第四話(二)
視界の端でスケッチブックが閉じられた。
ほぅ、と香宮さんがうっとりした様子で息を吐く。それが少し色っぽいなどと思ってしまった僕は、スケッチブックで叩かれても文句は言えないだろう。
「ご馳走様でした」
「お粗末様でした」
頭を一つ下げて両手でスケッチブックを渡される。それを受け取ろうとしたその時、ふと、香宮さんが動きを止めた。
「ねぇ、高瀬くん」
「何?」
「もし良ければだけど、このスケッチブック売ってくれない?」
「……へ?」
突然の提案に目を瞬かせる。
僕が唖然としていると、香宮さんが膝の上から鞄を床に下ろして、ばっと椅子から立ち上がった。
ずずいと近づいてきて、再度距離が近くなる。だから、近いって!
「言い値で買うから!」
「いやいやいや、ちょっと待って!」
「売れないのなら、写真を撮らせてほしい!流用はしないからどうか!一人で眺めてニヤニヤするだけだから!どうか撮影許可をお願いします!」
「よし、落ち着こう!一旦落ち着こう!」
両手を合わせて懇願してくる香宮さんをどうどうと宥める。
勢いが、圧が、凄い。何が彼女をこんなにした……って、どう考えても僕の絵か。
こほん、と僕は一つ咳払いをした。
「売れないし、撮影許可もできません」
「そんな殺生なぁ……」
はっきりと言い切れば、目に見えて香宮さんが落胆した。しゅんと垂れた耳と尻尾の幻覚が見えた気がする。まるで犬みたいだなぁ、なんて思って、その思考は首を振って掻き消した。
「そこまで落ち込む?」
「だって、自分が気に入った絵はいつでも見たいと思うでしょ?」
「わかる」
香宮さんの言い分に僕は即座に賛同してしまった。
ネットとかでも気に入ったイラストを見かけたらついつい画像を保存してしまう。でないと、いつの間にか作品が消されてしまうことがあるからだ。
勿論、流用はしない。自作発言なんて以ての外だ。
僕が賛同したからか、香宮さんは「そうでしょうそうでしょう」と上機嫌だ。
……両手で大切そうに抱き締められているスケッチブックが羨ましいなんて、僕は思っていないぞ。思っていないからな。
「そんな訳で、撮影許可をお願いします」
「却下」
「どうして!」
「しっかりと描いた絵なら兎も角、落書きを保存されるのはちょっと……」
投稿サイトに載せるレベルの絵なら良い。他人に見られてもいいように、そして、暗黙の了解ではあるが保存されてもいいように、それ相応に描いて載せているのだから。
でも、他人に見られることを想定していない絵を保存されるのは憚られた。
香宮さんも思い当たる節があるのか、ぐぬぬ、と悔しそうに口を噤む。そして、名残惜しそうにしながらも、スケッチブックを僕に渡してきた。
「変なこと言ってごめんなさい」
……自覚あったのか。
くすりと僕は苦笑した。
受け取ったスケッチブックに香宮さんの温もりを少しばかり感じてしまったが、断じて僕は変態などではない。男子高校生なんてそんなものさ。
ふと、僕はあることを思いついた。
これならいいかなと思って、今度は僕が提案した。
「香宮さんが絵を描いてそれをくれるなら、あげないこともないかな」
そう、所謂等価交換という奴だ。
さっきはああ言ったが、僕は絵をあげること自体は特に抵抗はない。スケッチブックごとはあげられないけど、あげてもいい絵はある。
でも、できることなら僕だって絵がほしい。香宮さんの絵は美術の授業でしか見たことがないが――消しゴムの落書きを見たこともあるけれど――、その絵は僕の好みだった。気に入った絵を保存しておきたいと思うのは僕だって同じだ。
さあ、どうする?
香宮さんの様子を窺う。
うーん、と暫し逡巡した後、香宮さんは言った。
「わたしの絵で良ければ」
「よし、交渉成立だ」
真面目な顔でお互いに頷き合う僕たちは傍から見たらさぞかし滑稽なことだろう。
「それじゃあちょっと失礼」
そう断りを入れて、香宮さんがスケッチブックのある棚へと向かった。迷うことなく少し小さめのスケッチブックを一冊抜き取り、大事そうに抱えてこちらへと戻ってきた。
「お会計お願いします」
「わざわざ買わなくても紙あげるのに」
「大丈夫。元々買おうかどうか迷っていたものだから」
そういえば昨日見ていたなと思って僕は会計をした。
椅子に座って早速香宮さんは買ったばかりのスケッチブックを開いた。心なしかわくわくといった雰囲気だ。
「楽しそうだね」
「新しいものを使うのは、心が躍るものだからね」
鞄の中からペンケースを取り出しつつ香宮さんが答えた。
僕もそれに倣って、戻ってきたスケッチブックを開いて鉛筆を構える。
「何かリクエストはある?」
「向日葵で」
「即答かい」
「だって、高瀬くんの第一印象は向日葵なので」
「前にも言っていたよね、それ。僕の第一印象が向日葵って一体どういうこと?」
ずっと訊きたかったことをこうも簡単に訊けるとは。ちょっと笑えてくる。こんな簡単なことができない僕はやっぱり情けない男なのだろう。
そんな僕の事情など露知らず。香宮さんはじっと僕を見つめてきた。
あまりにも真っ直ぐなその瞳に、僕は少しだけたじろぐ。
「それはだね……」
内緒話をするように、香宮さんが声を顰める。
たっぷりと焦らすように間を置かれ、人知れず僕は息を呑んだ。
「それは、秘密です」
香宮さんは表情を崩して、悪戯っぽく笑った。
対して、僕はがくりと肩を落とした。
ためにためて、焦らした末に答えない。まあ、お約束っていう奴か。
項垂れる僕にあっけらかんと香宮さんが言う。
「そのうち話すかもしれないよ?まあ、話さないかもしれないけど」
「どっちなんだ」
「高瀬くんとの好感度がレベルマックスになったら言うかもしれない」
「何それ」
「高瀬くんの攻略は大変そうだなぁ」
「え、僕が攻略される側なの?」
隠すことなく香宮さんが笑う。
ああ、これは揶揄われているな。
そう思いつつ、僕もつられて笑う。
二人の笑い声が店内に木霊した。
*
暫し二人で笑った後、香宮さんが徐に口を開いた。
「まあ、こうして話していれば、いつかはポロッと言っちゃうかもね」
……それは、その時が来るまで香宮さんと話しても良いということだろうか。彼女と会話する権利を、僕は得たということなのだろうか。
そのことを問いたかったけど、僕よりも先に香宮さんが訊いてきた。
「ところで、高瀬くんは何か絵のリクエストある?」
話題を変えられてしまった。突然のことに順応できずに、「えっと……」と僕は戸惑うばかりだった。
「あ、人以外でお願いします」
「……人は描かない主義だったっけ?」
「その通り」
首肯した香宮さんに話をぶり返すなんてことは出来なかった。
まあ、ここは勝手に良いように解釈させてもらおう。
気を取り直して、香宮さんにリクエストする。
「それじゃあ向日葵で」
「えー」
「えー、って何」
僕を向日葵と称したあの時の絵は提出してしまったため手に入らない。それならば、と思いリクエストしたのだが、返ってきたのはそれはもう不満そうな声だった。
「だって、同じものを描いてクオリティーの高い絵と並べて比べられたら泣きたくなるから」
「その気持ちはわかるけど、別に僕の絵のクオリティーは高くないよ」
「えー、うっそだー!」
「何でちょっとキレてるの?」
反論の声が大きい。何故かむっと顔を顰めた香宮さんを「まあまあ」と宥める。
「僕しか見ないし、比べたりしないから」
「ほんと?」
「ほんとほんと」
不安そうな香宮さんに僕は相槌を打った。
「僕は、香宮さんが描く絵を見たいんだ」
純粋にそう思った。
僕には描けない絵を――香宮さんにしか描けない絵を見たい。ただそれだけだ。
力強く言い切って、あれ、と思った。
香宮さんの肩がぷるぷると震えている。顔は俯いているためその表情は見えなかった。
「香宮さん?」
「ちょっと待って今お見せできるような顔じゃないからちょっと待って!」
「あ、はい」
両手で顔を隠した香宮さんに、僕は素直に頷くことしかできなかった。
……一体、どうしたというのだろう。
結局、僕の疑問が晴れることはなかった。
*
それから僕たちはお互いのリクエストである向日葵を題材に絵を描いた。
香宮さんがスケッチブックからビリビリと紙を切り離す。
「さあ、取り引きといこうじゃないか。例のブツは用意できているだろうな?」
なんて、ニヤリとヤクザよろしく悪どい笑みを向けてくる。
僕はその茶番に付き合うことにした。紙を切り離して、ひらひらとそれを掲げる。
「ここにある」
「それじゃあ、せーの、でお互いに渡すとしようか」
「了解」
せーの、の部分がシリアスな雰囲気を見事に台無しにしていた。
笑いそうになりつつも堪える。ここで笑ったら、それこそ台無しだ。
僕たちは声を揃えて、絵を差し出した。
「ふおお!」
絵を受け取った香宮さんが感嘆の声を上げる。
「ついに高瀬くんの絵が我が手に!」
香宮さんの頭についている耳がぴんっと立ち、尻尾がぶんぶんと揺れる。勿論、それは僕の幻覚である。喜びのあまりその場でぴょんぴょん飛び跳ねているその姿は、至極嬉しそうだ。
今、第三者が現れたら、香宮さんは確実に変な人扱いされるだろうなぁ……。
「そんなに嬉しい?」
「嬉しいよ!」
弾んだ声で即答された。その言葉に、その様子に、僕の心が和んだ。
「僕も、嬉しいよ」
紙がぐしゃぐしゃにならないように持っている紙をそっと見遣る。
香宮さんの手によって描かれた向日葵が、それが今僕の手の中にある。
何処にでもある一枚の紙。でも、この絵はただこれしかないのだと思うと、とても愛おしく感じた。
もし、香宮さんが僕の絵を見て、同じようにそう思ってくれているのなら――それはとても幸せなことなのだろう。
「ところでさ、香宮さん」
「ん?」
「僕の第一印象が向日葵ってどういうこと?」
クリアファイルの中に丁寧に絵をしまっていた香宮さんに、ここぞとばかりに訊ねる。
香宮さんは一瞬きょとんとした後、クリアファイルで口元を隠した。
「それはまだ秘密です」
どうやら、好感度レベルマックスはまだまだ先のようだ。