第十六話 せみしぐれ
大婆が隠れたあと、優曇華はまた繭に籠った。
お加代坊が儚くなった時と同じように、ガラス玉の中で膝を抱えておる。今回は長い。
お山は夏真っ盛り。蝉しぐれが夕立のように響いておるのに、妙に涼しく静かに感じる。
わしら仙人や物の怪は、墓なんぞは作らない。そもそも滅する時には、身体は残ったりせずに消えてしまう。さっぱりしたもんじゃ。
だが古狐の大婆はさすがに大妖怪だけあって、尻尾の毛をひと房、優曇華に残したらしい。
優曇華は大婆の尻尾が好きだったからのう。ちんまい頃から、よう包まって眠っておった。
わしだったら、何が残るんかの? やっぱり髭じゃろうか? 爺いの髭なんぞ、使い道もありゃせんな!
天狗はさっぱり顔を見せん。
彼奴は恰好つけで、弱味を見せることを嫌うからな。きっと独りで泣いておるんじゃろう。
時期を見て、無花果でも持って訪ねてやるとするか。二人で月でも眺めながら、大婆の思い出話でもするが良かろう。
悪口を言っていたら、化けて来るかも知れんな。いや、大婆はもともと化け狐じゃった。
大婆とは長い付き合いじゃったのう。初めて会ったのは、わしが新米の仙人で、まだ若木だった一本杉に、ふらりと住み着いた夏。
丁度、今時分の季節、お山から生き物全ての濃い気が、立ち昇るような昼下がりのことじゃった。
わしは一本杉にねぐらや庵を、術で整える作業に追われておった。お山の気が盛んな夏に粗方おわらせようと躍起になっておったな。
ところが、まだ仙人として未熟だったんじゃろう。暑さにやられて目を回してしもうた。
日なたで倒れてしまい、ああ、このままでは干からびてしまうのうと、遠ざかる意識で思った。
気が付くと、一本杉の洞に寝かされていて、額の上には冷たい濡れ手ぬぐいがべしょりと被さっている。
「気がついたかえ? まったく荒れた術を使いおって……。お山が機嫌を悪うしたら、どうしてくれるんじゃ」
ぶつくさと言いながら、冷たい沢の水を差し出してくれた。
実際大婆の術は実に繊細で、その編み目を見ているだけで、ため息が出るほどじゃった。
まだ術の種類も練度も足りなかったわしは、好物の川魚を手土産に、大婆の住処に押しかけたものじゃ。
まあ大概は教えてくれんかったがな。
『人間の世話なんか焼いてられるか!』と、けんもほろろに追い返された。
あの頃はまだ髪の毛もふさふさで、髭も黒かったんじゃがのう。男前過ぎたんかいな?
大婆の口の悪さは、出会った頃から天下一じゃった。
その癖大きな術を使う時は、わざわざ気を放ってわしが気づくよう仕向ける。そうしてこっそりと覗いているわしに気づかぬ素振りで、ゆっくりと術を編んでくれた。
わしが仙人として一人前になれたのは、半分以上は大婆のおかげじゃな。
ううむ。今日はやけに昔のことを思い出す日じゃ。蝉の声のせいかのう。蝉の声もお山も何百年たっても、あまり変わらんからな。
お山では数えきれないほどの命が、毎日毎日、生き死にを繰り返す。
人間が考える命の価値や、生き死にの意味なんぞ、押し流してすり潰す勢いじゃ。
小さな蜘蛛の子が、うじゃうじゃと卵から這い出すのも、都で帝が倒れるのも。命の営みはそう大きくは変わらん。魂に刻まれた設計図の思惑を、そう外れることは出来ん。
それを知っているからこそ、わしらは優曇華が不憫じゃった。
更に重い枷をかけられて、長い時間を生きねばならん優曇華をなんとか解き放ってやりたい。わしら三人は口には出さんでも、同じ想いで動いておった。
大婆はそろそろ黄泉の国へ着いたかの? そこに、大きなものを司るお方がおるんかいな?
もしお目通りがかなうなら、文句のひとつも言ってやってくれんかのう。
救いたいものがあるのなら、防ぎたい悲劇があるのなら。
『降りて来て、自分でやれ』とな……。




