《☆~ おそろしい霧の渓谷 ~》
ブリオッシュが杖を突いて戻り、羊皮紙をオイルレーズンに手渡す。それには、「竜魔枯がありましたゆえ、拙者たちは新しい村へ向かいます」とだけ簡潔に記されていた。この伝書をキャロリーヌが受け取り、細長く折り畳んだ上で、シルキーの脚に結びつける。
準備が万端となったので、オイルレーズンが言葉を掛ける。
「フォカッチャに届けてくれるかのう」
「きゅい!!」
シルキーが力強く答え、シシカバブ湖の方面へ飛び立つ。フォカッチャの居場所は知らないけれど、きっと空から見つけるに違いない。
オイルレーズンがブリオッシュに問う。
「新しい村はどこかのう?」
「南の渓谷に沿って斜面を西へ登りますと、馬栗の樹林が広がっています。それを抜けましたところ、こことよく似た台地があります。竜魔枯はいつ起こるか分かりませんゆえ、拙者が生まれる以前より、新しい村に決められていたそうです」
「遠いのじゃろうか?」
「二つ刻ばかりを要します」
「ふむ。くれぐれも気をつけてゆくがよい」
「ありがとうございます。皆さまも、どうかご無事でいて下さい」
ブリオッシュは頭を下げた後、速やかに立ち去る。杖を突いて歩く姿を見送りながら、キャロリーヌがつぶやく。
「まだ十一歳だそうですのに、とってもお強いですわ……」
「うん。僕も、つくづくそう思うよ」
マトンが素直に同意した。
その一方で、ショコラビスケが誇らしげに口を挟む。
「母ちゃんから聞いた昔の話ですがね、この俺も、生まれながらにして、なかなかに強かったようですぜ。がほほほ!」
「ショコラや、さっさと出立の仕度を始めるがよい」
「へいへい、承知でさあ!」
仕度といっても、地面に置いていた背袋を肩に担ぐだけで済む。
キャロリーヌたちの進む北の方向にも谷があって、こちらは「霧の渓谷」と呼ばれる難所の一つである。
オイルレーズンが、気を引き締めるよう、皆に注意を促す。
「この渓流はあまりに速いのでな、たとい生まれながらにして強いショコラであろうとも、落ちると命はないわい。くれぐれも、油断してはならぬ」
「おっ、おう、了解でさあ!」
足場も悪いため、慎重に歩を進めているところ、霧が立ち込めてきた。
三分刻もしないうちに、視界がまったく利かなくなり、一行は身動きの取れない状況に陥る。
マトンが松明に火を点け、辺りを照らしてみるけれど、明かりが濃霧に溶けるかのように衰えるので、数歩先すら見渡しようがなかった。
「こうなっては、晴れるのを待つより他はないわい」
「そのようですわね」
「本当におそろしい霧でさあ……」
「いいや違う」
「がほっ、違うのですかい!?」
「おそろしいのは、霧の後じゃよ」
「そりゃあ一体、どういうことでさあ??」
「岩が湿っておるのでな、足を滑らせて川へ落ちる」
「おうおう、確かにおそろしいでさあ!!」
視界が戻ったからといって、喜び勇んで足を踏み出してしまえば、それこそ命取りとなる危険を招く。
半刻ばかりが過ぎた頃、霧はすっかり消え去った。
皆は、オイルレーズンの発した警告を肝に銘じており、先ほどよりもずっと慎重に歩を進める。それが功を奏し、誰一人として渓流に落ちたりしなかった。
川の水が少なくなり、流れも緩やかな箇所に差し掛かったところ、ショコラビスケが胸を撫で下ろす。
「ようやく安全なところへこられたぜ、このくらいなら、落ちたって命に別状ねえでさあ。がほほほ!」
「いいや違う」
「がほっ、また違うのですかい??」
「川の底をよく見るがよい」
「おう、ありゃ沢蟹でさあ!」
マトンが眉をひそめて話す。
「とてもおそろしい蟹だよ」
「どんなふうにおそろしいでさあ?」
「極めて強い毒を持っているのさ」
「この俺でもやられちまう強さですかい?」
「キミは以前、吸血鼠に噛まれたね」
「おうよ! あの時ばかりは、さすがの俺さまも死ぬかと思いましたぜ」
「ここの蟹は、たった一匹の毒で、数千もの吸血鼠に匹敵するよ」
「がっほ!!」
ショコラビスケは当然のこと、他の者も引き続き、慎重を期して進む。




