2030日目の想い
朝になり、スマホのアラームが鳴った。
時間はまだ5時である。
日本なら今の時期はかなり明るいのだが、バンコクの日の出時刻は冬と対して変わらないためまだ外は暗い。
6時からは絶食と言われているから今のうちに前日にコンビニで買ったもので朝食を摂り、食事が終わるとシャワーを浴び、テレビを付けて漸くぼーっと観る。
日本のテレビ局の国際放送がニュースを流しているが、話題は3日後に開幕するパリオリンピックばかりだ。
(来月末はパラリンピックか。麗さんとは入れ違いになっちゃうな。)
麗はパラリンピック女子車イスバスケットボールの代表選手に選ばれていて、知香が帰国する時期は国内で最終調整に入っているか、渡仏しているかもしれない。。
5月に切った髪は肩まで伸びてきているが、ずっと伸ばしていた頃に比べると早く乾いた。
暇なので余計な事を考えない様にスマホで時間を潰す。
日付け計算サイトを発見して自分の生まれた日から今日まで何日経ったか調べてみると、2006年5月22日生まれの知香は今日2024年7月23日で6637日目である。
続けて知香としての誕生日である2019年1月1日と入力してみると、今日で2030日目と表示された。
(2000日越えたんだ。でも生まれてからと比べると3分の1足らずなんだね。)
今日からはまた新たにカウントされる違う人生が待っていると思うと、手術を迎える不安より期待の方が大きい気がした。
(よし、頑張ろう!)
ようやく外が明るくなってきたが、空は厚い雲に覆われている。
(暫く外に出ないからあまり関係ないけど晴れた方が良いな。)
そうして過ごしていると、ドアをノックする音が聞こえた。
『はい。』
『おはよう、京香です。』
わざわざこんな朝早くに知香を心配して訪ねてくれたのだ。
『京香さん、おはようございます。』
『ちょっとロビーでお話しない?』
まだ人がいないフロント脇のロビーのソファーに座る。
『よいしょっと……。』
『大丈夫ですか?』
『ごめんね、歳だからついね。……なんて違うわよ。少しずつ痛みは退いているとは思うけど、立ったり座ったりは辛いわ。』
普通の生活に戻るにはいったいどれだけの時間が掛かるのだろう?
『いよいよね。』
『はい。』
『もっと不安がっているかと思ったけど落ち着いているわね。……なんか残念。』
京香に嫌味を言われる。
『昨日はみーちゃんもだいぶ辛そうだったし不安だったですよ。でも考えても痛いのなくなる訳じゃないし、2030日前だけを見て頑張って来たんだからもう平気です。』
『2030日?』
『そう、お母さんにカミングアウトして知香になってから今日が2030日目なんです。』
知香は笑って京香に答えた。
『あんた、強いわね。』
『そんな事ないです。うつも経験したし、いっぱい泣いてきたから。でも、お母さん、お父さん、友だちにも助けてもらったし。早く恩返ししなきゃって思っています。』
『なにも言う事はないわ。頑張りなさい。私もあと2週間ここにいるし、20歳になったらうちの店でお祝いしてあげるからね。』
『ありがとうございます。……その前に来年一緒にタイ……ですよね?』
『そうね、宜しくね。』
そう言って、京香は知香のおでこにキスをした。
『ちょっとみーちゃんの部屋見てきます。』
智美の部屋はナースコールに対応出来る様にドアガードで半開きになっている。
知香は一応軽くノックをして部屋に入ると、付き添い用のソファーに由美子が寝ていた。
智美も今は寝ている様で、点滴もまだたくさん残っている。
物音に気付き、由美子が目を覚ました。
『……ともちゃん、来てたの?』
『おはよう。みーちゃんどうだった?』
『明け方に痛くて叫んでいたけど看護師さんが痛み止め入れてくれて落ち着いたみたい。』
やはり相当痛むのだろうと知香は思う。
由美子が心配そうに知香の顔を見ている。
『大丈夫だよ。ちょっと騒ぐと思うけど。……お母さんが傍にいてくれるし……。』
こうして手術の前後に自分の親が付き添ってくれるのはそう多くない。
大抵はひとり異国の地で寂しく痛みに耐えているのだと思うと知香は自分の置かれている立場に感謝した。
『おはようございます。ご機嫌、如何ですか?』
綾音が部屋を訪れた。
今日、綾音はずっと一緒にいる訳ではなく、付き添い兼通訳はアイが担当する。
『まだ寝ています。』
『……起きたよ……おはよう。』
智美は知香たちの話し声で目が覚めた様だ。
『ごめんね、起こしちゃった?』
『ううん、また少し痛くなって……。』
看護師を呼んだが、まだ痛み止めはもう少し時間を空けないと入れられないみたいである。
『じゃあ行ってくるね。』
『……頑張ってね……つっ!』
智美は痛みに耐えながら知香を送り出した。
知香は綾音から検査着を渡され、着替えた。
『お母さん、行ってきます。』
『待っているからね。行ってらっしゃい。』
由美子の笑顔を見て、知香は歩き始めた。




