メークローンの家族
翌朝、知香たちは近くのコンビニで朝食を買った。
『これから毎日外食かコンビニっていうのも辛いわね。』
サービスアパートにキッチンは付いているが、本格的な料理を作れる設備ではなくせいぜい電子レンジで温めたりお湯を沸かすくらいしか出来ない。
娘の知香は明日の手術から暫く食事もまともに摂れなくなる事を考えればとは頭で分かっていても、普段の様に自分で食事を作って食べる事が出来ないのは主婦の由美子にとっては苦痛だった。
バンコクは日系のコンビニが多く、日本人ビジネスマンや観光客も訪れるためおにぎりなど日本食もたくさん売っている。
『どうせ水道の水は使えないんだから割り切るしかないよ。』
思わず水道水を料理に使ってしまいそうだが、水道水は飲む事は出来ないのだ。
『こんな生活めったに出来ないから仕方ないか。』
一方では先に手術をする智美はもう絶食が始まっている。
『気分はどう?』
『夜中に食べたからまだ大丈夫だけど、食べちゃダメって言われると食べたくなっちゃう。』
『気持ちは分かるけど我慢ね。』
午前中は検査などがあり、手術は午後になる。
『じゃあ行って来るね。』
綾音が迎えに来て智美は立ち上がった。
『頑張って。私も明日行くから。』
『なにあなたたち、特攻隊に行く兵隊さんみたいよ。死にに行くんじゃないんだから。あなたたちはこれから新しい人生が待ってるの。ちょっとくらい痛いとか我慢しなさい。』
由美子に言われ、しんみりしていた二人は明るくなった。
『すみません、お母さん。行ってきます。』
由美子は智美からお母さんと呼ばれ、嬉しさを隠せない。
『行ってらっしゃい、みーちゃん。……中澤さん、娘を宜しくお願いします。』
『お任せ下さい。さ、智美ちゃん、行きましょう。』
綾音に付き添われて智美は部屋を後にした。
『さ、早くアイちゃんの実家に行きましょ。明日はともちゃんも手術だし、みーちゃんが部屋に戻る前には帰らないとね。』
知香たちはアイの先導でスカイトレインに乗る。
『キップってどう買うの?』
自動券売機はあるが日本とは勝手が違う。
『降りる駅によって金額違うから。44のボタンを押して。』
スカイトレインは乗る駅の数で料金が決まるシステムだが8駅以上はみんな同じ値段で最大44バーツらしい。
ボタンを押してお金を入れるとカード型のきっぷが出てきた。
『これがキップ?』
知香の世代はテレホンカードとかは知らないし、電車に乗るのも今のICカード以前にプリペイドカードがあった事も知らないのだ。
スカイトレインに乗り、一度乗り換えてWongwian Yaiという駅で降りる。
『……ウォンウィエンヤイ?』
『ともち、よく読めたね。』
アイに感心されたが、なんとか英語の表記で駅名が読めた。
『ここで乗り換え。』
乗り換え駅といっても昔からあるローカル駅と近年出来た地下鉄駅とはだいぶ離れていてかなり歩く。
アイが案内した先は、タイの首都バンコクとは思えない小さななターミナル駅だった。
『お祖父ちゃんの喜びそうな駅だね。』
知香の祖父で由美子の父・勝人は鉄道、それもSLやローカル鉄道が好きで知香も小さい頃によく連れ回されたのを思い出す。
『駅のホームなのにお店出しているよ。』
知香たちが通学するO宮駅の様に駅ナカ施設などというものではなく、ホームに露店が並んでいるのだ。
知香はカメラを出して駅の風景や入って来た車両を撮影する。
車両は4両編成のディーゼルカーだ。
座席は8割くらい埋まっていて、日本から来た鉄道ファンらしき人もいる。
車両には冷房がなく、窓を開けると蒸し暑いながら風が心地いい。
『まさに南国だね。』
ローカル列車に揺られ、約1時間で着いた駅はまたホーム全体が市場になっていた。
『ここがアイの実家?』
『まだだよ。』
一体どこまで行くのだろう?
信頼するアイの案内とはいえ、少し不安になった。
市場では魚も売っていて少し臭うが活気に溢れている。
『ここから船乗るよ。』
『船?』
歩いて行くと立派な構えの船着き場に着き、ひとり3バーツづつを払う。
『へぇー、これに乗るんだ。』
立派な船着き場とは対照的に台風でも来たら沈んでしまいそうな木造の渡し船が待っていて、バイクもライダーが乗ったまま乗り込んで来て、スリルはあるがたった3分で向こう岸に到着した。
船を降り、再びディーゼルカーに乗り込むと景色は沼や塩田が広がる。
『ともち、もう着くよ。』
車窓を眺めるのに少し飽き、うとうとしているとアイに起こされ、列車のスピードが落ちるとしきりに警笛を鳴らし始めた。
一緒に乗っていた日本人の鉄道ファンたちが運転席の横からカメラを構えている。
『なにがあるの?』
そう言って窓から少し身を乗り出すと、線路のすぐ脇にに人や露店の商品が並んでいた。
『え?ぶつからないの?』
列車はメークローンという終着駅に到着し、知香たちが駅に降りるとさっき通った線路の上に露店の商品が置かれている。
『なにこれ?これじゃ列車通れないよ。』
『大丈夫。列車が走る時はどけるから。』
日本では絶対にあり得ない光景に知香も由美子も驚いた。
『あそこにいるの、私のお祖父ちゃん、お婆ちゃん。』
線路際で露店を出している老夫婦を指差し、アイは老夫婦の元へ向かった。
アイの祖父母は、この線路の市場で露店商を営んでいるのである。




