《☆~ 新たな婚約話の悩み(一) ~》
キャロリーヌがローラシア皇国の宮廷に入ってから、既に二ヶ月ばかりが過ぎている。四等管理官という官職に就き、忙しく暮らしてきた。
家族に先立たれ、一人だけ生き残っている彼女には、永く続くメルフィル家を存続させるという使命がある。この悲願を達成するためには、お婿さまを迎え入れ、後継ぎとなる子を儲けなければならない。
つい先日、現在のところ独身であられる皇帝陛下のお妃候補として、キャロリーヌの名が挙げられた。発起者は、彼女の元婚約者、ジェラート‐スプーンフィードである。
皇帝陛下の生活全般に関する管理を任されている一等管理官の地位にある男が、新参のキャロリーヌを、この皇国に生きる女性にとって最も高貴な存在である皇后の身分へと推したことは、宮廷内に少なからず波紋を起こすのだった。
しかも、推挙の理由に極めて私的な企てのあることが判明したため、これまで人気を博してきたジェラートの輝かしい功績に、一つの陰を落とすこととなる。
彼が謀った企てというのは、キャロリーヌとの婚約を破棄したことや、調理官へ推挙するという口約束を反故にしたことに対する謝罪などではなく、その狙いは、一度は自身の近くに置いて心から愛した白い牝馬、ファルキリーにあった。
この醜聞は宮廷の外にも漏れ出してしまい、一部の心ない者どもによるジェラートに対する陰口や批判の声が、世間に広まってしまうまでに至った。
二ヶ月前に起きた、ローラシア皇国を揺るがす大事変の際、ジェラートは、父親のスプーンフィード伯爵から、「たかが馬の一頭に心を奪われたりすることのないように」と強く釘を刺された。それにも拘わらず、今回のような失態を招いたがために、彼は再び厳しい叱責を食らうこととなる。
そして、この醜聞事の渦中にいるもう一人、キャロリーヌにとって、本日は特別な春の一日となるのである。
空は明るく晴れ渡っており、大気はもう冷たいと感じることがない。
白い中着の上に朱色地の薄手外衣を羽織り、下には馬乗袴という、すっかり板についた乗馬姿の少女が、ファルキリーを連れて宮廷の門外に現れた。
少し離れた場所に立っている人族の若者が、軽い口調で声を掛けてくる。
「やあキャロル、準備はバッチリかい?」
「あ、マトンさん。お待たせしました」
「いいや。僕もついさっき着いたばかりだよ。ははは」
「それでは、ゆきましょうか?」
「うん、出立だ!」
ところが、キャロリーヌがファルキリーの背中に飛び乗ろうとした時、真後ろから「おい待て!」という声が掛かって、二人は出鼻を折られるのだった。
咄嗟にふり返ったマトンが、声の主に問い掛ける。
「あんたは誰だい?」
二人に待ったを掛けてきた相手は竜族だった。
「この俺は駆け出しの探索者だ。それでなあ兄ちゃん、俺の顔を見て、なにか思わないか? マトン‐ストロガノフさんよお?」
「おや、あんたは僕の名を知っているのだね。でも生憎ながら僕の方は、あんたのことを知らない。だからいくら顔を見たところで、これといった特徴のない竜族の若い男だ、くらいにしか思うことはないよ」
「そりゃあ、ツレないぜ!」
道を塞ぐような形で向き合って立つ二人のやり取りを、数歩ばかり後方からキャロリーヌが心配そうに見守っている。
彼女の不安気な様子を感じ取ったマトンは、竜族との会話を打ち切った。
「さあキャロル、改めて出立だよ」
「はい。あの、でも……」
キャロリーヌは、宮廷に入った今でも以前と変わらずに優しい心のままでいるので、話し掛けてきた竜族を捨て置くことに、少なからず躊躇逡巡を感じている。