第十七話 幼馴染
「お頼み申します!」
朝も早ようから、若い衆のやたらと気合いの入った声で目が覚めた。うむむ、仙人や年寄りの朝は早いと思うておるな?
わしは……そうでもないぞい!
先だって西の大陸で、興味深い書物を見つけてのう。夜っぴいて読んでしもうたわい。目がしょぼしょぼじゃよ……。
ヨロヨロと一本杉の根本まで降りて見れば、どこかで見たことのある顔立ちの若い衆じゃ。はて……誰だったかいのう?
「鷲尾のお山の賢仙人さま。お久しゅう御座います」
礼儀正しく頭を下げる。粘り強そうな眉根、木訥とした物言い……。
「お主、正太か⁉︎ 立派な若い衆になりおったのう!」
「はい。正吉と名を改めまして御座います。折り入って、お願いがあり参り申した」
とりあえず招き入れて茶を淹れる。一本杉の中ほどにあるわしの庵は、人間が登るには難儀だろうにひょいひょいと軽やかに登って来おった。
正太は優曇華の初恋の相手。古狐の大婆が倒れた時に初めて会うて、そのあとしばらくの間はお山にも顔を見せておったが……。
大婆が隠れてから五年……いや十年くらいかの? ほんに人の子の成長は、あっという間じゃな。
折り入った話なんぞ優曇華の話に決まっておるが……。嫁に欲しいなどと言われたら、わし……どうしたらええんじゃろう⁉︎
甘茶を渡して言葉を探す。
「正太……正吉殿は、いくつになりましたかいのう?」
「数えで十九に御座います。どうぞ、以前の通りお話し下さい」
ううむ。里の者で言うたら、もう子供が一人や二人おる年頃じゃのう。
「して、今日は何用で……?」
正吉が姿勢を正し、床に手を突き頭を下げる。
「家督を弟に譲り、家を捨てて参り申した。どうか弟子入りを許して頂きたく存じます」
「仙術の道を志すと、そう申されますか」
「はい。恥ずかしながら、お華……優曇華殿を、心より想うております。共に……。優曇華殿が花咲き、そして散るその日まで、添い遂げたいと思うております」
優曇華は……全てを話したか……。ううむ。それだけの仲ということか。
見れば正吉は旅装束。家を捨て、覚悟を決めてわしの元を訪れたのじゃろう。
だが、しかし……。
「正吉殿。そのまま聞いて下され。まずは、お礼を申し上げたい。優曇華はわしのたったひとりの愛弟子じゃ。その優曇華を想うてくれたこと、有難いことこの上ない」
「はい。幼き頃より、優曇華殿は自分の大切な人に御座います」
「正吉殿、仙術はのう……」
お主の心からの想いが……仇となるんじゃ。
「仙術は欲を捨てることから、はじまるんじゃ。……優曇華に心が囚われておる限り、お主は仙人にはなれん」
正吉の背が、ぴしりと固まる。
床に突く腕がふるふると震え、やがて……はたはたと、滴が床を濡らした。
「では……どうしたら……、どうしたらお華の荷物を……共に背負うことが出来ますか?」
正吉は俯いたまま、こぼれる滴を拭いもせず、迸るように言葉を続ける。
「あの小さな背に、大きな荷物を抱え……それでも、気丈に前を見据えるお華を……、この手で助けてやりたい。お華が愛おしくて、堪らんこの気持ちをどうしたらええんですか!」
返す言葉が、見つけられんかった。
わしは今まで残される者の気持ちにばかり、頓着しておった。置き去りにして刻を急ぐ者も、こんなにも傷を負うものなのか……!
物の怪どもの中には例えしばらくの間だけでもと、人間と所帯を持つものもいる。だが優曇華は……まだ十歳程度の姿。いつ繭に入るか、出る時どの程度育つのか、とんと定まっておらん。
優曇華がここまで育つのに二百年ほど。十五、六の姿になれば嫁に行けるとして……。うーむ。なんとか修行をつけてみるか? わしとてどうにかしてやりたい。
しかし……己に対する執着すら捨てねばならん修行じゃ。優曇華のためにという大前提が、そもそも間違っている。
わしが油汗を流して考えておると、優曇華が呑気な様子で戻って来た。
「お爺、ただいまじゃ……あれ正吉、来ておったか。遊びに来たのか?」
「いいや……。お華、俺は旅に出る事になってな。しばらく戻れんから挨拶に来たんじゃ」
「なんじゃと? 聞いとらんわ!」
「ああ、急に決まってな。……そうじゃ、旅の守りにお前の髪の毛をもらえんか?」
「あ……ああ。お安い御用じゃが……。いつ帰って来る?」
優曇華が、ぶちぶちと髪の毛を千切りながら聞く。千切った髪が淡い空色のツボミとなる。
「……お華……」
正吉が目を瞠る。優曇華が自分とはかけ離れた存在であることを、目の当たりにして口元を戦慄かせる。
「その花はわっしの分身じゃ。枯れんが、根付かん。旅の守りになるかわからんが、狐の大婆は『閻魔が羨ましがる』言うてたな」
「そうか……天下一品じゃな」
正吉が器用に自分の髪を一房編み、懐から出した小太刀でプツリと切る。
「ほれ、お返しだ。俺の髪はなんの効力もないが……腹を出して寝ても下さんように持っとれよ」
優曇華をからかうように笑う。
鼻垂れ坊主だった頃と少しも変わらぬ笑い顔だ。そうして気持ちを隠すようにそっぽを向き、ぎゅっと唇を噛みしめた。
(しばらく一人になり、自分の気持ちと向き合うて参ります)
わしの耳に口を寄せ、囁くように言い庵をあとにした。
一時の恋ならば、覚めることもあるかも知れん。優曇華と正吉は幼馴染で、もう十年以上のつき合いじゃ。醒める恋ならば優曇華の事情を知った時に終わっていただろう。
正吉が優曇華に背を向けて、花のツボミにそっと口づける。こっそり見ている方の身が千切れるような光景だ。
庄吉は顔を上げると手を振り、真っ直ぐ前を向いて旅立って行った。
この先。優曇華と正吉が、どう交わり、どんな縁を結ぶのか……。
それは、地獄の閻魔さまでもわかるまいが。
例えほんのしばらくでも、寄り添い幸せな日々があると良い。
どうか二人の季節が、噛み合うことがあるようにと。
心からそう願わずには、おられんのう。




