幼児退行
勝子と知香が個室に居る紀子の元に向かうと、紀子は知香たちの方をみて右の人差し指を咥えてベッドの上に座っていた。
『のりちゃん……。』
勝子が紀子には近付くと、紀子は不安そうに泣き出した。
その泣き方はまだ小学生にもなっていない少女の様だった。
知香はベッドの上の紀子を抱き締めた。
『……お姉ちゃん…、誰?』
いつもの紀子とは違う、アニメの声優が子どもの役をする時の高い声だった。
『これって……。』
担当の医師が勝子に説明をする。
『記憶喪失のひとつだと考えて下さい。紀子さんは、まだ親の期待に応えなければと思う前の幼児期までしか記憶が無いみたいです。』
『記憶喪失?!……治るんでしょうか?』
『事故のショックによる一時的なものかもしれませんがまだ分かりません。出来るだけ紀子さんが安心出来る環境にしてあげた方が良いと思います。』
『そんな……。』
勝子は崩れ落ちた。
『……おばさん……。』
なんとか記憶を取り戻す事は出来ないだろうか。
『高野さん。』
美子が声を掛けた。
『は、はい?』
『私、二年B組の原田の母でここに居る知香さんはうちの美久と仲が良いのでよく存じているのですが、知香さんは以前不慮の事故で人間不信になった子の心を開いたんですよ。』
『おばさん!大げさです。』
『うちの美久だってケンカ別れした友だちと仲直りさせたり、話を聞いていると、知香さんは人を惹き付ける力がある様なんです。』
麗の件も美久と雪菜の件も事実だがそこまで力があるなんて思ってはいない。
『良かったら、知香さんに協力して貰っては如何でしょうか?』
記憶が戻った後紀子がどう思うか分からないけれど、掛け違えたボタンを戻すには良い機会なのかもしれない。
『私からもお願いします!』
勝子は知香の方を見て微笑んだ。
『ありがとうございます。あなたにあれだけ迷惑を掛けてしまった娘の為にそう言ってくれるなんて、なんてお礼を言えば良いのか……。本当に申し訳ございません。』
『ママ~、おしっこ~!』
会話に加われない紀子が駄々をこね始めた。
『お礼なら治ってから言って下さい。今は紀子さんを治す為に頑張りましょう。』
知香はそう言って紀子のところに行った。
『ごめんね~、のりちゃん。気持ち悪いかな?ちょっとお寝んねしようね。』
知香は素早く紀子を仰向けに寝かせ、おむつを交換した。
『早いわね。どこで覚えたの?』
『実は麗さんのおむつ交換も何回かした事があるんです。』
百戦錬磨の看護師である美子も驚いた。
『お姉ちゃん……?』
『あ、ごめん、まだ名前言ってなかったよね。私、知香。』
『知香……お姉ちゃん……?』
『うん、宜しくね、のりちゃん。』
幼児の紀子の心は掴んだ様だ。
『看護師長権限で知香さんは付き添い扱いとして面会時間以外の入室も許可します。』
『知香さん、紀子を宜しくお願いします。』
『これから毎日来るからね、のりちゃん。』
未だ選挙で戦っている相手でもあり複雑な気分だが、知香は紀子の回復の為に一肌脱ごうと思った。
週が明け、登校して選挙運動に加わる知香だったが、そこには紀子は居ない。
『高野さん、大丈夫だったんですか?』
しおりも心配している。
『おはようございます。頑張って下さい。』
先週まで紀子に傾き掛けた生徒たちの心が一気に知香へ流れてきた様だが知香は複雑な想いで笑顔を返す。
『立候補を取り消す?今さら何を言ってるんだ。』
学年主任の黒木に叱られたが当然の事だ。
『週末には生徒会長を決めなきゃいけないんだ。それに高野がああなった以上、お前以外に誰が居るんだ?』
紀子は自分で嫌がらせをしたと暴露した事でほぼ知香の当選は確実になっているし、もし紀子が当選したとしても退院の目処は立っていない。
『白杉の気持ちは分かるが、ここは高野の為にも生徒会長になって頑張ってくれないか?』
『……はい、分かりました。』
そうは言ったものの、知香は自信が無かった。
結果的にかもしれないが、紀子を傷付けてしまったことに自責の念があり、会長なんて務まらない気がする。
昼休み、萌絵たちと給食を食べる知香だったが、心ここにあらずという様子で箸が進まなかった。
『……知香……。』
さすがの萌絵も優里花も知香に声を掛けられないでいる。
校内放送の今日のゲストはしおりだった。
『書記のお仕事もかなり大変だと伺っておりますが……。』
『はい。私、今書記をされている二年の白杉さんをとても尊敬しているんです。白杉さんの回りっていつも多くの人が集まっているし仕事もたくさんあるのにいつも笑顔なんです。』
(こんな顔しおりちゃんには見せられないなぁ。)
『そうだよ、彼女に合わす顔無いんじゃない?』
優里花はここぞとばかり知香に言い放つ。
『そうだよ、知香のそんな顔は嫌い。』
萌絵もいつになくはっきり知香を励ました。
『分かったよ、頑張る。』
人に支えられているから支える事も出来るんだ。
知香はここまでそうしてやって来た自負がある。
支えられた分頑張って支えていこうと改めて思うのであった。