雨あがりの坂道で
小さな透明の箱に閉じ込められている少女の楽しみは、この坂道を下ってくる人達を眺めることと、変わっていく風景を楽しむこと。長年彼女の頭上から見つめ続けている僕は、なんとなくそんなことまでわかっていた。
少女はその坂道のちょうど終わるところに置いている箱の中にずっと閉じ込められている。
ずっとずっと前から、今と同じようにこの中で過ぎゆく人じっと見つめているのだ。
雨粒はまだ冷たく僕の体を打ちつけている。そんな僕に気にかけることもなく、少女は箱の中で膝を抱えて座ったまま向かい側を通る人と、膨らみかけた桜の蕾を交互に眺めていた。
赤い長袖の服に手袋をしている少女のかっこうはあまりにも時期外れだが、当の本人は気にすることなく汗一つ書いていない。
そしてたまに思いついたように、宙に何かを描くように指を躍らせる。同時に小さな口を歌を口ずさむかのように、小気味よく動かしている。
その声が僕に届くことは決してない。
箱の中だからだとか、そんな物理的なことじゃなくて、もっと説明しづらいこと。運命だとか抽象的な言葉に近いものだ。
少女を初めて見たのは今から何年も前のこの季節だったと思う。
それから何回も四季は通り過ぎて行ったけど、僕も彼女もなにも変わっていない。悲しいくらい、少女の背中は小さいままだった。
その時だった。一人の制服を着た女の子が、傘を差して少女の元を訪れた。
否。正確にいうと、彼女が閉じ込められている透明な箱のすぐ近くのガードレールに、制服を着た少女は用があるのだ。
「今日は雨だね」
なんて他愛もない会話から、毎年のように傘をさした少女は一年前のこの日と同じように、微笑んだ横顔を箱の中の少女に見せるのだった。
「ミツル、元気してた?」
と言っても答えるものはいない。きっと彼女も知っているのだろう。
「私は今年で中学生になったよ。ほら、これ学校の制服」
ひらひらとスカートを指でつかんではためかす少女の姿は、数年ごとに変わっていく。背は高くなり、少しづつ声も落ち着いてきた。
でも毎年ここにくるのと、へこんだガードレールに話しかける内容は変わらない。それが悪いことなのか良いことなのか僕にはわからない。
「お父さんも元気にしてるよ。私も元気」
そう言った彼女に、箱の中で少女は何かを呟く。それに気づくわけもなく、傘をさしたまま彼女は一輪の花をガードレールに差し出した。
赤い一本の花。ちょこんと茎の上に乗ったそれは雨に打たれて、ほんの少し首を傾けていた。
「誕生日おめでとう。これ、プレゼント」
言いながら彼女は小さな瓶にその花を立てる。
「スイートピー。好きだったでしょ」
膝を折って腰を曲げながら、彼女は懐かしそうに笑った。
少女はどんどんっと透明な箱を叩いていた。気づいてほしいのか、何か中で叫んでいる。
でも届かない。
どんなに叫んでも、少女の声は彼女には届かない。どんなに腕を伸ばしても少女の細い指に、彼女と同じ空気にも触れることはできない。
両方とも知っているのは僕だけで、目をそらしたくなった。
少女の叫びに気づくことなく傘をさしたまま彼女はいろいろな話を始める。中学校のと家のこと、友達のこと、父親のこと。
その言葉一つ一つをかみしめるように丁寧に、傘で雨粒を防ぎながら汚れたアスファルトの上にあるスイートピーに話しかけていた。
それから幾分か時間が過ぎ、ゆっくりと彼女は立ち上がる。そして名残惜しそうに空を見上げて、さよならを告げた。
「またね。ここで待っててね、絶対だよ」
彼女が紡ぎだした言葉の意味雨のカーテンにさえぎられて、僕にはその時よくわからなかった。
僕の周りが騒がしくなったのは、それからすぐのことだった。
その日は小春日和という表現がぴったりの、暖かい日差しが坂道に細かな僕達の陰影を映し出していた。箱の中も例外なく穏やかな空気に包まれていて、少女はうつらうつらと浅い眠りに誘われているようで、頭が船を漕いでいる。
その時、不意に人波が遠ざかった。
いやそうではない。
人波だけじゃなく、鳥のさえずりも車の排気ガスを噴き出すもアスファルトに留まっている日差しの温度も、全部が全部霞んでしまったのだ。
この坂道がぽっかりこの世から切り離されてしまって、宙に浮かんでいる感じ。
今まで感じたことのない感覚に、僕と少女はただ戸惑った。
少女は不安そうに周りを見渡し何かを聞き取ろうと必死に、箱の壁に耳を当てている。僕も気配を感じ取ろうと、意識をあたりに向ける。
ふわりと風が吹いて僕の体を小さく揺らす。その風に乗せられてきたかのように、誰かが坂の上に現われた。
僕も少女も、その人をじっと見つめた。
ゆっくりとその人は坂を下りてきた。両側にある街路樹は、その人が通ると囁くように小さく揺れる。まどろんでいた空気は優しく揺れ、また僕と彼女を包みこんだ。
そのひとは優しく微笑み、短く切りそろえた髪に桃色の髪留めている女性だった。僕は彼女を知っていた。
そして箱の中の少女も、女性を知っている。
思い出した。
数年前、ちょうどここに少女が現れる少し前、この坂の道の途中で事故があったのだ。幼い子供と母親が、車に撥ねられた。
アスファルトに伝わる紅く染まった雨と、その先にある横たわる大小二人の姿。冷たい雨に打ちすえられる二人の体を揺すり泣く残された一つの命。
フラッシュバックのように浮かんできた光景は自分で驚く鮮明で、残酷だった。
そう。あのスイートピーの少女も、箱の中の少女も、そしてこちらに向かってくる女性の正体もわかった。だから箱の中で少女が泣き崩れる姿もなんの不思議もない。
箱の前にきたその女性。いや少女の母親は、うずくまってなく少女をそっと抱きあげる。箱はあっけなく崩れ、姿をけした。そして少女はぎゅっと母親を抱きしめた。
お母さん、お母さん。と何度も何度も連呼する。小さな手のひらで、自分を包み込む大きな体を精一杯つかんだ。
「久しぶりだね」
なんて優しく声をかけながら母親は頭を軽く撫でる。ごめんね、とも聞こえた。
泣きじゃくる少女をあやしながら、母親はそっと僕を見上げた。僕も、母親を見つめる。
「ありがとう。ずっとこの子見ていてくれて」
若々しい笑みを僕に向け、彼女は言った。
「私は母親失格だね。どうするにもどっちかを置いて行かなくちゃならない」
そんなことはない。と伝えようと、少しだけ腕を振る。その音が聞こえたのか、母親は目を見開いて僕を見る。
小さくうなずく。ありがとうと呟いて、僕に手を伸ばす。そして見えるはずのないものが見えたかのように目を細めた。
「もうちょっと後だったら綺麗だったかもね」
続けて、穏やかな声で僕に彼女の最後のお願いをした。僕はそれを無言で了承した。全ては残された人のために、彼女の家族のために。
二人がいなくなって数日後、ぽっかりと空いた空間に待ち人が現れたのは時雨の降る夕刻の頃だった。
虚ろな目をして、僕の下に立ちすくむ少女の髪は頬にべったりと張り付いている。その姿が痛々しくて、大きな悲しみの影を背負った箱の中の少女の姉は自分が手向けたスイートピーをじっと見つめていた。
「……て言ったじゃない」
こぶしを握りしめる少女はノイズ交じりのラジオのように、とぎれとぎれに言葉を吐き出す。
「待っててっていたじゃない。どうして連れていっちゃうの!?」
叫んだのは、残された命の悲鳴。
先に逝ってしまった妹と母親に対する感情がどうしようもなく膨らんでしまって、少女はわからなくなってしまったのだろう。
ただ精一杯、スイートピーに向かって叫ぶこと。それしか少女の頭には選択肢はないようだ。
「ずっとお願いしてたのに、お母さん連れていかないでよ!」
事故の日以来母親はずっと生死の境を行き来していた。それをずっと看病していたのはまだ無力な、彼女だった。
死と対峙してきた彼女だから、余計に母親の死が怖かったのだ。だからこうして一年に一回は認めたくない死んだ妹にお願いしていたのだ。
ここで待っていてね。はきっとここから母親に近づかないで。といういみだったのかもしれない。
傲慢で、自己中心てきなのかもしれない。でも僕はそうじゃなくて、ひたすらに悲しかった。
わがままも苦しさも、全て彼女の優しさから生まれたものなのだから。
「返してよ! お願い、お母さんを返して。私なんでもするから」
涙と雨でぐしゃぐしゃになった表情で、彼女はたった一本のスイートピーに嘆願する。
――きっとあの子は悲しんで、自分を責めるから
光に溶け込む瞬間、さみしそうに言った彼女の母親の顔を思い浮かべ、僕は彼女のために出来ることを実行した。
腕を揺らすと、予想どおり彼女の頭にあるものがあたってアスファルトに落ちる。それに気づいた少女はそっと雨にぬれたそれを拾い上げる。
「これは……」
桃色の髪飾り。もうひとつは、箱の中の妹のも服に付いていた黄色の大きなボタン。両方に付いている花びらは、僕からの贈り物だ。
はっとした表情で少女は僕を見た。僕の表情はわからないだろうけど、精一杯微笑んでみせる。
少女は髪飾りを裏返す。そのとたん、瞳が大きく開いた。
――幸せに。
短く掘られた細い線。それに込められたあふれるほどの愛情に、君はきっと気づくだろう。
ボタンの裏に描かれたまがった不器用なハートマークは、誰が描いたのか君はきっと気づいているだろう。
少女は二つを強く握りしめ、嗚咽した。
空はいつの間にか晴れ渡り、濡れた坂道と桃色の花びらはきらきらと陽の光に照らされ輝いている。
今は苦しくても、悲しみに押しつぶされそうでも、きみの心の中に降り続ける雨はいつかきっと止むから、だからその時までそれを大事に取っておいてほしい。
そして僕が出来ること。もうひとつだけやってみる。
めいいっぱいに広げた腕を天に振り上げ、そして下げた。その拍子についた花びらが無数の雨となり、少女の周りに舞い落ちる。
鼻先に乗った花びらを、すくいとって少女は泣いたままほんの僅かに笑った。
僕はここから動けないけど、きみの妹とお母さんほど君のことを思えないかもしれないけど、いつかきみが心の底から笑えるように祈っておく。
だから覚えておいて欲しい。
きみがスイートピーに乗せた思いも全部、願わなくても叶うんだ。だれも君を忘れはしない。一人になんてならないんだ。
それでも寂しくなったここに来たらいい。
春は花を咲かして、夏には緑に葉を茂らせて、秋と冬は少しみすぼらしい恰好だけど僕はここにいるから。
この雨あがりの坂道はいつでもここにあって、僕もいるから。
僕の想いが伝わったかのか、偶然なのか、少女は涙を拭いて小さくうなずいた気がした。
スイートピー。
私を思っていて、忘れないで