第三話 虹文堂(一)
たくさんの人が行き交う夕方の駅の構内。高校生もちらほらといて、その中には同じ高校の制服を着た人もいた。
改札口を抜けた僕は咄嗟に「あっ」と小さく声を漏らした。
香宮さんが、いる。
まるで何かに導かれるようにそちらを向いた……のではなく、僕の向かおうとしていた方角に香宮さんが歩いていたのだ。
僕は何処にも寄らずに家に帰ろうとしているのだが、香宮さんは何処かに寄り道でもしていくつもりなのだろうか。
少し気になって離れた所から観察していたのだが、香宮さんの様子が何だかおかしい。
きょろきょろと辺りを見回して、少し行ってはまた元の位置まで戻り、反対側に行ってはまた元の位置まで戻り、そうかと思えば立ち止まって、何やら手元を見ながら首を傾げている。
もしかして、迷子、とか?いや、あれはどう見でも迷子だな。香宮さんってもしかしたら方向音痴なのかもしれない。
僕が見ていることにも気づかず、方向音痴だと勝手に予想されているなんてことを知る由もなく、当の本人こと香宮さんは未だ顔を顰めたままだ。
僕は、一歩足を踏み出した。
相手はこちらに気づいていない。駅構内は十分広くて、僕が横切っても多分香宮さんは気づかないだろう。
素知らぬ顔でこの場を立ち去ることだってできる。そう、できた、はずなのに――
「香宮さん」
僕は彼女に近づきながらその名を呼んだ。
ずっとそうしたくてもできなかったことを、いつの間にか容易くやってのけていた自分に少しだけ驚いた。
自分の行動に自分で驚くなんて馬鹿だな。
と、内心一人で苦笑する。
雑音が多いからか香宮さんは自分が呼ばれていることに気づかなかった。
更に近づいて、僕はもう一度名前を呼ぶ。
「香宮さん」
ぴたり、と香宮さんの動きが止まった。ゆっくりと振り返って、彼女の大きな瞳がはたと僕を認める。それがスローモーションのように見えた。
……視線が、痛い。
香宮さんは少し警戒したようにじっとこちらを見つめてきた。
それは何というか、まるで知らない人を見るかのような視線で――
……もしかして、僕のことがわからないのかもしれない。
そんな一抹の不安が過った。
同じクラスだとしてもまだ一学期だ。仲の良い人以外名前を覚えていない人もいるだろう。クラスメイトといえど接点がなければそれまでだし。事実、僕と彼女の接点などあの美術の時間以外ないと言っても過言ではない。だからこそ、話しかけることもできないまま、色々と悩んでいた訳なのだがそれはさて置き。
人の顔と名前が一致しない。彼女がその部類の人間である可能性は無きにしも非ずだ。
「あの、僕、同じクラスの高瀬です。ほら、この前の美術の時間……人物画のお題の時にペアを組んだ……」
「……ああ!高瀬くんか!」
香宮さんが合致したようにぱん、と手を叩いて顔を綻ばせた。
あ、これ顔と名前が一致してなかった人の反応だな。
どうやら予想は的中したらしい。
ははっと空笑いする僕に、香宮さんがにこりと笑みを向ける。それはもう屈託のない笑顔だ。
……おいおい、さっきまでの警戒心は何処行った?
「それで、高瀬くん。一体、どうしたの?」
「いや、香宮さんが何か困っているように見えて、つい声を掛けちゃったというか何というか……」
言い訳をするかのようにしどろもどろに僕は言う。
きょとんとした様子の香宮さんは、次の瞬間僕以上に慌てだした。
「べ、別に道に迷っていた訳じゃないんだよ!」
「迷っていたんだね」
指摘すれば、香宮さんが図星を指されたかのように「あうっ」と呻いた。うん、わかりやすいなこの子。
赤くなった顔を隠すように香宮さんが顔を俯かせる。
……あ、旋毛。
項垂れる香宮さんの旋毛を見て、僕はふと考える。
僕の方が背が高いから、香宮さんの旋毛を見るなんて容易いことだ。
でも、見える距離にいたことがほとんどなかった。
それだけ近い距離にいるのだと自覚して、今更ながら緊張感が押し寄せてきた。
僕が固まっていたその時、ねぇ、と声を掛けられた。誰に、とは言わずもがな。
いつの間にか復活していた香宮さんが訊いてきた。
「高瀬くんって、この辺りのこと詳しい?」
「うん、まあ、そこそこは」
「それじゃあ、このお店知ってる?」
そう言って香宮さんが手に持っている手のひらサイズの紙を見せてきた。そこには簡単な地図が描かれていた。
「虹文堂っていう文房具屋さんなんだけど」
「虹文堂……」
舌の上で言葉を転がす。
虹文堂……虹文堂、ねぇ……。
期待に満ちた眼差しを向ける香宮さんに僕は告げる。
「知ってるよ」
ああ、知ってる。よぉーく知ってるさ。
「良ければ案内するけど」
「いいの?」
「うん」
「ありがとう!」
二つ返事をすれば香宮さんがぱあっと輝かんばかりの笑みを浮かべた。
……いやほんと、最初の警戒心何処行った。知らない人にはついて行っちゃダメだって教えてもらわなかったのだろうか。いや、僕は別に知らない人という訳ではないのだけど。
何かこう、上手く言いくるめればころっとついて行っちゃいそうだな……。
自分の後を上機嫌についてくる香宮さんに、色々と心配になる僕だった。