9月8日 木曜日
9月8日 木曜日
昨日は飲み過ぎたかも知れない。
喉がカラカラで目を覚ますと、頭はズンズンと痛い。
今日の仕事が15時からで良かったと心底思う。時計は十一時を回っていた。
「あ、恵に今日から15時出勤って言うの忘れていたなあ」
今は仕事中だから電話は出来ない。メールとかが出来ればこう言うとき便利なのに……。
まあ、用事がなければ別に帰ってからでも問題無いだろう。
もう一度水を飲んでベッドに横になった。
14時にはアパートを出た。
イヤホンをしていつもの道を歩く。
途中にあるレストランからはいつも焼いた肉のいい匂いが漂ってくる。朝食も昼食も食べていないと、匂いだけでよだれが出てくる。
歩道から見えるレストラン窓際の席では誰もが楽しそうに食事をしている。レストランってそういう場所だ。誰もが楽しい、嬉しい雰囲気で食事を楽しむ為に入っている。
ここのレストランのドリンクバーが充実していて、コーヒーは挽き立てが出てくるんだ。
また今度、恵を誘って来てみたいなあとレストランから目を逸らそうとした時だ。
脳裏に恵の姿を捉えていた事に気付いた。
窓際から少し離れた席で楽しそうに両手に持ったティーカップに口をつけて飲んでいた。
そして、席の手前側にはスーツ姿の男の背中が見えた。
一瞬目にしただけだから確証はないが、その場面が目に焼き付いていた。
――今のは、恵だったんじゃないか?
足が止まろうとせずに勝手にいつもの交差点まで歩こうとしていた。それを意識的に止める。
立ち止まる。
色々なパターンを考えた。
彼女だって働いているんだ。仕事で他の会社の人と話す事はあるだろう。
有給休暇だってある。喫茶店には一人で入れるとも言っていた。
お父さんとか、親戚の人なのかも知れない。
本当に恵だったのか? 他人の空似じゃないのか?
それなら確認するのに5分もかからない。
通り過ぎたレストランまで坂道を戻った。歩道をゆっくり歩き、横目で確認する。
恵だった――。
着ていたシャツが背中に貼り付く。
夢であれば早く覚めて欲しい。今までの僕ならばそう思ってそのまま出勤していただろう。
でも、その時は高ぶる感情を抑え込めなかった。
「橋本さん。今日、会社休みます」
「どうした、二日酔いか?」
答えない。橋本さんも問い掛けてこない。
「分かった。風邪引いて熱出してるって係長には言っとくぞ」
「……有難うございます」
御礼の言葉にも怒りがこもっていたかも知れない。
スマホをポケットへ仕舞うと、レストランの入り口のガラス扉を開けた
挨拶をしてくる店員を無視して通り、恵の座っている席へと駆けつけた。
「恵! こんな所で何やってんだよ」
急に名前を呼ばれて振り返った恵は驚きを隠しきれない。
「敦司! どうしてここに居るの?」
それはこっちの台詞だ。
視線をその前に座っている男へ向ける。
白髪が混じる整った髪型。
四角いメガネの奥の鋭い眼光。
スーツがこの男の鎧に見える。
急な邪魔物にも慌てずにゆっくり視線をこちらへ向ける。足が震えるほどの威圧感だった。
「お客様のお知り合いでしょうか?」
店員はその男へ問いかけていた。目を離したら負けると――初めて思った。
「ああ、知り合いだ。コーヒーを一つ頼む」
「かしこまりました」
店員が厨房へと戻っていく。
「こいつ、誰だ」
恵はスマホで顔を隠して真っ赤になっている。もし大事なお客さんだとしたら大変な事をしているのかも知れない。
「とりあえずは座ったらどうだ。彼女が困惑しているだろ」
恵の横の席を指でさす。周りの客もみんな僕達を見ていた。
睨みつけながらゆっくり腰を下ろした。
恵がまだ喋り辛そうにしているのを確認すると、やれやれという感じでその男は胸ポケットから名刺をだした。
「仲橋の上司の日向だ。君も社会人ならそれなりの挨拶くらいしたらどうだ」
名刺を片手で受け取る。
『企画開発グループマネージャー 日向 陽介』
やはりこいつが恵の上司で、いつも仕事を押し付けている奴。
つまり――敵だ!
名刺を受取っておいて、僕は名刺すら持っていなかった。
会社内だけで作業する社員には名刺なんて渡されてもいない。
「こちらが、私の上司で尊敬する日向さん」
やっと恵が口を開いた。
自分が話さないとまずい雰囲気と察したのだろう。でも尊敬するって部分は余計だ。
「おいおい、さっきまでは仕事の鬼って言ってたくせに」
日向が笑うと、恵も少し微笑んだ。
むしずが走るって言うのは今のこの感覚なのだろう。
「こちらが私の付き合っている彼氏の柳君」
「――初めまして。いつも恵がお世話になっています」
低い声で出来る限りの悪意を込めて言った。
「君が柳君か。仲橋からいつも話しは聞いているよ。これからもよろしく頼むよ」
「何をだよ」
恵の事をか?
だったら上司のあんたがわざわざ頼むなんて筋合いはねー。
橋本さんなら大声でそう言ったかも知れないが、恵が居る。隣で今は少し困り顔をしているのだ。
「おー怖い怖い。最近の若者は怖いなあ」
伝票と鞄を持って日向は立ち上がった。
「じゃあ、邪魔者は退散させてもらうよ」
勝ったと思った――が、
「仲橋君。またデーター入力が済んだら提出してくれ」
「わかりました」
日向が立ち去るのと入れ替わって店員がコーヒーを運んできた。
先ほどまで日向が座っていた場所に座り直し、恵と向い合せになる。
折角の恵と来る初めてのレストランがこんな思い出になってしまって最悪だ。
「今日はどうしたの? 7時出勤じゃ無かったの?」
「あ、ああ。今週はちょっとトラブルで変わったシフトになってたんだ」
「聞いて無かった。びっくりしたよ」
「――すまない」
とりあえず喉がカラカラだ。
水が入ったガラスのコップを飲み干したのだが、よくよく考えてみるとそれば日向に出された水だった。
「恵こそ何やってたのさ。こんな所で仕事の話って分けでもないだろ」
「うん。プログラムに必要なデーター取りの協力をしてもらおうと思ったの」
「何のデーターだよ」
コーヒーを飲んだ時、恵が告げた。
「嫉妬のデーター」
「え?」
――耳を疑った。
昨日の事だった筈だ。
飲み過ぎて忘れてしまったのか?
僕が嫉妬していたから御免と謝り、恵は嫉妬しているのに気付かなかったと誤った。
それなのに何で?
そもそも嫉妬のデーターって何だ。
恵に僕の考えている事や気持は分からないのか?
本当にロボットなのか?
思い出した。
恵のパソコンに入力されていた文字『SITTO』。
メモだけしか出来ていなかった。
嫉妬をプログラムにしようとした時、恵は分からなかったんだ。
恋人の嫉妬がどんなもので、どうプログラムにして入力したらいいかが。
そしてそれを上司に相談に乗ってもらうなんて。
――くそっ!
これじゃ僕がデーター取りの為に利用されて、まさに今嫉妬しているのがあいつのシナリオ通りって事じゃないか!
時計を確認する。もう15時を回っていた。
いつもであれば仕事帰りの僕がこの前を帰って行くところだ。
帰り道のほうが恵の顔が外からよく見える席に座っている
帰り道で気付かせるシナリオだったんだ!
苛立ちが湧き上がる。どうしていいのか分からなくなる。
今も恵は紅茶を口につけて僕の取る態度や仕草をデーター取りしているんだ。
机に置いてあるスマホに、僕の言動が逐次入力されるんだ!
――完全に僕の負けだ――。
日向の考え通りだ。何を言っても、何をやっても嫉妬心は消えない。
確実な嫉妬のデーターが取られて行くだけなんだ。
「僕は――一体どうしたらいいんだ。恵」
恵は目を伏せて、
「ごめんなさい。怒らせてしまって」
自分で自分をプログラミングした通りに謝っているようにしか見えない。
怒らせておいて謝るプログラムか?
恵に人の心があれば……そんな事出来る筈がない!
上司の為なら、彼氏をもデーター取りの道具にしか思っていないのだ!
はっきり分かった。
恵には――心が無い!
本人が言った通りだった。
ただ……それだけだった。
頭を両手で抱えて大きく一息吐きだした。
言いたい事を上手く言える自信が無かった。
「いいよ。恵のせいじゃない。日向のせいだ。仕事が一番大事なんだろ。協力するよ」
コーヒーを一口飲んで大きく伸びをして見せる。精一杯の余裕ある姿を見せたかった。
「もう嘘をついたりする必要もないよ。恵の為に何だってやってやる。データー取りでも何でも協力するさ。でもこれは恵の為だぞ。日向の為じゃないからな」
結局は日向の為になってしまうのだろうが、そう思いたくなかった。
恵はゆっくり顔を上げた。
「じゃあ、嫉妬して怒った時は一体どうすればそれを許してあげようと思うの?」
許すだって?
今の僕が恵や日向を許す方法だと?
嫉妬して怒った――。
会社をズル休みした――。
利用されているだけだとハッキリ分かった――。
……この環境でそれを許す方法?
そんな都合のいい方法があったら僕が真っ先に知りたい!
「心と体が繋がって、お互いが好き同士って確証がとれれば解決するのかなあ。敦司君、会社休み取ったのなら、あなたの部屋に行ってもいい?」
「……!」
頭の中に感情が飛び交う。
感情の渦ってやつだろうか。
嫉妬、怒り、絶望、悲しみ、呆れ、期待、興奮、欲望。
「今からかい?」
恥ずかしそうに頷く。
「いいけど、片付いてないし、汚れてるよ」
「うん。いい。ありのままの敦司君が見たい」
苦いコーヒーを飲み干して席を立った。
恵と手を繋いで出勤してきた坂道を上る。
手から伝わる恵の感触。
繋がれているだけで、放せばもう二度と繋ぐ事が出来ないような気がした。
気持ちを読まれたくない思いが伝わってきた。
薄汚れた白い壁の赤茶色に錆びた階段を上がる。
恵の寮の半分程度しかない安アパートの一室。
扉を開けるとムッとした熱気と、自分の部屋特有の匂いがする。
「うわー。敦司君の部屋。感動」
「……何に感動するんだよ」
靴を脱いで床に転がっている出勤前に脱いだ洗濯物をカゴへ放り込んで行く。
「敦司の匂いが部屋中に満ち溢れてる」
手が止まった。
恵がそっと手に触れてくる。
「敦司も私の部屋に入った時、そう感じた? 部屋中が歓迎してくれてるって」
「え、ああ。うん、まあ」
あまりにもいい匂いで感動していたなんて恥ずかしくて口に出来ない。
「すーはーすーはー」
「――ごめん。新呼吸するのはやめて。滅茶苦茶恥ずかしいから」
どこで恵はこんな行動を覚えてくるんだ。
インターネットか? 小説か?
「私、掃除と洗濯は得意よ」
月に一回くらいしか活躍しない掃除機が大きな音を立ててテレビの裏やベッドの下の綿埃を次々に吸っていく。
ベッド以外の座る所を二人分確保するために、雑誌やゲーム機、橋本さんが忘れて帰ったドラムのスティックを片付けた。
掃除機で台所の掃除を始めた恵を見て、いい奥さんになれたんだろうなと悲観した。
片付けが一通り終わると、二人並んでベッドを背もたれにして座った。
「中学の時に父が出て行って帰ってこなくなったの。それまでの父と母のやり取りを見ていたら私が考えていたプログラム通りの結末だった。驚きもしなかったけど、その日を境に幸せだった日と優しかった母が豹変した。――そして私も変わった。誰もがプログラム通りに動いているように見えて、何もかもが白けてしまった――」
知らなかった……いや、分からなかった。
いつも明るかったり、面白い冗談を言ったり、恵は家族の愛情を十分に受けて育ってきたと思っていた。
育ちのいいお嬢様だと思っていた。
「学校にも殆ど行かなくなった。友達もいなかった。でもそれは今でも同じ。誰も私と友達になんかなろうとしない」
薄汚れた白い壁を見つめながら呟く。ただ聞くだけしか出来なかった。
「母が学校にも行かずにパソコンをしている私に毎日のように言ったわ。『あんたロボット?』って。父親の姿と重なって見えて苛立っていたのよ。一度だけ言い返した『――母こそプログラムで動いているロボット同じっ』て。そしたら思いっきり頬を叩かれた……。それから母はお酒を飲む度に私に暴力を振るうようになったの。中学を卒業してから会話らしい会話はしていない」
言葉を見つける事が出来なかった……。
恵と比べて自分はいかに幸せな環境で育って来たのだろうか。何不自由なく育ってきた。それがみんな当り前だとすら思っていた。
「養育費と生活保護で通信制の学校を卒業したけど、普通の会社には入社出来なかったの。出席日数とか、面接が下手だったりとかで。でも……」
しっかりとこちらを向いて話してきた。
「日向さんだけは私の入社を認めてくれたの」
――その名前は聞きたくなかった。
恵の人生を大きく変えたのだけは認めざるを得ない。影響力は僕なんかより計り知れないのだろう。
あの目を見たら分かる。普通の人の目じゃなかった。未来を見据えるような眼力があった。
「だから私はあの人の役に立ちたいの。あなたには辛い思いばかりさせちゃったけど」
目を伏せた。
恵の知られたくなかった過去を全部聞いた。
彼女をロボットの様にしてしまった理由。
――周りの環境に耐える為だったんだ。
「僕は別に辛いだなんて思ってねーよ。ただ……データー取りなんて仕事、いつまで続けるんだよ。他の作業とかに回して貰えないのか?」
恵は顔を上げない。
「パソコンを触ってなきゃ他には何も出来ないの。敦司の前では見せた事ないけど、本当に何も中身が無いの。ただ置いてあるだけのロボットになっちゃうのよ。誰の役にも立たないロボットってどういう物か考えた事ある?」
恵の肩が小刻みに震えていた――。
「スクラップ。この世に必要のない物なのよ……」
自分の事を冗談や茶化してロボットと言っていた分では無かったのに気付いた。
恵の仕事は恐らくは彼女の人生そのもの。
僕は理解してなかった。そこまで真剣に考えていなかった――。
そっと腕を肩に回した。
「何も知らずに……ごめん」
恵はそのままの姿で何度も頷く。
耳も真っ赤に染まっていた。
言いたく無かった事を言わせてしまった――と後悔した。
「データー取りの作業……もうすぐ終わってしまうの」
「え、そうなのか」
少し明るい兆しが見えた気になったが、恵の気持ちを考えると複雑だった。
「嫉妬の次は――別れ」
顔を上げてそう告げた。大きくて黒い瞳から頬を伝う一筋の涙を流しながら……。
――。
「――そっか」
幸せだった日々の終わりを感じ、どうしようもない不安と恐怖を感じた。
どうしようとしても、どうにもならない。
どうすればいい――?
考えられもしない。
完全な敗北感だけが心を覆いつくした。
恵は帰った――。
送って行くと言っても断られた。
玄関の扉を開けたところで真っ赤な太陽が恵の濡れた頬を染めていた。
赤トンボだけが恵を追いかけるように飛んでいた。
嫉妬の後の仲直りは出来なかったとデーターに残ったのだろうか。
心も体も繋がらなかった……。
――ロボットのようでロボットでない、人の心を持たない人――
恵は自分の事をそう思い込んでいる。
僕に話してくれた辛い過去。
心があるからこそ涙を流したはずなのに……、それでも自分は心が無いだなんて――。