第一話 精霊の娘
「なぁ、老師さま。わっしの名前には、なして濁点が二つもあるんかいな?」
優曇華がその、幼く柔らかな頰をむうと膨らませる。
「きのこや、かえるは可愛い名じゃろ? ゲジゲジやゴキブリは可愛くない」
老仙人の背中を登りながら、口を尖らせぷいぷいと文句を垂れている。
「わっしの名は“うどんげ”じゃ……可愛くない名前じゃ……」
ゆらゆらと漂いながら、膝を抱えてしゅんとする。
「そんなことはないぞい。“雲間から射す優しい漏れ陽のような花”……。美しい名前じゃよ」
老仙人は長く垂れた眉から覗く、小さな目をしばしばと瞬せながら言った。
「じゃあ、老師さま。わっしは綺麗な花を咲かせられるんかいな?」
花はどんな花でも美しいものだ。だが老仙人は、目の前のかわいい弟子であるこの花精霊に、特別な言葉をあげたくなる。
「お前さんはきっと、誰も見たことがないほどに、美しい花を咲かせるじゃろうて!」
その言葉に優曇華が少し照れ臭そうに……しかし、ほんわりと破顔する。花びらの綻ぶようにとは、まさにこのような様子をいうのだろう。
「ふへへ! ならば、早く咲いてみたいの!!」
花開く前の乙女の笑い声が『ふへへ』である。
(もうちょいこう……『うふふ』なんぞと笑うた方が良くはないか?)
浮世から離れて久しいこの老仙人。記憶の糸を手繰ってはみるが、人間として暮らしていた頃も、幼女との接点なんぞはとんと見当たらない。
(このわしが、子育ての真似ごとをする日が来るとはのう……。長生きすると色々あるもんじゃな!)
幼女は“優曇華”という、三千年に一度きり咲くという伝説の花の精霊だ。優曇華の花はそれは可憐なものだと書物や伝承が伝えている。
固く閉じた花びらは乳白色でうっすらと半透明。茎も細く頼りなく、わずかに俯くようにこうべを垂れ、憂いと露を湛える。この世に不幸があふれ返ったその時、人々の哀しみをその花びらで受け止めるために咲くという。
(なんと因果な花じゃろうか)
そんな花の精霊であるこの幼女も、ツボミの姿をなぞらうように、儚く可憐な姿をしている。
乳白色に透き通る肌、朝露に映るお空の瞳、朝焼けに霞む雲のように色づく頰……。
人間の童のように切り揃えた豊かな髪は、瞳と同じく淡い春の空の色。芽吹いたばかりの双葉のように儚くとも、いじらしい。
ところが……。
「老師さまの目はどこにあるんじゃ? この下か?」
そんなことを言いながら、老仙人の頭にしがみついて眉を引っ張るその様子は、繊細さとはずいぶんと距離がある。
好奇心が強く物怖じせずに、何にでもじゃれつく。まるで子猫か子狐のようだ。
三千年の時を過ごす伝説の花精霊は、この歳ではまだまだ未成熟なのだろう。その姿は人間でいうならば五歳程度の童姿。
「ほわぁ〜、老師さまの目は細っそいの! ちょっと開いてみてくれんか?」
「うっさいわ! これで開いておるんじゃよ!」
「老師さま、眉毛で目を隠しておるのは何か理由があるんかいな?」
紅葉のような手のひらをつきたて餅のように柔らかな頰に当て、足らん舌で一丁前の口を利く。
別に隠しているわけではない。爺いの眉は長くなるのが世の常だ。
「老師さまの目が開く時は……なんぞ恐ろしいことが⁉︎」
「起きんわい! わしは呪われてはおらんわ!」
(全く……曰く付きはお前さんじゃろうが!)
この曰く付きの花精霊は、未曾有の不幸や悲劇と共に語られる存在だ。
地獄の扉が開くのか、空でも落ちて来るものか。
なぜこの稀有な精霊が、老仙人の住処である一本杉の根元で生を享けたのか。
(わしに悲劇を、優曇華の務めを見届けろということかいのう?)
まだ幼く霊力操作の覚束ない優曇華は、具現化できる時間も短い。老仙人の元までふよふよと漂って来ては、人間の話をねだる。
だがその話の途中で、コクリコクリと居眠りをはじめる。皺枯れた膝にコテンと頭を落とし、くーかくーかと寝息をたて、やがて霧散してしまう。朝日を浴びて霊力が満ちるとまたふよふよと漂って来る。
そんな生活をもう百年近く続けている。“無垢”を体現したような、鎖に繋がれた精霊。果たしてどう育てれば良いものか。
「老師さま“哀しみを引き受ける”ってどういうことじゃ?」
「そうさのう。それは大層難しい質問じゃな」
人の感情なんぞというものは、外からどうにかするには限度がある。今とて哀しみや不幸は、其処此処に吹き荒れている。
「まずはお前さんは、人について知ることから始めてみてはどうかの?」
優曇華の質問への応えを先延ばしにして、尤もらしいことを口にする。
仙人などと呼ばれて久しいが、世の理は複雑怪奇。人の心はさらに深い謎に覆われている。
(だが知っていたとしても、優曇華にその答えを告げるのは恐らくわしではないじゃろう)
そして、それは今でもない。
「そうさのう……。行ってみるか? 人間の里へ。ちょうど祭りの季節じゃからのう」
「えっ! 良いのか? 精霊だと知られたら捕まって売られてしまうんじゃろ?」
優曇華が手足を縮め背中を丸めて、ふるふると身を震わせる。以前山に逃げて来た山賊の一味に会った時に、少々脅かし過ぎたらしい。
(だが物珍しさで、ふよふよと着いて行きそうになっておったからのう)
「人間の娘っ子に見えるよう、術を掛けて行くんじゃよ。そろそろ狐の市が立つ。身支度もなんとかなるじゃろうて」
「人間のふりをして人間の着物を着て、老師さまとお祭りに行くのか⁉︎」
優曇華の顔がパッと輝く。
ぴょんぴょんと老仙人の周りを飛び回る。「わーい、わーい」と両手を上げて、それこそ人間の幼子のようだ。
(こんなにも喜ぶとはのう……)
老仙人は人間だった頃も、終ぞ家族とは縁がなかった。もちろん所帯を持ったことも、子供を育てたこともない。
(こりぁ、一丁骨を折ってやらねばならんのう……)
伝説の花精霊“優曇華”。
その背に負う荷物の意味を知る時が、いつかやって来るのだろうか。老仙人はため息を吐き、その杞憂を払うように首を振った。
今はまだ、双葉が開いたばかりの小さな若芽。やがて蔓が伸び、本葉が茂り、ツボミをつけて花開く。
だがそれは、まだまだ先の話だ。