第278話 「きらいきらい」
「ぶるぶるぶる」
「冷たい!」
水の滴る顔をトコが振り回し、脱衣所に水滴がまき散る。
バスタオルを被せるのが一歩遅かった。
「うわぁ目から鱗!
またやっちゃった!」
トコが慌てて壁や床に散った水滴を拭きとる。
「なんかやっちゃうんだよね。
困った困った」
トコの頭を丁寧に拭いてやると、フカフカの毛並みが戻ってくる。
「ありがとー。
リッカの翼も拭いたげる!」
「うん、ありがと」
背中を向けて小さく折りたたんでいた翼を広げる。
「……あれ?
全然濡れてないじゃん。なんで?」
「そうなの?
た、畳んでたからかな?」
手を回して触れてみると、確かにいつも通りの柔らかい翼があった。
これはもしかすると、女神だとか死神だとかそういうのが関係しているかもしれない。
ふと頭に手を伸ばしてみると、髪の毛も既に乾いていた。
慌ててバスタオルで頭を拭くフリをする。
「じゃあ髪を……ってもう拭いちゃったかぁ」
「あへへ。ごめんね、ごめんね?」
脱衣所から出ると、とても良い香りに溢れていた。
夕飯がカレーだったことを思い出す。
隣を歩くトコの尻尾が私の膝にぶつかるほど振られていた。
「上がったよー!」
食卓にはカレーライスを盛った食器をヴァルトが置いているところだった。
「丁度ね。
さぁ席について」
トコの隣に腰を下ろし、目の前のカレーを見下ろす。
ゴロゴロとしたお肉が入っていた。きっとこれが鹿肉なのだろう。
「トコ、食事中は立つんじゃないぞ」
「分かってる。わかってるよー!」
「はい、静かにー」
セーカの号令で静かになる。
この世界式のいただきますの始まりだ。
見よう見まねで膝の上に手を置いて目を瞑る。
目の前で殺され、解体され、皿の上に乗る。
魚なら前の世界で見た光景だ。
けど、鹿となればまた違う感情が湧いてくる。
同じ生き物なのに、どうしてこんなに思うことがあるのだろう。
私は命に価値を付けている……?
「はい、お終い」
セーカの声と共にトコがカレーに飛び込む勢いで食べ始めた。
「しっかり噛んで食べるのよ」
「むが、うん……うみゃー」
まずはお肉から食べてみよう。
スプーンの上に乗っかったそれは分厚く大きい。
「背肉の部分だ。
一番美味いぞ」
最近はよくわからない肉ばかり食べてたし、しかもおいしい部分と言われたら胸が躍る。
口を大きく開けて鹿肉を食べた。
口に入れてからまずは驚いた。
やっぱり、牛や豚とは違う独特の香りがある。
多少癖があるが、悪くない。
予想に反して柔らかかった鹿肉を噛めば噛むほど肉汁があふれ出してくる。
それでいてしつこくない。脂身が少ないのだろう。
「美味しい!」
「よかった。
あまり鹿のお肉は慣れてないかと思ったけど」
「初めて食べましたけど、もーめちゃんこ美味しいです!」
カレーと一緒というのもまた評価が高い。
いつもの謎肉はただ焼いてるだけだったりと、素材の味が分かりすぎる。
鹿もただ焼いただけで香りが強かったら食べにくかったかもしれない。
トコに負けない勢いでカレーを頬張る。
全体に鹿の香りが広がり、これがまた良い出汁になっている。
あっという間に完食してスプーンを置いた。
「お代わりは? まだたくさんあるわ」
「えへへ、いただきます」
「俺が行こう」
ヴァルトが席を立ち、台所へ向かう。
食卓に戻ってくると、私のカレーのほかにもう一つお皿を持っていた。
焼かれた薄いお肉が二切れ乗っている。
「肝臓だ。
若い鹿だからクセも少なくて食べやすいはずだ」
猛烈な勢いでカレーを食べていたトコの動きが止まる。
「わた、私は要らない!」
「リッカのだ」
スプーンの上に肝臓を乗せる。
背肉とは違い、少し堅そうだ。
また違った匂いもする。
まぁ背肉があんなに美味しいんだし、肝臓もきっと美味しいだろう。
そう思い、お肉を口の中に入れた。
口に入れる瞬間、ドン引きしたトコと目が合う。
一噛みして動きが止まった。
もっさりとした触感、口の中に広がる鉄臭さ。
か、噛めない。
無理をしてそのまま飲み込む。
「こ、これ……レバーじゃないですか」
「ればー? 何のことだ」
レバーという言葉は通じないようだ。
それに、私も肝臓=レバーだということを知らなかった。
「こ、これちょっと……口に……」
「ほら! 言ったじゃん!
人生失敗するって! 目から鱗!」
トコがなぜか勝ち誇った表情で立ち上がる。
「立つな。トコ、立つな」
「あらあら、リッカも肝臓は食べられないのねぇ。
栄養満点で美味しいのに」
「ごめんなさい……」
セーカが残りの一切れを美味しそうに食べる。
数々のゲテモノを口にしてきたが、レバーだけは本当に無理だ。
多分、小さいころに食べて余程嫌だったのだろう。
あと50年くらいしたらもう一度チャレンジしてみよう。
舌が大人になっているかもしれない。
そんなことを考えながらお代わりしたカレーで口直しをした。




