第五話 雨の日(一)
濡れた床をモップで拭きながら窓の外を眺める。しとしとと降り続ける雨に自然と溜息が零れた。
「明日も雨かなぁ」
「うん、雨だって」
独り言に返事が返ってきた。
僕は身を翻してその声の主――香宮さんと向き合う。
スマホから顔を上げた彼女と視線がかち合う。どうやらそれで天気を確認したらしい。
「今週はずっと雨らしいよ」
「うわー」
「高瀬くんは梅雨は嫌い?」
「梅雨ならではの風情は好きだけど、こうして拭き掃除が増えるのは嫌」
「それはそれは。大変だねぇ」
「ほんと大変」
「良ければ手伝おうか?」
「気持ちだけ受け取っておくよ」
ありがたいがその提案は却下する。店の手伝いをさせるために、香宮さんはここにいるのではないのだから。
虹文堂という限られた場所で、僕と香宮さんの交流は続いている。
学校では喋らないが、放課後に香宮さんが店に足を運んでくれるのだ。
「迷惑じゃない?」
心配そうな香宮さんに、「全然」と首を振る。
僕は勿論のことだが、何故か父さんも香宮さんが店に来るのに賛成していた。
何でも、「女の子がいると、華があって良いから」とのこと。おい、おっさん。
それを聞いた香宮さんの反応といえば――
「なるほど、サクラってことですね。任せてください!」
と、小さくガッツポーズをした後、意気込んで彼女は棚の方へと向かった。
まさかの行動に僕は暫しぽかんと呆けた。そして、慌てて彼女の後を追った。
いやいやいや、違うから!だから、店に来た客の近くで「この色鉛筆描きやすくていいわー。もう一本買おう」なんて言わなくていいから!え?買うの?本当に買うの?それって演技?それとも本当?え、どっちなんだ!
混乱している僕の横で、父さんは笑っていて……って、おい、おっさん!誰のせいだと思ってるんだよ!
とまあ、そんな感じで、大人しそうな見た目に反して、香宮さんは結構突飛な行動をする子なのだと段々と理解してきた。
尤も、あの美術の時間でそれは垣間見えていたことではあるのだが。
あと、香宮さんがこの店を訪れてから、僕と香宮さんの関係以外にも変わったことがある。
ある日のことだ。
帰って来たら店内の片隅――レジ近くに小さな机と椅子が設置されていた。
あれ、家を出る前はこんなものなかったのに。
僕は首を傾げた。確か、今朝までそこには段ボールが積まれていたはずだ。それが、綺麗に片付けられていた。
誰がこんなことを、とは言わずもがな父さんである。
「おかえり、響」
「ただいま。父さん、これ何?」
「これか?」
ぱんぱんと机を叩きながら、父さんが答える。
「いやなに、お前と香宮さんが絵を描いているのを見て、お絵描きコーナーでも作るかなーって思ってな」
「え、需要あるの?」
「失礼な。響が帰って来る前に、一応小学生の子たちがここで落書きしてたんだぞ」
「へー」
「それに、いつまでも机がないままじゃ香宮さんが絵を描きにくいと思ってな。お前もレジカウンターで描いてないで、ここに座って香宮さんとゆっくり絵を描いてもっと親睦を深めなさい」
「本当の狙いはそっちだろ!」
指摘すれば、輝かしい顔で父さんがぐっと親指を立てた。
少しは包み隠せよなおっさん!
と、溜息を吐いたのは記憶に新しい。
それからというもの、父さんの思惑通り(?)香宮さんはお絵かきコーナーで絵を描くようになった。
香宮さんはいつの間にか近所の小学生たちとも仲良くなっていて、みんなで楽しそうに絵を描いていることもある。
初めて香宮さんと会った時、小学生たちは、
「このねーちゃん誰?にーちゃんの彼女か?」
「マジか!にーちゃんにもついに春が来たか!」
などと、ニヤニヤと笑っていた。
明らかに僕を馬鹿にしている小学生たちに「このマセガキどもめ!」と言ってやりたいところだったが、香宮さんがいる手前、僕は何とか耐えた。
その時の香宮さんの反応といえば――
「いやはやいやはや、そういうことが気になるお年頃なんだねー」
と、微笑ましそうに笑っているだけだった。
……これは、意識されていないな。うん、意識されてないわ。
意識され過ぎてぎこちなくなってしまうのは悲しいが、全然意識されていないのも悲しいもので。
小学生にぽんぽんと背中を叩かれ、憐れみの目を向けられたのは、これまた記憶に新しい。
因みに、このお絵描きコーナーが設置されて以来、僕がそこに座ったことはまだ一度もない。
時折小学生たちが「どうだ、羨ましいだろう!」と視線で訴えてくるが、断じて羨ましいとか思っていない。思っていないからな!
「おーい、高瀬くん聞いてる?」
ふと、声を掛けられた。はっと我に返って見遣れば、香宮さんが訝しげにこちらを見ていた。
「ごめん、思考が飛んでた。もう一度言ってくれる?」
「素直でよろしい。では、改めて訊くけど、高瀬くんは美術部に入ろうとは思わなかったの?」
「店の手伝いがあるから」
「ああ、そっか」
納得した香宮さんを横目に僕は考えた。
言われてみれば、何で入らなかったんだろう。
改めて考えてみると謎だ。
父さんから「部活なんてやってないで店を手伝え」と言われたことはない。寧ろ、「帰宅部に入った」と僕が言ったら、「何故だ!もっと青春を謳歌しなさい!」と叫ばれ、色々と説かされそうになった。
うっわ、面倒くさいスイッチ入っちゃったわー。
と、僕はげんなりした。
こうなってしまったら父さんは止められない。経験論だ。僕は直ぐ様自室へ逃げ込んだのだった。
だけど、何を思って帰宅部に入ったのかと改めて問われると少しばかり返答に困った。
店を手伝いたいという気持ちもあった。でも、それだけじゃない。それもあるけど、それが本当の理由じゃない気がして。
暫し考えた後、僕はぽつりと呟いた。
「これといって美術部に入る理由がなかったからもあるかな……」
そう、理由がなかったのだ。
美術部に入って何かをしたいという思いもなく、友人に誘われて美術部に入ろうと思うこともなく、絵を描く友人が欲しいという思いもなかった。
美術部は年に数回、美術展に作品を出展してはいるものの、基本自分のペースで作品を制作できるのだというのは部活紹介の時に聞いた。
けれど、別に美術部に入らなくても絵は描ける。
ネットを通していろんな人に絵を見てもらったり、評価されたりすることも今のご時世では容易いことだ。
事実、僕は鳴としてそれを経験していた。
それなら、家に帰って自分の好きな時に好きなだけ絵を描けばいいか。
と、部活の説明を聞きながら僕は思ってしまったのだ。
そして、気がつけば入部届に『帰宅部』と書いていた。今もこの選択が間違ったなんて思ってはいない。
「逆に訊くけど、香宮さんは何で美術部に入らなかったの?」
訊かれたから訊いた。よくある質問のブーメランだ。
香宮さんが絵を描くのが好きなのは見ての通り。絵を描いている時の彼女は楽しそうで。絵を描いている僕を見ている時も楽しそうで。
絵を描くのが好きだから、興味があるからという理由で美術部に入る人はたくさんいるだろう。
それなのに、香宮さんは僕と同じく帰宅部だ。
尤も、絵を描くのが好きだからといって必ずしも美術部に入る訳ではない。僕自身そうだし。
少し考え込んだ後、香宮さんは僕の質問に答えた。
「わたしも似たような感じかな。一緒に部活入る友達もいなかったし。別の部活に入っている従姉妹に誘われたりもしたけど、迷惑かける訳にはいかないから」
へにゃりと力なく香宮さんが笑う。
「でも、こうして高瀬くんと絵を描いていると、部活ってこんな感じなのかなぁって思うよ」
「……二人じゃ部活動はできないよ」
「それじゃあ、同好会ということで」
香宮さんがぽん、と手を叩いた。
「部活動であろうと同好会であろうと、呼び方なんてものはどっちでもいいんだよ」
「さいですか」
「大事なのは、こうして高瀬くんと絵を描いているのが楽しいということだからね」
頷こうとして僕は詰まった。
一緒に絵を描いていて楽しいと言われたのは初めてのことだった。
「放課後に誰かとこうして喋ったり、一緒に何かしたりするのにずっと憧れていたんだ」
香宮さんが小さく息を吸った。
「ありがとう、高瀬くん」
蕾が綻ぶような微笑みを香宮さんが浮かべた。
その笑みを向けられると、顔や体が熱くなるのは経験済みのことで。
お礼なんて、言わなくてもいいのに。僕だって、香宮さんとこうしているのが楽しいのだから。
「こちらこそありがとう」
何とか声を出そうとしたものだから、力が入り過ぎて少しだけ声が裏返ってしまった。
うっわ、恥ずかしい。恥ずかしい、けど――
まあ、香宮さんの笑顔が見られたから別にいいか。
なんて、僕は思ってしまった。