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13 危うい約束

「えっ?」

 戸惑い、瞬きを繰り返す一色さん。僕の言葉が聞こえなかったはずはないのだが。


「浅井さん、それは一体……」

「とぼけないで下さい」


 心を鬼にして、僕は鋭く切り込んだ。

 彼女は優しすぎる。普通に尋ねても、愛する彼のことを庇って嘘をつくだけだろう。それは、さっきのやり取りから十分に推察される。

 だから、少々強引なやり方でいくしかない。


「以前、米田の家を訪ねていったとき、あなたの手首に痣があるのを見ました。あれは火傷の跡なんかじゃない。強く叩かれて、内出血したようにしか見えなかった。違いますか」

「違うんです。あの、それは」

「何が違うんですかっ」

 思わず声を荒げてしまっていた。周りの客から視線が集まるのを感じ、僕は縮こまる。


 一色さんは動揺した様子で、声を震わせていた。

「……はい。その通りです」


 やがて、俯いた彼女の頬を、一筋の涙が流れた。

「直樹君は、私が何か気に入らないことをすると、いつも私のことを叩きます」


 やっぱりそうか、と僕は苦い思いで話を聞いていた。どうやら、米田との対立は避けられそうにない。



「でも、それは私が悪いからなんです。私が、直樹君の期待に応えてあげられないから。……私が、駄目な彼女だから」

「違うよ。一色さんのせいじゃない」

 静かに泣く彼女の言葉を遮り、僕は断固として否定した。


「好きな人に手を上げるなんて、絶対おかしいよ。米田のしていることは間違ってる」

「そうでしょうか」

 潤んだ瞳で見つめられて、不覚にもどきりとした。おかげで、返事をするのに僅かなタイムラグが生じた。

「……うん、絶対そうだ」



 一色さんが泣き止むのを待ってから、僕らは喫茶店を出た。あまり帰りが遅くなると直樹君が心配するから、というのが彼女の言い分だった。

「こんなことを言うのは、すごく失礼かもしれないけど」

 池袋駅に向かって歩きながら、僕は遠慮がちに切り出した。


「一色さんと米田は、一旦距離を置いた方がいいんじゃないかなと思う。つまり、その、暴力の問題が解決するまでの間は」

「……それは、できません」

 けれども、一色さんは首を縦に振らなかった。


「直樹君は、私が別れたいと言っても認めてくれないでしょう。それどころか、別れを切り出したことに怒って、また私を叩くかもしれない」

 悲しそうな横顔を見ていると、僕はいたたまれなくなった。


「ひどいようなら、最悪、警察に相談するのも手だと思う」

「あまり大げさなことにはしたくないです。それに、直樹君に迷惑かけたくないですし」


 僕は何通りかの解決策を提示したのだが、彼女はことごとくそれを拒否する。僕には何ができるのかと、途方に暮れそうになった。



 改札が近づいてくると、一色さんが不意に足を止めた。上目遣いに僕を見て、縋るような声音で囁く。

「……あの。もし、どうしても耐えられなくて、逃げ出したくなったら、浅井さんのところに行ってもいいですか」


 彼女の言葉は、僕を大いに狼狽させた。彼女を家に連れ込んだことが米田に知られれば、僕たちの友情は修復不可能なほどに破壊される。一色さんを助けられるのは本望だが、躊躇なく実行できることではない。

 奇妙なことに、喫茶店で秘密を共有しただけで、僕はある種の背徳感を覚えていた。罪悪感と言い換えてもいいだろう。友人の彼女と二人だけの情報を共有することは、米田への裏切りだともいえる。


 不思議なものだ。僕はあれほど米田のことを嫌っていたはずなのに、彼から一色さんを引き離すことにはためらいがあるのだから。

 米田にだって良いところはある。そうでなければ、高校時代に彼と仲良くなったりしなかっただろう。



「あくまで非常手段としてなら、ありだと思う」

 だが、ボロボロになるまで一色さんが暴力に耐えている光景を想像すると、引き受けざるを得ない。僕は慎重に答えた。


「でも、どうして僕に?」

「浅井さんのことなら、信頼できるからです」

 一色さんはためらわずに言った。距離が近いからか、甘い香りが漂ってくる。


「この前渡して下さった恋愛小説、読みました。浅井さんは、すごく心のきれいな人だと思います。だって、あんな素晴らしい物語を紡げるんですから」

「……そうかな? ありがとう」


 褒められて悪い気はしなかったし、照れくさくも感じた。今までに会った人の中で、これほどまでに僕の作品を評価してくれた人はいなかったからだ。創作者として、純粋に嬉しかった。


 何となくオーバーな表現を使われているようにも感じたが、このときはあまり気に留めなかった。

 桐木に忠告されたことも忘れ、僕は今や、一色さんを悪の手から救い出すのだという使命感に駆られていた。

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