手術前夜の恐怖
メークローン駅は直ぐ隣に市場があり、線路の上も実質的に市場の一部である。
アイの祖父母はこの市場の露店で野菜を売っていた。
アイは、タイ語で祖父母に知香と由美子を紹介すると、歓迎している様で喜んだ表情でなにか言う。
『わざわざありがとうだって。』
祖父がアイの母・祥子の話をし始め、アイが同時通訳する。
『いつもの様に列車が入って来て、店を出しているとじーっと私たちの事を線路の向こう側からみている日本人の女の子がいてね、列車の発車時刻が来て合図が鳴ったら一緒に片付けを手伝い始めたんだ。でもその列車がその日の最終で、列車が行った後もこっちの方を見てて、店終いを始めようとしたらまた手伝い始めて。そのまま家まで来て泊まらせてくれって言ってきたんだ。』
『アイちゃんのお母さん、言葉分からないって言ってなかったっけ?』
『バッグパックから会話帳を出して身体を使って懸命に伝えようとしていたな。』
所謂ボディランゲージである。
それから毎日いろいろ家の手伝いをしてくれて……全然お金がないと分かったのは1週間くらいたってからだった。』
『それって最初から計画的だったって事ですか?』
アイはその都度言葉を訳していたが、自分の母親の恥ずかしい部分だけに疲れてきた。
『最初は2、3日泊まって事情を話そうとしたら次男……アイのお父さんに惚れてしまい、言いそびれてしまった様だ。そうしたら直ぐに子どもが出来て。相思相愛だったんだ。』
そう言い終わると、アイが限界に達した。
祖父の話は何度も聞いていたが、それをわざわざ知香たちに自分の口から伝えるなんて恥ずかしいのも程がある。
『アイ!もう良いよ。お母さんから聞いた話と大体一緒だから。』
知香の言葉を祖父に伝え、祖父が納得した。
それから直ぐに合図が鳴った。
再び列車がこの場所を通るという合図で、回りの人たちが一斉に線路上の品物を片付け始める。
列車が警笛を鳴らして目の前を通るが、テントや傘にちゃんとすれすれにぶつからないで走り抜けるから不思議だ。
列車が走り抜けるとまた何事もなかった様に線路上が品物で埋め尽くされた。
『見事なもんだね。』
今日はもう一回列車が到着してそれで終わりらしく、祖母の案内で先にアイの生家に通された。
アイの家には祖父母の他、アイの父の兄と弟の夫婦とその子どもが住んでいるという。
アイの兄夫婦の子どもは二人とも成人していて、そのうちの弟がニューハーフとしてパタヤで働いているとの事だ。
一方弟夫婦の子どもたちはまだ小学生らしく、アイが持ってきたおみやげに群がっている。
『賑やかだね。』
『うちはみんな明るくて優しいから大好き。だけど狭い。日本行く時、迷ったけど仕方なかった。でも日本来てともち出会えて良かった。』
アイは本当に優しい子だ。
たぶん日本に来た最初の頃はとても寂しかっただろう。
知香が明日手術で、智美の事もあるため早めに食事を作ってもらい、ごちそうになった。
食事はスズキをライムで蒸したものと野菜たっぷりのスープが出された。
アイの母・祥子もこうして腹を満たしたのだろう。
帰りは伯父さんの運転する車で送ってもらい、サービスアパートに戻った時は時計は8時を過ぎていた。
『手術、無事終わったかな?』
まだ智美は戻ってきてはいない。
知香自身、翌朝から食事は摂れないためコンビニで買ってきたお菓子を食べながら智美を待っていると、ストレッチャーに乗った智美が帰ってきた。
智美の表情は凄く辛そうでやつれていて、手には点滴が付けられている。
『みーちゃん!』
『ううっ。』
智美は知香の声に反応するが、辛くて声にならない。
『ともは明日手術なんだからもう寝なさい。お母さんがみーちゃんに付き添うから。』
逆に続けて明日も知香に付き添う事になる由美子の方が心配だ。
『お母さん、大丈夫?』
『人の事を心配するなら早く寝なさい。』
こういうスイッチが入ると母は突然強く頼もしくなる。
『分かりました。お休みなさい。』
電気を消して寝ようとするが知香は寝付けなかった。
智美に声すら掛けられない、明日は我が身である。
心臓の音がばくばく聞こえて、恐怖で妙な汗が出る。
ダメだと思い、明かりを点け、冷蔵庫に入れておいたジュースを飲むと、冷たく甘い味が気分を和らげた。
時計はまだ11時半だ。
(部屋、行ってみようかな。)
由美子に怒られるのを覚悟して智美の部屋に向かう。
『お母さん……、ごめんなさい。』
『寝られないの?』
由美子は知香の気持ちを分かって優しく聞いた。
『みーちゃんね、さっきからちーちゃんに会いたいって。』
ストレッチャーから部屋のベッドに移された智美は相変わらず辛そうな顔をしている。
『みーちゃん。』
『……ちー……ちゃん……ごめん……。こんな姿見せて……。』
『痛いのに無理しなくて良いんだよ。』
『明日……ちーちゃん大変だから……。』
『大丈夫だよ。私も頑張るから。みーちゃんも頑張ったね。』
智美は涙を流している。
『痛いの?』
『今は少し大丈夫……。さっきモルヒネ入れてもらったから。ちーちゃんももう寝なよ……。』
自分が苦しいのに相手を気遣う優しい友人に感謝して、部屋に戻る事にした。
『お休みなさい。』
ちょうど時計は0時を過ぎていた。
いよいよ知香の手術の日がやって来たのである。




