第十五話 大罪の化狐
パタパタと屋根を打つ雨の音で目が覚めた。身体の感覚は遠いが、まだ生身の中にいるらしい。腹のあたりに重みを感じ、見ると優曇華がしゃくり上げるように泣いていた。
「なんじゃ……また泣いておるのか? 優曇華は泣き虫じゃなぁ」
声を掛けると顔を上げた。涙と鼻水にまみれた顔に愛しさが込み上げる。
あんたはこれからまだまだ、これからたくさん、見送らんといかんのにな。慣れろとは言わんが、そう云うもんじゃと思うしかなかろう。
「ふふふ、嫌々なんぞしおって、童のようじゃぞ」
老いさらばえた化狐が、惜しまれて消えるなんぞ、夢のようじゃ。
「ほれ、泣き止んでそこの納戸を開けてみるがええ。その行李の中のもんは、みんな優曇華のもんじゃ」
婆の仕立ての腕は都の姫たちのお墨付きじゃ。どうじゃ、どれもこれも良いじゃろう?
肌を隠すことを覚えたら、次は飾らにゃいかん。女が着飾るのは、男のためだけではないからな。
まあ、優曇華の器量で飾り過ぎると、悪いもんが寄ってくるでな。好いた男の前でだけ飾るのが良いじゃろう。
「正太……あれは良い男になるぞ。人間相手は簡単ではないがな」
その、上から三番目。ああ、そう……それじゃ。鷲尾の峰に積もった淡雪のようじゃろう? 優曇華の花嫁衣装じゃ。
婆は優曇華が嫁に行くまで、待ってやれそうもないからな。
「袖を通して見せておくれ。ああ、よしよし、よう似合うとる。まだまだ色香が足りんがな」
えっ? けっこう元気じゃと? 莫迦垂れ、そんなことあるかいな。もう棺桶に片足入れとるわ。
強がって弱味なんぞ見せないのが、良い女の散り際じゃ。婆くらいの大妖怪ともなれば、自分の残りの霊力の使い方なんぞは思うがままだからな。
「そっちの帯を巻いて、そうそう」
頭には虹蚕の薄布を掛ける。手触りが良いじゃろう? 雨上がりにしか糸を吐かん蚕でのう。色も気まぐれだが、それは良い色が出とる。
棚の上の小箱には、紅やらの化粧品が入っとるからな。春告げ蜂の蜜蝋と紅蝸牛の殻で作った、上物じゃ。
「紅だけでも塗ってみるか? 薬指で塗るんじゃよ。」
うん? ああ、他の指だと着物やら何やらに紅を移してしまうからな。薬指は『紅刺し指』というんじゃ。
「ふふふ、何じゃ……! 人を喰らったような口になっておるぞ! 婆が刺してやろう。ほれ、こっちへ顔をお寄越し」
嫁入り化粧は目尻にも紅を入れるんじゃ。ほうれ、優曇華の白い肌によう映える。
ああ、泣いたらいかんよ。化粧が崩れてしまうからな。ぐっと堪えて笑うのが、女の心意気というものじゃ。
「良いか優曇華。紅を入れたら、女は一人前じゃ。今から婆がいうことを、ようく聞け」
優曇華は、自分が花を咲かせる時のことを、使命じゃと言っておったな。悲劇のあとに咲き、人の哀しみを引き受けるのが定めじゃと。
「そんな花があるもんか」
優曇華も花の精霊ならば感じるじゃろう? 全ての花は……咲く時に、歓喜に震えておる。
「散るために咲く花なんぞ、あってたまるか」
見も知らん人間の贄のように咲くなんぞ、そんなことはせんで良い。
なあに、人間は呆れるほどにしぶとい生き物じゃ。放っておいても滅びやせんよ。
悲劇なんぞおっぽり出して、好いた男と逃げてしまえ。それのどこが悪いんじゃ?
「婆はあんたが笑っていてくれれば、いっそ世の中なんぞは滅びたとて知ったこっちゃないわ」
だから優曇華……自分のために咲くんじゃ。何があっても流されてはいかん。定めだなどと諦めてもいかん。良いか? 花も人も物の怪も、自分のために生きることに遠慮なんかしたらいかん。
「ほれほれ、むくれておらんで……婆に笑った顔を見せておくれ」
ふふふ。良い子じゃ。優曇華は裏表のない良い娘に育ちおった。婆の自慢の娘じゃよ。
これこれ、髪の毛を毟ってはいかんて。物の怪や精霊にとって、髪の毛は大事な触媒となるもんじゃ。
「……ああ、髪の毛がツボミになりおった。これが優曇華の花か……なんちゅう可憐なツボミじゃ」
婆にくれるのか? 持って行け?
「ふふふ、有難いのう。こんな良いもん持って行ったら、地獄の閻魔が羨ましがるな」
大罪の化け狐が今まで意地汚く存えておったのは、この為なのかも知れんのう。
許されることなんぞ、望んでもおらんが……婆も、少しは明るい場所へ辿り着けそうじゃ。
優曇華と過ごしたこの百年は、婆にとって宝物じゃ。お陰で閻魔や獄卒どもと渡り合う覚悟が出来たわい。
良し、決めた。婆は優曇華が咲く前に、地獄でのお務めを済ませる。必ず真っ白な身体で生まれ変わってみせる。
だから泣くな! ほれほれ、笑わんかい!
「紅入れた一人前の女は、別れに泣いたらいかんのじゃ」
ぐっと堪えて、婉然と微笑むんじゃよ。
「えっ? 婉然の意味がわからない?」
ふふふ、全く締まらんのう。艶やかに、大輪の花のように、咲き誇るように笑うんじゃよ。
「それが女の……心意気というものじゃ!」




