第十四話 身隠しの術
木枯しの頃を過ぎ春の嵐が吹き荒れ、ようやく水が温んできた陽気の良い昼下がり。
老いぼれどもが悪だくみをするには不似合いの爽やかな日だ。優曇華が里へと向かったのを確かめてから、三人は気配を消してこっそりと後を追った。
老仙人は身隠しの術を使い、天狗は隠蓑を纏っている。念のために声の伝わらない術もかけて、離れて様子を伺う。
大婆は真っ白な子狐に変化して柿の木の下に座り込み、二人に興味のない素振りで大きな耳で聞き耳を立てている。
優曇華の相手は、正太という名前らしい。
「うぬぬ……あの小僧が優曇華の相手か? なんでい、普通の鼻垂れ小僧じゃねぇか」
天狗が奥歯をギリギリ言わせながら、口惜しそうに言った。
「全く……何を期待しておったんじゃ?」
「優曇華の器量と霊力ならば、都の帝でも唐国の皇子でも骨抜きだろう?」
「こんな里村に帝や皇子が居るわけがなかろう。それに金や権力なんぞ持ってるもんは、みんな揃って禄でもない連中ばかりじゃ」
優曇華をそんな連中に関わらせたくはない。
「確かにな……。だが二人とも喋らんな。なのに優曇華はやけに嬉しそうじゃねぇか」
優曇華と正太はもう四半刻も、風が草原にうねり模様を付けるのを一緒に眺めていた。春の穏やかな木漏れ日が、座り込んだ二人の足元でちらちらと揺れる。
優曇華がゆっくりと形を変えてゆく雲に、名前をつける。正太は微かに口元を柔らかくして、ひとつふたつ頷きを返す。
「睦まじい光景だな。俺ぁ、うっかり成仏しちまうぞ」
天狗がにが虫を噛みつぶした顔で言う。ひねくれ者の天狗は初心な二人を見守るのが居心地が悪いようだ。
ふと正太が立ち上がり、草むらへと分け入ってゆく。身を屈め、すっぽりと身を隠して進む。わさわさと草を揺らして移動して、思いもよらぬ場所からひょっこりと顔を出した。
優曇華は正太が顔を出すたびに、クスクスと笑い次に顔を出す場所を探す。そのうちに優曇華も草原へと飛び出して行き、追いかけっこがはじまった。
羽色の違う二羽の子雀が、戯れ合っているようだ。優曇華の笑い声が鈴の音のように風に流されてゆく。
「さあ、もう良かろう? 天狗が成仏する前にお山へ帰るとしよう」
邪なんぞどこにも見当たらない。色も欲もまだまだ先の話だろう。
合図を送ろうかと柿の木の下の子狐に目をやると、何やら蹲ってピクリとも動かない。
「おい、白天狗や。大婆の様子がおかしいぞい!」
老仙人が言い終わるよりも早く、優曇華が動いた。
草叢を光の速さで駆け抜けて、瞬きの後には子狐に抱きついて霊力を注いでいる。優曇華は大婆に気付いていたようだ。
「お爺! お爺! おるんじゃろう? 狐のお婆が……!」
急いで柿の木まで天狗に抱えて飛んでもらい、身隠しの術を解く。
正太が草原の真ん中で、ポカンと口を開いて突っ立っている。
「うむ、記憶を飛ばしてしまうか?」
老仙人の呟きを優曇華が遮った。
「正太! この狐はわっしの大切な家族じゃ! 今から起こることを、胸に収めて洩らさんでくれ!」
優曇華が正太の手をぎゅうと握る。小さく『頼む……』と呟くと、正太が大きく頷いた。
「わかった! おいらは何も見とらん。早く……早く行け!」
「お爺! 雲を呼んでくれ! 天狗のお爺! お婆を霊気で包む。手伝ってくれ!」
「お、応!」
爺い二人が優曇華の迫力に気圧され、ようやく事態の深刻さに頭が追いつく。
狐の術がホロホロと解けて、性が露わになる。齢を取った大きな九尾の狐だ。
狐はこの姿を晒すのを何より嫌っていた。荒く、浅い息を吐く大婆を、優曇華の霊気で包み雲に飛び乗る。
「お華! 頑張れ!」
「応!」
正太が、目の上に手をかざしながら叫び、優曇華が短くそれに応えた。
そのやり取りが聞こえたのか……。苦しそうだった大婆の口元がほんの少し緩む。
誰よりも恋の儚さと伴う危険を知る狐が、それでも二人の通いはじめた淡い恋心を知って、何を思ったのか。
大婆、わしらの仕事は優曇華を守ることじゃろう? なかなか見所のある小僧じゃが油断したらいかんのじゃろう?
わしは呑気者じゃてのう。まだまだ優曇華にはお前さんが必要じゃよ。
まだ、ちいとばかし、早かろうて……。
雲の上で老仙人の呟きが、風に流されて消えた。




