2016年 8月12日 金曜日
違ったんだ――!
運命的な出会いなんて、所詮はドラマや映画、アニメや小説の中だけの話だと思っていた。
現実と夢話との大きなギャップを苦笑して乗り越える事こそ子供から大人への成長だった。
現実の出会いって何だ……?
友達からの紹介、合コン、お見合い、婚活……どれかだろ。
――運命的な出会いと言えるのか?
いつしかそうとしか考えられないようになっていた。
――しかし、違ったんだ!
誰もが大人になっても運命や奇跡に期待をしている。期待し続けている。
ありふれた日常生活でこそ、ありふれていない運命的な出会いを強く期待するのだ。
僕に訪れた運命。
すれ違いの夢話か運命の出会いか……僕次第なのだ――!
「――お前……運命的な出会いって言うけど、それは単に道を聞かれただけじゃないの?」
仕事の内容が書かれた引継簿を前にして、一緒に仕事をしている橋本さんは虚を突かれた顔を見せた。
ネズミ色をした古びたデスクの前で肩を並べ、作業前ミーティングそっちのけで雑談を続けていた。
「いいえ、そんな日常的なものじゃなかったんです。それから続きがあるんです!」
是非それを聞いて欲しい! 鼻息が荒くなっていた。
興奮が冷めきらなかった――。
2016年 8月12日 金曜日
世間はお盆の帰省ラッシュでにぎわっているというのに、僕は会社への通勤路をいつものように歩いていた。
7時出勤と15時出勤の二交替制で働く工場勤務にも慣れたが、真夏の炎天下での出勤はやはり堪える。
歩道を歩いている人の姿は少ない。熱中症に注意して下さいと天気予報のお姉さんが連日のように啓蒙しているのが功を成しているのだろう。
額や首から滲み出る汗を吸収力に乏しい小さなハンカチで拭い、ずれたイヤホンをもう一度耳の奥へと押し込む。
周りは熱気で溢れかえす中、耳から聞こえるパヒュームの軽快なリズムは通勤の足取りを軽いものへと変えてくれる。
警察署が見え始めたところで、すぐ横の交差点に一人女性が立っているのに気付いた。
カーキ色の長いスカートからほんの少しだけ見える細くて白い足首。
決して派手ではない白色のブラウスには青色の花柄模様。少し肩が見えている。
スニーカーを履いているところを見ると、清楚で活発なイメージも湧く。
熱心にスマートフォンの小さな画面を覗き込んでいるのを見ると、
「歩きスマホはあぶないよ」
優しく声を掛けてあげたくなる。
いや、同世代の男子であれば十人中十人が声を掛けたくなること疑いない。
短い黒髪から見える細い顎のライン。大きな瞳と整った顔立ちに全くの隙がない。
――モデルやアイドルではないだろうか。
妄想をしながら歩いていた。
目を瞠るような女性……。
声を掛けられたら嬉しいどころか、運命めいたものを感じてしまうだろう。
スマホには小さなストラップが揺れていた。
ああ、このまま何も無くすれ違ってしまうだけなんだ。
いつもながら虚しい……。
僕に彼女はいない。今だかつていない。欲しいのにいない。
工業高校を卒業し、就職して工場勤務を続けていると、女の子との出会いもなければ、知り合う術さえ無い。
コンパなどに誘ってもらった事もあるが、何を話していいのかすら分からない。そんな初対面の場で盛り上がっている女子を好きになれそうにもなかった。
僕にもモテない理由がある事くらいは自覚している。
趣味はスマホのパズルゲームとかネットで動画サイトを見るとか一人で出来る事ばかりで、世間で言う非リア充だ。
草食系男子にも当てはまる。でもオタクではない……と信じたい。
だが、ちょうど今通り過ぎてしまうこの女の子も肉食系女子などではない。
断じて違う。言い切れる!
「すみません」
――?
もしかして、僕に声を掛けた?
立ち止まり、ゆっくりと振り返る。
その女の子の瞳を見た瞬間、自分の考えている事が見透かされているような恐怖を感じた。
透通った大きな黒い瞳が僕の瞳を真っ直ぐ見つめている。
頬が少し赤い。決して恥ずかしかったり緊張したりして赤くなっているのではない。赤いチークが彼女の頬を更に引き立てていた。
小顔で奇麗な鼻筋と顎の線に驚かされる。汗さえもがキラキラと彼女を輝かせて見せる。
イヤホンの白色のコードを汗が伝い落ちる。聞いていた曲のボリュームを下げる事すら忘れ、小さく白い肩に見とれていた。
「あの、宇治市役所はどっちに行けばいいんですか?」
運命的な瞬間だと身構えていた僕は、その問い掛けの意味を理解するのに数秒かかった。
「え、市役所?ああ!」
あぁ……道を聞かれただけだった……。
落胆よりも安堵が勝っていた。
少し恥ずかしくて自分の顔が今、赤くなっていくのが分かる。
「市役所はこの坂を真っすぐ上がっていけば右手の方に見えてきます」
途中、歩道が細くなっている所もある。少しでも親切に教えてあげたいと思った。
「横断歩道を渡った向こう側を上がった方がいいかも知れませんよ」
身振り手振りで何とか親切さを装おうと、女の子は少し笑いながら後ろに一歩下がった。
いつの間にか彼女までの距離を縮めていた。
この人なんでこんなに近づいてくるんだろう? と思われたのかも知れないが、
「分かりました。どうもありがとうございました」
清々しい笑顔でお礼の言葉をくれた。
ただ道を聞かれてそれを教えただけなのに、何とも言えない満足感と少しの後悔の念を引きずり会社へと向かった。
「だからそれは、単に道を聞かれただけなんだろ。続きは?」
「え? だから、その……可愛かったなあと……」
興奮して話してしまった事が今更になって少し恥ずかしくなった。言われればそうだ。単に道を聞かれただけなんだ。
橋本さんは目尻を下げて情けなさそうな顔をして、
「お前ももう二十二才なんだからそんな些細な事じゃなくて、もっと大人びた話題で盛り上がろうぜ」
僕の中では事件だったのだが、橋本さんにとっては些細な事なのが歯痒い。
「ピュアだなあ」
「やめて下さいよピュアって言うのは」
この前もそうだった。
凄く感動して涙した恋愛小説を貸したのに、お前ってピュアだなあの一言で片付けられてしまったのだ。
僕の中では宝物にして仕舞っておきたかった小説を、設定が甘いだの共感が持てないだのと散々けなされた。
……貸すんじゃなかったと後悔した。
確かに橋本さんはモテる。
身長は僕よりも5センチは高いし、赤いスポーツカーに乗っている。
話していて裏表が無く、言いたい事をしっかり言う。嘘は言わない。
仕事だって出来る。最近入社した若手の中では一人だけ輝いていると上司から比較される。
小さなミスも少なく後輩の面倒見もいい。引継簿に書く字だって奇麗で読みやすい。
何かにかけて僕より優れているのだが、一つ挽回出来る可能性があるとすれば……彼女だろう。
橋本さんの彼女は少しポッチャリ系である。
デブ線とは口が裂けても言えないのだが、本人にもその自覚があるようで、俺の彼女は包容力の塊といつも褒め称えている。
一緒に飲みに行った時など、その彼女は自分の体形の事を自虐ネタのようにして周りを笑わせる。
女の子と話すのは苦手だったが、橋本さんの彼女とだけは全く抵抗なく話が出来た。
僕の目標は橋本さんの彼女よりも可愛くて性格もいい彼女を作る事だった。
そして、今日ついに彼女にしてもいいと思える人と初めて出会ったのだ。
「道聞かれただけで妄想に走るな。いつも言ってるけど、ハードル高過ぎるんじゃないの?」
「いいえ、今度出会ったら絶対に声を掛けてみます」
拳を握ってみせる。
「何て掛けるの」
「……この間は、どうも。お茶でもどうですか……とか」
橋本さんは大きくズッコケるリアクションをした。この人はオーバーリアクションだ。
「お前なあ、道教えといて『どうも』とかは向こうが言う台詞だろ。例えば、ちゃんと市役所に着けましたか?とか、一緒に案内すれば良かったですねとか、せめて内容ぐらいは考えとかなきゃ一言でさようならだぞ」
何も言い返せない。
簡単に次から次へと話題が出るなら僕にだってこれまでに彼女の一人や二人出来たさ。
「あと上から目線も駄目だ。お天気のお姉さんが可愛いとか言うのはいいが、彼女にしたいとか無理な妄想はやめとけ」
前にそんな話をしてしまった。あの時は少し酔っていた筈だが、橋本さんは良く覚えている。
「まだ一度も彼女と付き合った事がない男には妥協が必要だ。それで少しずついい女を狙っていけばいいだろ」
彼女が聞いていたら泣くような事をさらっと言う。
橋本さんはため息を一つつくと、
「まあ、昔は俺もそういう時期はあったからなあ。毎日、また会えたらいいなあって思いながら通勤や通学すると、それはそれで楽しみが一つ増えたからなあ。いい事なのかもな」
心の中では期待とは裏腹にもう二度と会えないかも知れないと思っていた。
「市役所の場所を聞いてきたって事は、引っ越しで転居届を持ってきたのかも知れないし、この辺りに住んでればまた会えるかもなあ」
「なるほど」
近くに顔を寄せてくる。
「それに、スマホ持ってて市役所の場所をわざわざ聞いてくるか?」
地図を表示するアプリはスマホなら一つは入っているだろう。
それを見ても分からなかったとは考えにくい。
「それに、それにだ、俺だったらどうせ誰かに道を聞くなら可愛い子に聞くけどな」
その言葉はさらに胸の鼓動を加速させた。
――また会えるかも知れない。
橋本さんにはまた単純でピュアな奴と思われたかも知れないが、些細な一つの思い出がこれからの展望へと繋がっていく自信が持てた。
やっぱ橋本さんにはかなわないなあ……。
8月18日 木曜日
たまたま道を聞かれた女性にもう一度会える可能性を考えると、やはり絶望的な数値にしかならない。
だからこそ会えれば運命なのかも知れないが、ここ数日、出勤するたびにどんどん憂鬱にる。
警察署の建物を見るまでは期待に胸を躍らせるのだが、交差点に彼女の姿が無いのが分かるとその落胆は逆に大きかった。
諦めが肝心と自分に言い聞かすのだが、そう思えば思うほど今日こそはと期待している自分が虚しい。
「お前、まだその女の子の事探してるわけ?」
「いえ、もう忘れましたよ」
引継簿から目を離さずに答える。
橋本さんはやれやれ顔で見ていた。
あれから一週間が過ぎようとしていた。