました。いくら演技でも、ヴォルテール様の悪評を流すのは気が引けますが!」
タリさんとケネスさんは、早速執務室を出て仕事にかかった。
「でも、その後はどうなさるんですか、ヴォルテール様?」
「なに?」
「ハンス皇子が北方辺境を買うとして……。まさか本当に売り渡すおつもりではないのでしょう」
「当然だ。この辺りで第二皇子には退場してもらおうと思っている」
「退場?」
ヴォルテール様は酷薄にも見える笑みを浮かべた。
「ミルカ嬢は耳に入れずとも良いことだ」




