9月3日 土曜日
9月3日 土曜日
恵の会社の近くにあるスーパーの入口で待ち合わせをした。
お昼過ぎ。待ち合わせの15分前に歩いて行くと、恵が向こうから歩いて来ているのに気付いた。
自然と早足になる。それに気付いたように恵も早足で近づいてくる。僕が小走りになると、恵も小走りになった。
入口に辿りつく寸前で僕はわざと歩いた。手加減したのだ。
「こんにちは」
「こんにちは。待った?」
呼吸を整えるのに少々時間が掛かる。
「待った。敦司君遅い!」
「恵ちゃん。この前、丁度の時間に来た方が勝ちって言ったよねえ」
はあ、はあ、肩で息をする。200mは全力疾走したかも知れない。
「え~覚えてないなあ~」
あらぬ方向を向いてそうとぼける。まだまだルールを作らないといけないようだ。
あーしんど。
「その服、やっぱり似合ってるね」
「ありがとう。ちょっと派手すぎない?」
「全然。カッコいいよ」
自画自賛の様な褒め言葉を言うと、恵が手を繋いできだ。
店内は涼しくて汗が引く。気持ち良かった。
打ち合わせ通りと言う分けでもないが、僕がカゴを持って恵が入れていく。
「飲み物、何がいい?」
「ううーん、そうだなあ」
お茶か、水か。恵の部屋に一体何があるか分からない。やかんがあればお茶を沸かせられるが、冷蔵庫が一杯なら冷やせないかも知れない。
「家にやかんはあるの?」
プッっと恵が吹き出した。
「あるよ~。料理はしないけど、鍋とかフライパンとか一人暮らしに必要な物は最低限そろってるよ」
「そっか、そうだよな。じゃあ……」
缶ビールか。ワインか。でも飲み過ぎて寝てしまったらいけない。ほどほどにしなくては。
「真剣に選ぶのね」
「え、ああ、ええっと、恵もビール飲む?」
慌てて切り返す。
「……うん。じゃあビール一本とカクテルにしようかなあ」
そう言ってモルツとソルティードッグをカゴに入れた。
「じゃあ、僕はビール2本とカンパリオレンジにしよう」
「それって美味しいの?」
自信満々で答える。
「実は知らない。そんなにカクテル詳しくないんだけど、色々飲んでみようかなって」
「ふーん」
そう言うと、恵もソルティードッグを返して違う物を取ってきた。
「じゃあ私、これ試してみよおっと」
「ソウルマッコリ?」
確かに飲んだ事ない。強そうなお酒かも知れない。
名前からして何か凄そうな気がする。
黒コショウとパスタをカゴに入れた時だった。
「明日の朝はトーストとコーヒでいいかなあ」
そう言いながらカゴに食パンとアイスコーヒーのペットボトルを入れた。
コーヒーの香りと焼きたてのトーストのいい香りが想像できる。
「ああ、いいねえ。――えっ?」
僕の驚いた顔を見て気が付いたように恵もハッとする。
「あっ――!」
恵の顔がすっと赤くなるのを感じた。僕も赤くなっていくのが分かる。
七分丈のズボンのポケットからスマホを手早く取り出すと、顔の前に持っていく。
泊まるなんて一言も言って無かった。
でもお互い泊まると思い込んでいた。その事に気が付いたのだ。
「あ、あの」
恵は声に出さずに顔を半分隠した状態で目をパチパチさせて頷く。
「今日は、泊まっても、いいのかな」
恵は大きく深呼吸をした。
「うん。いいよ。大丈夫だよ」
全身の血流が早まった。
恵の大丈夫って言葉を聞いて……。
買い物を済ませると、恵の寮へと向かった。
食材は軽かったが、飲み物の袋はそこそこ重かった。両手に買い物袋を下げて歩いていた。
「そう言えば、夫婦とか若奥様って言われなかったね」
「ううう、残念。カップルを超えられなかった」
二人で買い物する姿が初々しいから仕方ないか。
「もっと何回も一緒に買い物をして、それなりにこなれてきたら呼ばれるかも知れないな」
「うん。だから買い物はずっと一緒に行こうね」
そう言って荷物を持つ手に腕を絡めてくる。
「ああ、あー体重掛けると重いって!」
恵は両手でしっかり僕の腕を握り締める。
「あー、女の子に重いなんて言ったらいけないよ。えい」
さらに腕に体重をかけてくる。マジで重い。袋を落っことしそうになる。
「あはは、敦司が全部持つなんて言うからいけないんだよ」
「反省してます。今は半分持って欲しいかも」
軽い方の袋を渡した。
自動ドアを通過し、エレベーターを3階で降りる。恵の部屋は318号室だった。
鍵を差し込み、部屋の中に入るとエアコンが点けてあり、外の暑さから解放してくれた。
初めて入る女子の部屋。
男の部屋特有の黒いコンポや散らばった配線、ゲーム機などは一切ない。
小さめのテレビとテーブル。木目調の化粧台とベッド。花柄の布団カバー。
大きな窓のレースカーテンから光が部屋全体を眩しく輝かせて見せる。
恵と同じ香りが部屋中に満ち溢れている。
「ゆっくりしてて」
「うん」
小さなテーブルの横に座ってベッドにもたれる。ベッドからは新品特有の匂いもした。
正座したい気分だ。僕の顔は赤くなっていないか気になる。
どちらかと言えばアウェーだ。
女子の部屋は居心地いいとは言えなかった。ドキドキが治まらない。
一つだけ異質と感じたのはパソコンだった。
黒と銀色の大きな四角い物体が女子の部屋をキャリアウーマンの部屋へと変えている。
うちの会社で機器制御させる為に使うデスクトップのタワーモデルと似ている。
可愛いレースのカバーで身を隠しているが、その威喝さは隠しきれていない。
「このパソコンでいつも仕事をしてるの?」
「うん。家でデーターやプログラムの入力くらいなら出来るから」
買ってきた物を冷蔵庫に片付け終えた恵が、ティーセットを小さな木の丸いお盆に載せて来た。テーブルを挟んで二人は座る。
「これ、百万円くらいするんじゃないの」
「そんなにしないよ。ミラーリング機能はついてるけど安かったよ。二十万円くらいかな」
「ふーん」
恐らく本体だけの値段だろう。
「私の商売道具だからね。それなりのが要るのよ」
言いながらティーポットから小さなカップに紅茶を注ぐと、湯気と共にいい香りが立ち上る。
「お砂糖は」
「ん、ああ、いいよ。お茶とかコーヒに砂糖は入れないんだ」
「ふーん、そうなの。私は甘党」
四角い砂糖を一つ二つとカップに入れていく。
「会社の休憩室でコーヒーを飲むんだけど。あ、もちろんインスタント。それに砂糖入れていたら、一日にかなりの量飲んでるのに気付いちゃって。ダイエットもしないといけないから入れないんだ」
「でも美味しいの?」
「なれるまでは苦いだけの泥水かと思ったよ。でも今では普通に飲めるなあ」
大人ぶっているだけとは言わない。
紅茶を口に運ぶ。渋みと香とが口の中に広がりホッと一息つける。
夕食は僕が腕を振るった。
エプロンを着けた恵はどこから見ても若奥様で、包丁を握る手が震えを覚える。
「まずは、材料を切ってフライパンに入れておきます」
「ほーほー。火を点ける前に入れてしまっていいのでしょうか?」
チラ見する。
料理は出来ないって言っておいて実はスゴ腕なのか、もしくは予習してたのか。
「ニンニクは冷えた油からゆっくり温めることで香と味が油に移ります。これ言い訳じゃなくて本当の話」
ニンニクと鷹の爪だけが入ったフライパンにオリーブオイルをドボドボ注ぐ。
「ええ! これではニンニクの天ぷらになってしまうと思われますが?」
料理番組かと言いたくなる。こんなアシスタントが居たらめんどくさいだろうけど。
「お店のパスタとかも、ええ! って言うほどオイルが入ってるでしょ」
塩と黒コショウも少し加えて火を付け、弱火に調整する。
「これで殆どできあがり。後は茹でたパスタを加えるだけ。簡単だし失敗しない。誰でも出来る」
スマホのキッチンタイマーで麺の茹で上がり時間を確認しながら包丁とまな板を洗う。
電子音が時間を告げると、鍋から麺を火の点いたままのフライパンへと移した。
「ええっと、ポイントはここで湯切りし過ぎないこと! 麺に水分が残ってないと折角のプリプリ感が損なわれてしまいます」
料理番組の先生気分だ。
「ああそうなんですか」
さっさっと塩と黒コショウを全体に振りかけ、フライパンの中で混ぜ合わせ火を消した。
「はい、これで簡単ぺぺロンチーノの出来上がりです」
カチャっと恵がスマホで写真を撮った。
「敦司君すごいね。私には到底真似できないわ」
「はは、は……。褒められているのかお世辞を言われているのかよく分からないんだけど」
恵は大きな瞳で満面の笑みを浮かべる。
「だって、ナベとフライパンに適当に火を点けたと思ったけど、出来上がる時間がぴったりだったじゃない。それに作りながら片付けもしてるし」
「何回も作ってれば覚えちゃうって。さ、食べよ」
小さなお皿二つをテーブルに並べ、その間にフライパンを置く。フライパンから取り分けて食べるのだ。
「乾杯!」
缶ビールをグラスに移し替えて重ねると、キーンと高い音が響き渡った。
恵がパスタを口に入れるのを恐る恐る見守る。
「美味しい! この間のお店のより美味しいよ」
ホッとした。
「そんな事ないよ」
心の底でガッツポーズをしながら自分で作ったパスタを食べたのだが、
「う、うまい! なんだこりゃ?」
自画自賛の言葉が口から飛び出てしまった。
口にパスタを頬張ったまま恵を見てしまった。僕が見ていない隙に何か隠し味でも入れたんじゃないだろうか。
アパートで作るパスタがこんな美味しかった試しはない。
何も言わずにパスタを食べる恵を見ていると、本当に気に入ってくれたんだと思う。
「んん~ビールに合う。最高」
――ようやく気付いた。
アパートとここで違う所を探せば簡単だった。
隠し味が目の前に座っているではないか。
今日まで空腹こそが最大の隠し味と信じていたのだが、一緒に食べる人はそれ以上に味を左右する。
大好きな人と食べてこそ食事は最大の美味しさを発揮するのだろう。
「ちょっと恵、食べすぎじゃない?」
「だって、美味しいんだもん」
これは手を休めていると半分以上持っていかれそうだ。急いで自分の皿にパスタを取るのだった。
「あ、敦司取り過ぎ! ずるい」
「早い者勝ち」
ゆっくり食べようと思っていても取り分けだと取り合いになってしまうんだなあ。
次からは別々の皿に盛りつけようか……いや、いいか。
うん、この方がいいな。
「先にお風呂に入って」
「あ、ああ」
できるだけ平静を保って返事をしたつもりだが、どう聞こえていただろうか。
夕食を食べ終わり、二人でテレビを見てダラダラ時間だけが経っていた。
「パジャマもあるから」
お揃いの青色とピンクのパジャマが洗面台の所に奇麗に畳まれて置かれている。
一度洗濯してアイロンがされているが、その前は袋に入った新品だったのが分かる。
下着だけは持参していた。それをパジャマの上に置いて風呂に入った。
高そうなシャンプーとリンス。洗顔フォームに石鹸。良く分からないオイルの様な物が入ったボトル。
男性用ではないピンク色をした髭剃り。それらを見ていて軽く頭を振った。
そんな事に構ってないで体を洗わなければ。
ボディースポンジを手に取った。
――仲橋恵が毎日使っているボディースポンジ……。
意識せずに使える男子がこの世の何処にいようか。
使わないでおこうか……いやそれは駄目だ。今日も汗をビッショリかいた。走った時にもかいた。夕食を作る時にもかいた。そして今も額を伝い落ちる。
大きく深呼吸するとボディースポンジを泡立てて体を洗った。
湯船はアパートのそれの倍はあった。
浸かると湯気とともに湯船からお湯が大量にこぼれる。
いつもは膝下程度のお湯にしか浸からないのだが、今日は肩までどっぷりと浸かった。
ゆっくり浸かっていると、流れ出る汗で湯を汚してしまうかと思い、直ぐに上がって体を拭いた。
洗面台のパジャマを着て気付いた。
「あれ、これサイズ小さいなあ」
恵のいるリビングから直接洗面台やお風呂は見えない。
「そんな事ないよ。……ちゃんとL買ったよ」
とだけ聞こえてこちらに確かめに来ない。
隣に置かれているピンクのパジャマのサイズを確認して真相に気付いた。
青色のパジャマががM。ピンクのパジャマがLだった……。
洗面台の天井を仰ぎ見た。
このピンクのパジャマを着せようと企んでいた恵の顔が目に浮かぶ。
七分丈のような青色のパジャマを着たまま出ていってやろうかとも思ったが、期待を裏切ってしまうのも悪い。脱いで畳み直すと、ピンクのパジャマに腕を通した。
洗面台の鏡でピンクのパジャマ姿を確認する。
恥しい……が、まあいいか。他の誰かが見ると言う事もない。
凄く喜ばれた。
笑いを噛み殺しているのがヒシヒシと伝わってくる。
「敦司君ピンク似合う~」
恵の悪戯成功って顔はこんな顔するんだなあ。覚えておこう。
「……喜んで頂けて光栄です」
恵の手にはスマホがあり、僕のスマホのすぐ横に置いて立ち上がった。
仲良く並んで置いてあるそれ――が、これからの僕達を演じているようで気恥ずかしかった。
恵がお風呂に入っている間、置いてあった単行本を読んでいた。
女子の部屋には当然女子の読む漫画が置いてあり、それは男兄弟、男子寮では無縁の本だった。
登場人物の男は細みのイケメンばかり。敵役もイケメン。
少年誌に出てくるヒロインに比べると、女の子の胸はほとんど無いに等しい。
そう言えば――頭で想像しようとした事を振り払った。
恵のお風呂は長かった。長く感じただけかも知れない。
地球が太陽の周りを何周かするのではないかと思えるほどだった。
「あーいいお湯だった。実はいつもシャワーで済ませているのよ」
それほど長くない髪をタオルで包み、涼しげな青色のパジャマが湯上りを演出している。
化粧台の前に座ると、ペチペチと頬やおでこに化粧水をつける。
鏡越しにそれをじっと見守っていると、目が合った。
恵のすっぴんは化粧をしている時とあまり変わらなかった。どちらかといえば、化粧をしていない時の方が優しい感じがして落ち着く。
ほっぺがぷうっと膨らでいく。それでも目を離さずにいると鏡越しでは無く振り向いて、
「あんまりジロジロ見ないで。十代の時と違って色々気になってくる年頃なんだから」
照明の照度を下げられてしまった。
ドライヤーで髪を乾かす。髪は短いとはいえ、僕の三倍以上の時間はかかった。
「じゃあ、寝ますか」
「あ、ああ」
「……」
「……」
ベッドに入り肩を並べて横になると、無言の時間が続いた。
外では蜩の声が聞こえ始めている。
どれだけ時間が経っただろう。恵が口を開いた。
「敦司ってさあ、ロボットとか好き?」
いきなり脈絡のない質問に戸惑った。
「え、ああ。好きだよ。ガンプラとかマクロスとか」
ちょっと恵が笑った気がした。
「そういうのじゃなくて、実際に動いているロボット。携帯ショップや空港とかにも置いてあるやつ」
「ああ。あの喋りかけてくるロボットか」
正直、あまり好きにはなれなかった……。
大勢の人前で割と突っ込んだ内容を問い掛けられ、逃げ出したくてもじっと見てきたのを思い出す。
『お兄さん彼女いますか』
そう聞かれて答えるのに戸惑った。
他の客が大勢見ていたからだ。
ロボットに答える事に意味があるのかも分からなかった。
「ちょっと苦手かも」
彼女の仕事を否定してしまうようで答えるのを躊躇う。
「ふーん。そうなんだ。最近の男の子ってさあ、ロボットみたいな女の子が好きなんだと思ってた」
寝転がったままこちらを向く。僕も恵の方を向いて向い合せになる。
「肉食系女子よりも草食系女子が好き? 女感が強い子より人形の様に思い通りになる女の子が好き?」
これは一体何の質問なんだろう。勘ぐってしまう。
「肉食系って聞くと何か怖いイメージがあるけど、草食系って言うと……何だろうなあ、好奇心とかに欠けているように感じるなあ。もっと雑食系とか肉好きのベジダリアンとか色々種類があるんだよ。きっと」
肉好きのベジタリアンと言った時、恵はキョトンとした顔を見せた。
「あと、人形のみたいな女の子が好きっていうのは間違ってないかも。ロボットの様に歌うアイドルユニットや、CG映像の2Dが好きな男子は大勢いるからなあ」
恵に会うまでは僕もそうだったかも知れない。
「じゃあ、肉好きのベジタリアン系で、人形の様な歌える女の子ロボットなら敦司も好きになるんだ」
「はい?」
恵の言うロボットを想像するが、真っ白い丸い顔にカメラ搭載の目が2つ。ぎこちない動きでマイクを握りステージで踊りながら歌う。声はボーカロイド。
ありえないかも知れない。
いや、無しだなそれは。
「携帯ショップとか置いてあるロボットはもう汎用品。最先端のロボットはもう人に気付かれないほど進んでいるよ」
恵は起き上がるとベッドの上で女の子座りをして、ゆっくりとパジャマの前のボタンを上から外し始めた。
パジャマの隙間から奇麗な肌が姿を見せる。
大きく喉を鳴らして唾を飲み込んだ。
しかし……。
「今まで隠していて御免なさい。実は私……ロボットでお腹にバッテリーユニットが搭載されているの」
――なんだって?