5分で読めるSS 「双曲線」
三つのキーワードから生まれるショートショート。
キーワード
「呪い」「歪み」「救い」
※別名義Twitterに掲載したものの改稿版になります。
花が咲いていた。
ぬるりとした泥の合間に、薄らと青く染まった睡蓮が、まるで弾けるようにして顔を出していた。
私はそれを見ながら、ほう、と息を吐いた。酸味を感じるほどに朱い、ある日の夕暮れのことだった。
「あ、お姉ちゃん、こんなところにいたの」背後から、声が聞こえる。「もう、お葬式終わっちゃったよ」
それは、妹の声だった。久しぶりに聞くそれは、いつも着ていた、お古のセーラー服姿を想起させた。
しかし、私の涙腺はもう涸れ切っていて、潤むことすらない。
「知ってるよ、それが耐えきれなくて、抜け出してきたんだもん」
私は、言いながら一歩踏み出した。それと同時に、妹も一歩を詰める。
「……お姉ちゃん、逃げようとしてるでしょ」
不貞腐れるように、妹はそう口にした。
「逃げてなんかないよ、私は」
「嘘。だったら、どうしてお葬式に来なかったの」
「お線香の匂いが、嫌いだから。あれはさ、きっと、あっちの世界の空気が漏れてきてるんだよ」
小さな嘘だ。
本当は、お婆ちゃんちで鼻先に漂う、線香の香りは好きだった。
いつからだろうか。好きなものが嫌いになったのは。
大人になると、本当のことを言うのが、ちょっとだけ難しくなってしまうのだ。
「それでも、顔くらいは出せばよかったじゃない。叔父さんだって、最期にお姉ちゃんに会いたかったと――」
「思わないよ」私は遮るようにして言う。「死者はなんにも思わない」
それは自分に言い聞かせる言葉でもあったのだろう。しかし、妹は構わずに口を開く。
「だとしたら、どうしてここにいるの? 私たちにこの場所を教えてくれたのは、叔父さんだったじゃない」
私たち姉妹が、この湿地を初めて訪れたのは、確か、私が中学校に上がる少し前のことだ。
――蓮の花びらを数えなさい。辛いことは、そうしている間に行き過ぎてしまうから。
そう教えてくれたのも、確か、叔父さんだったか。
「……お姉ちゃん、ヤなことがあると、いっつもここに来てた。彼氏にフラれたときも、テストで赤点取ったときも、楽しみにしてたライブが雨で中止になったときも、いっつもずぶ濡れでここにいたよね」
「他に、知らなかったから。私は花びらを数えなければ、きっと、みんなの輪の中に入ることにすら耐えられなかったの」
「なら、今はどうして、花に見向きもしないの?」妹は、わざとらしく首を傾げた。
「だって、叔父さんは首を括る前に、花びらを数えたりはしなかったもの」
さあっ、と。
風が吹く。湿地に吹き抜ける一陣は、どうにも清々しいとは言えない。湿った風が、私の前髪を不快に貼りつかせた。
妹は、そんな私を宥めるようにして近づいてくる。私は、その分だけ前に進む。
彼我の距離は変わらない。アキレスは亀に追いつけないのだ。
そんな中で、妹の声が、かすかに曇り始めた。それは、ヒビの入った万華鏡を覗いた時の、あの感覚に近かった。
「もう、さ、赦してあげてよ。叔父さんだって、真っ白な灰になっちゃうんだからさ」
私は、その言葉に思わず振り返りたくなってしまった。
"赦してあげて"なんて。間違ってでも、彼女には言ってほしくなかったのだ。
「灰になったって、人は赦されないよ」
「もう、人じゃないじゃん。還元に還元を重ねて、叔父さんは単なるモノになったんだ」
「だったらなおさらだよ、モノに、ヒトの道理なんていらないでしょ?」
平行線だね。
妹は困ったように言って、小さく笑う。きっと、眉は困ったように下がっていたことだろう。
「言葉じゃ、人は変えられない。どこまで行ってもその人はその人で、私たちの紡いだ音は、表面を虚しく吹き荒ぶだけ」
「なら、言葉に意味なんてなかった?」
ぴしゃり、と。
頬を張るようにして問うてきた彼女は、ほんの少しだけ憤っているようにも見えた。
「言葉に意味なんて無くて、私たちのやり取りは何もかもが空虚なものだったって、お姉ちゃんはそう言いたいの?」
私は。
適切な返事を、持ち合わせていなかった。少なくとも、そのようには考えていなかったのだが、否定するためには、代わりの言葉を置かなければ通れない。
だから、私は俯いてしまった、立ち止まってしまった、何よりも、黙ってしまった。
その隙を突くようにして、距離が縮む。触れられない、私たちは近づいていく。
「……きっと、私たちはもっと言葉を交わすべきだったんだよ」
妹の声には、後悔の色が濃く滲んでいた。
「叔父さんが、私のことを見る目が変わったこと。叔父さんの心に、ヒビが入ってしまったこと。そして、叔父さんの周りに、それが可能な環境が揃ってしまったこと」
「……もっと話していれば、それに気がつけたってこと? それで、何かが変わったっていうの?」
「わからないよ」諦めたように、彼女は首を振る。
「わからない、それは"あったかもしれない"未来の話で、もう、どうやったって見ることができない景色なんだから」
「……だったら、もう、考えたって――」
「――無駄なんかじゃないよ」遮るようにして、彼女は言う。
もう、すぐ背後まで気配は近づいていた。振り返ってしまいたい。そうしてしまえば、全てが終わるのだ。
終わらせてしまえば、楽なのだ。
なのに、そうしてしまわないのは何故なのか。この問答に何か、期待でもしているのだろうか?
……いや、それはない。
わかっている、はずだ。呑み込んでいる、はずだ。だから私はここにいる、喪に服すことを拒んで、この場所を訪れた。
或いは、それすらも逃避だと言うのだろうか?
妹は、そんな私を赦してはくれない。その手に持った薄刃を、最期まで私に向けてはくれなかったのだ。
「――だって、お姉ちゃんは叔父さんのことを想っていたじゃない」
その言葉で、一気に血液が温度を失った。
「そ、そんなこと……」そこで、固まる。言葉が次げない。誤魔化すこともできないくらいに、それはきっと図星だったのだ。
「ほうら、やっぱり。嘘を吐いても駄目だよ。私はもう、お姉ちゃんの中にしかいないんだからさ」
「……全部、わかってたの?」
「ううん」妹の声に、呆れの色が混じった。
「でも、こうして私の声を聞いているってことは、少なからず、あの選択を後悔しているんじゃないかなって」
「……私、は」
私は、目を伏せた。
老いた犬が唸るような、落ち着いた声が好きだった。
大柄な体を縮めて、優しく歩調を合わせてくれるところが好きだった。
私が辛いときは側にいてくれて、力を貸してくれるところが――好きだった。
だから、私はあの日。妹の首を絞めている彼のことを、見逃してしまったのだ。
「そう、それが答えなんだよ」妹は、冷めた声で言った。一度も聞いたことのないような、継ぎ接ぎの声だった。
――二人がどういった関係だったのかは、今でもわからない。
どうして、二人とも半裸だったのか。
どうして、妹は何かを求めるように足を絡めていたのか。
どうして、窒息させられてなお――恍惚としていたのか。
わからない、わからない、わからない。
わからない――フリをしていた。
「……本当は、全部知っていたのにね。あなたと叔父さんのことも、私の気持ちも。だけどそれは、幸いの邪魔になると思ってた」
「それでも、壊したくなかったんでしょ? ただ見ないフリをすることだけが、お姉ちゃんにできる愛情表現だった」
妹は、妹の姿をした私の後悔は、ゆらゆらと陽炎のように揺らいでいるのだろうか。それとも、確かな輪郭を持って、そこに在るのだろうか。
振り返れば、確かめられる。けれどそれをしてしまえば、きっと私は二度と、立ち直れなくなる。
彼岸に渡ってしまうことになる。
けれど、今はそれすらも悪くはないと思ってしまうのだ。
「駄目だよ、お姉ちゃん」そんな薄弱を、一言で諌められる。
「お姉ちゃんは生きなきゃいけないの。私はその背中を、永遠について回るから。砕けた心の破片として、いつまでも傷をなぞり続けるから」
血が滲み。
腐り、青黒く変わり。
それでもなお、痛みを求めて、肉の内側に指を潜らせる。
不毛、不毛不毛不毛不毛不毛。
切り捨てるのは、勝手だ。でも、そんな私のことを理解してくれる人は、誰もいなかったじゃないか。
「……日が沈むよ、お姉ちゃん。今日が死を迎えるの。ほら、よく聴いて?」
見れば、世界は青白く染まろうとしていた。
蓮の花も、沼地を這う両生類も、私も、きっと彼女だって、何もかもが暗幕に包まれる。
夜が、私の悲しみを包んでくれる。
と、そこで背後から迫る、もう一つの足音に気が付いた。
何かを気遣うように、ゆったりとしたその足音は、私が背負うものが増えた証拠だ。
「私はこれで、よかったんだよ」
都合のいい台詞を振り払うように、私は駆け出した。世界が何もかも細切れになって流れていく。
逃げる。あの日のように。私の中の想いは解けないまま、脚を引きずって生きていくしかない。
――時折、睡蓮の花畑に救いを求めながら。