大森いずみ先生
知香は楓のPTSDについて話し始めた。
『楓は実の母親からかなり虐待を受けていてね、もし児童相談所の人が2、3日遅く訪問していたら命が危なかったんだって。初めて会った時は凄い傷だらけで、目立つ箇所は健ちゃんが皮膚移植をしたりしてだいぶ消えたけど、心の傷はなかなかね。』
形成外科医の健介だが、小さな身体の自分の娘の手術の時はだいぶ辛かった様だ。
『具体的にはどんな症状なんですか?』
『夜なかなか寝られなかったり、怖い夢を見て夜中に突然泣き出したり、今でもおねしょをする事もあるの。それからうちでも学校でも怒られたり苛められたりすると逆ぎれして手に負えなくなって……。実はね、前の学校に居づらくなってこっちに帰ろうって決めたの。』
知香は房江には自分で怪我したと言った額の傷を見せた。
『これもね、なにもしていなかったのに突然キレておもちゃとか本とかばんばん投げてね。暫くすると我に返るのか、ごめんなさいって泣いて謝るんだけど。』
『なずと遊んでいる時は全然そんな事はないのに。』
『なずは小さい子の面倒みるの、保育園の頃から上手いんだよ。』
知香がそう言った矢先、楓の部屋からものすごい音がして、それが止むとなずなと楓の泣き声が聞こえてきた。
『なず!』
3人が楓の部屋に駆け付けると、なずなの頬から血が流れている。
『ごめんなさい、ごめんなさい!』
楓は泣きながらごめんなさいを繰り返している。
『……私が悪いの……。楓ちゃん悪くないから!』
なずなは楓を庇うが、涙と血は止まらず、知香が慌てて段ボールから救急箱を出して止血した。
『なず、ごめんね。痛かった?』
止血をした事でなずなは落ち着きを取り戻し、泣き止んだ。
『きな、ごめん。後が残らなきゃ良いけど。』
『なずの事は気にしないで。それより楓ちゃんも泣いてるから。』
これで長年の友情が崩れる訳はない。
『ごめんなさい、ごめんなさい!』
知香は泣き止まない楓を抱き締めた。
『良いんだよ。大丈夫。』
『ママ、楓悪い子?』
大好きなママに抱き締められ楓は少し我を取り戻した。
『ううん、楓は悪い子なんかじゃないの。でもね、なずねぇ痛かったって。気を付けようね。』
楓は黙って頷いた。
『ともちも大変だね。』
怪我をしたなずなの母親の雪菜から同情される。
『私は全然大丈夫だよ。自分で望んで楓を籍に入れたんだから。ただ、普通なら叱らなきゃダメなんだろうけどまずは抱き締めてあげる事が楓には必要だって。』
カウンセラーには楓は充分な愛情を受けていないので出来る限り叱らない方が良いと言われていた。
『チカねぇ、ちょっと良い?』
知香には昔の様にチカねぇと呼ぶいずみだが、楓の方を向くと先生の顔になっている。
『高木さん。高木さんはね、病気なの。』
『病気?』
『そう。小さい時に凄く怖い思いをして、痛い事をされたでしょ?それが病気の原因なの。先生、パパやママと一緒に高木さんの病気が治る様に頑張るから、高木さんも頑張ろう。』
『うん、分かった。』
知香も保育士だったが、流石にいずみは現役の小学校教師であり、楓は素直に返事をする。
(いずみちゃん……。大森先生、楓を宜しくお願いします。)
知香は楓の学校生活をいずみに任せてみようと思った。
新学期が始まり、なずなと同じ登校班の中に楓が加わった。
『楓ちゃん、おはよう。』
『……おはよう……。』
楓は先日なずなを傷付けてしまった負い目がある。
『この間の事、全然気にしてないからね。』
『誰だ、お前。』
登校班に一年生ではない見知らぬ生徒がいるので男子のひとりが声を上げた。
『蛭間くん、高木楓ちゃんよ。蛭間くんと同じ三年生。』
なずなが楓を紹介した蛭間祐希は、サッカーが大好きな元気な少年だ。
『そっか、宜しくな。』
祐希が握手をしようとして手を伸ばすと、楓はなずなの陰に隠れた。
『蛭間くん、ごめんね。楓ちゃんは病気だから、気を付けてほしいの。』
『そっか。分かった。』
本当に分かったのかは定かではないが、祐希は手を引っ込めた。
『おはようございます。今日から皆さんは1年間この三年1組で一緒に勉強します。先生の名前は大森いずみです。先生は本が大好きで、運動はバスケットボールが得意です。宜しくお願いします。』
クラスの生徒は30人で学校は違うがいずみが小学生の頃より少ない。
『それから、転校生を紹介致します。高木さんは、山梨の甲府というところから来ました。』
いずみが黒板に高木 楓と書いた。
『高木さん、挨拶宜しくね。』
『はい。』
楓がみんなの前で挨拶を始める。
『高木楓です。宜しくお願いします。』
楓は拍手で迎えられた。
そのなかに祐希もいる。
『先生からひとつ、お願いがあります。高木さんは心の病気を抱えています。小さい時にお父さんお母さんからたくさん苛められ、痛い事をされました。』
いずみにとっては小学三年生にどこまで理解出来るかという賭けでもあった。
最悪、クラス全体が崩壊するかもしれない爆弾を抱えている様なものである。
『今もお父さんお母さんに苛められてるの?』
『いいえ。今は高木さんの本当のお父さんお母さんではありません。でも、今のお父さんお母さんは高木さんの事をとても愛していますし、高木さんも本当のお父さんお母さん以上に愛しています。でしょ?』
いずみは生徒たちがどの様な反応をするか、どきどきしながら話し、楓の方を向いた。
『はい。』
『時々、ちょっと変わった事をやったり言ったりするかもしれませんが、それは病気のせいかもしれません。もしなにかあったら、直ぐに先生に報告して下さい。』
『は~い!』
難しい判断だが、後は親たちにも理解を求めるしかないだろう。
クラスの担任は3年目になるいずみだったが、初めての時以上の覚悟で臨むのだった。
知香をチカねぇと慕っていたいずみちゃんですが、本が大好きな勉強家で麗仕込みのバスケが得意という事で学校の先生にはぴったり当てはまりました。
ちなみに姉ののぞみはずっとメガネを掛け編集者として目を光らせていますが、いずみはバスケを始めてからコンタクトレンズを愛用していて優しい雰囲気の先生になっています。




