5.半殺し? いいえ、本気です。
ーーーグルラアアアアアーッ!!
ギルヴェルトは、森に轟く咆哮に周囲の魔獣の気配が脱兎のごとく消えたのを察して足を止めた。
(どんだけ大事なんだよ。まぁ、有り難てぇけどな)
正直、このまま歩いて城へ戻るのは無理があると思っていた。体力的な問題ではない。ギルヴェルトに於いて、魔獣を倒しながら北の森を走破することは容易いことだ。
もちろん、ギルヴェルトが幼子の体を支えながら、来た時と同様にトゥーラに騎乗したまま走ることはできた。だが、魔獣を倒しながらでは、上下左右へ振り回されることは避けられない。幼子の体では耐えられないだろう。
それに、魔獣と戦闘するところを幼子に見せるのもよろしくない、と当初は幼子をトゥーラに乗せて、ギルヴェルトは先行して露払いしながら進もうと考えていた。
実際にそうしたところ、走り出した瞬間に幼子が落ちた。しっかり掴まっていろ、とトゥーラにしがみつかせたが、力のない幼子が掴まっていることができるはずもなく、コロンと落ちたのだ。
何が起きたか解っていなかった幼子は、ギルヴェルトが慌てて抱き上げたことで、自分が落ちたことを理解した。デアの魔法のおかげで幼子は全く怪我していないのだが、落ちた時に打った背中に痛みはあり涙が溢れてきた。その様子にトゥーラがエンジに殺される、ともう一度幼子を背に乗せることを嫌がってしまった。トゥーラの態度に幼子は悲しくなって泣き出し、今はギルヴェルトの腕に乗っかり、えぐえぐ泣き続けているのだ。
思案した挙げ句、ギルヴェルトはトゥーラに先行させて、幼子を抱えて歩くことにしたのだった。
「…エンジしゃん?」
聞こえてきた咆哮に幼子が涙を止めた。ギルヴェルトは、魔獣だけでなく、今の状況に対しても有り難いと思った。顔面凶器独身男は、泣いている子供のあやしかたなど知らないのだ。加減が解らないギルヴェルトの声が殊更優しくなる。
「ああ、そうだ。お前が無事に森を出られるようにしてくれた。あとで会ったら礼を言おうな?」
「あい」
幼子は、何がどうなって無事に繋がるのかわからないが、お礼を言うことなのだと素直に返事していた。ギルヴェルトは幼子の返事に胸を撫で下ろした。
幼子が泣き止んでギルヴェルトを見れば、彼の服は自分の涙と鼻水まみれになっていることに気づいた。
「ぁ…。ごめんなしゃぃ…」
「ん?どうした?」
ギルヴェルトは、急に謝ってきた幼子に首を傾げた。
幼子はぷるぷる震えだし、一点を凝視している。幼子の視線の先に目をやって、「ああ…」とギルヴェルトは嘆息した。ぬっと伸びてきたギルヴェルトの手に、幼子はびくりと身を固くした。
(服がぐしょぐしょ…。鼻水までついてる…。これは、怒られる…!)
拳骨を落とされるくらいは覚悟して身構えていたが、やってきたのは頭を撫でてくるゴツゴツした手だった。
「洗えばいい、気にするな」
「あっあらいましゅ!ちゃんと、きれいにしましゅ!」
ギルヴェルトは、こんなことで怯え、汚した物を自分で洗うと必死に言いだす幼子に驚く。子供がする必要ないと言えば、幼子はこの世の終わりのような顔をした。おそらく、染み着いた奴隷の性なのだろう、とギルヴェルトは辛酸を舐める思いだった。
(クソッ!子供になんて表情させるんだ!)
「……。わ、かった、頼むな?」
幼子を奴隷にした奴に、ギルヴェルトは並々ならぬ怒りを覚えていた。それでも、ギルヴェルトの返事を聞いた幼子が表情を和らげたことに安堵して、怒りを奥底に沈めていった。
幼子は、汚してしまったことは仕方ないとしても、お詫びに洗濯ぐらいはしなくては、と必死だったのだ。
ギルヴェルトは鬱々としていても事態は好転しないことを知っている。まずは城へ戻ることを優先することにした。そして、幼子の今後をどうするか決めなければならない、と。
「トゥーラ!乗るぞ!」
そう言うと、ギルヴェルトは幼子をぽんっとトゥーラに乗せ、自分も跨がる。先ほど拒絶されたのに乗ってもよいのか、とあわあわする幼子の体に腕を回した。
「俺が一緒なら落ちない。揺らすなよ?行け!」
前半は幼子に、後半はトゥーラに向けてギルヴェルトは言った。トゥーラは、ぐっと四肢に力を入れ駆け出した。幼子は回されたギルヴェルト腕にしがみついたが、落ちることなく流れる森の景色を目にする。
「ぅぁ〜…!はやいっ!」
「くくくっ、本気で走ればもっと速いぞ?喋ると舌を噛む。ちょっと我慢しとけ」
舌を噛むと聞かされて、両手で口を押さえる幼子の様子にギルヴェルトは笑みを深める。素直で可愛らしい幼子に「いい子だ」と頭を撫でて、少しだけ前傾姿勢で浮いた体を安定させてやった。
トゥーラは全力疾走の3分の1の速度で駆ける。魔獣が襲ってこないと判っていれば、障害物を排除した来た道を戻るだけだ。立ち塞がるモノが何もないのだから、あっという間に城が見えてきた。
トゥーラの速度が歩行する程度まで落ちた時、目の前には城壁が聳え建っていた。城門の近くまでトゥーラの歩みを進める。ギルヴェルトが向かったのは、正門ではなく、北の森へ行く際に騎獣が出入りする裏門側だ。
ギルヴェルトが幼子に到着したことを言おうと、少しだけ腕の力を弛め下を向いた。そこには、ぐったりとギルヴェルトの腕に寄りかかる幼子がいた。
「お、おいっ!どうした!?」
「…すぴ〜…ぴ〜…」
ギルヴェルトの問いに答えたのは幼子の寝息だった。
幼子は走り出した時は流れる景色を見ていたが、細心の注意をはらって駆けたトゥーラの背は心地好い揺らぎをもたらしていた。しっかりしたギルヴェルトの腕ベルトも安心させる要因だった。つまり、幼子はすやすやと眠っていたのだ。
「はっ…寝てやがる。ははっ…はぁ〜…」
幼子が騎獣酔いで気分を悪くした、と慌てたのは杞憂だった。ギルヴェルトは幼子の豪胆さに、乾いた笑いとため息をもらした。
気持ち良さそうに眠る幼子を落とさないように抱き直した。恐る恐る頬に触れてみるが、起きる気配がない。
(すべすべじゃねぇか。よく手入れされているな。全部小せぇし、ふにゃふにゃしてる。すげぇ温かい…)
ギルヴェルトは見た目から、幼子が愛玩価値が高い闇奴隷だとは思っていたが、その可愛さに知らずと癒されていた。子供と関わると碌なことがなかった彼には、周囲の者が子供を可愛いと言うのがよく解らなかった。だが、これなら解ると思った。自分を恐がらない幼子が、腕の中で安心しきって眠っている姿にギルヴェルトの顔が緩んでいた。しばらく、幼子の頬をつついたり、匂いを嗅いだり、少々変態じみたギルヴェルトがいる。
城門の影から恐ろしいモノを見た、と2人の門兵に見られていることに気づかないほどに幼子を愛でていた。
片手の親指と人指し指で、両側から幼子の頬をふにふにしていると、幼子はぐずるようにギルヴェルトにすり寄る。
(っ!なんだこれ!?めちゃくちゃ可愛いじゃねぇか!!もちもち柔らかけぇし…。首なんて片手で掴めてしまうんじゃねぇか?)
指がどれくらい余るか確かめてみたくなったギルヴェルトは、そっと幼子の首に手を這わせる。
その様子に慌てたのは門兵たちだった。2人ともが持ち場を離れ駆け出して叫んでいた。
「「隊長!殺っちゃ駄目ですっ!!」」
凶悪な顔で笑ったギルヴェルトが、幼子の首を絞めようとしていると思って。
「ぴっ!?」
「…テメェら、ガキが起きちまっただろうが!あ"あ"!?」
門兵の必死の叫びで、幼子を起こしてしまったことにギルヴェルトは怒っていた。大きく瞳を見開き、驚きを露にする幼子をトゥーラの背に降ろすと、ギルヴェルトは飛び降りた。
「「うぎゃああああぁぁぁっ!!」」
響く男たちの絶叫を意に介さず、ミシミシを何かが軋む音がする。
「いでででででっ!死ぬっ!死ぬぅっ!!」
「無理っ!逝っちゃうっ!ぎゃああああっっ!!」
ギルヴェルトは左右の手で門兵それぞれの頭を鷲掴み、潰すつもりで握力を込めていた。泣こうが喚こうが、抵抗を許すつもりもなかった。
(死ねっ!死んで詫びろっ!!)
「「みぎゃあああああぁぁぁっっ!!」」
なおも続く断末魔の叫びに、城門の異変を察した人が集まってきた。魔獣が襲ってきたのかと武器を手に集まったのは、ギルヴェルトが率いる魔獣討伐隊の隊員3人だった。憤怒の形相でギルヴェルトが、門兵2人の頭を握り潰そうとしている事態に出くわした。隊員たちは、夜叉もかくやという鬼気迫る己が隊長に恐怖する。
(((ひぃっ!鬼がいるっ!!)))
魔獣を相手にしても恐怖心を発破に変える隊員たちは、ギルヴェルトのひと睨みで足が竦んで動けなくなっていた。
なぜ、ギルヴェルトが門兵を握り潰そうとしているのか、その理由を誰かが訊かねばならない。だが、口を開けるものはいなかった。
「大丈夫っすかー?」
凍てついた場に、語尾を伸ばした声がかけられた。天の助けとばかりに硬直していた3人が一斉に振り返る。遅れてやって来たのは、どんな時でもぶれない口調でギルヴェルトに意見するジェイクだった。肩書きこそはないものの、魔獣討伐隊の副隊長的な存在のジェイクにすがる3人。3人ともが口をぱくぱくさせ、出ない声とギルヴェルトを指差して訴える。
(((ジェイク!隊長を止めてくれっ!アイツら死ぬ!つか、死んでるかもしれんっ!!)))
「ギルヴェルト隊長ー?…って、何してるんすかーっ!?」
「あ"あ"?邪魔すんじゃねぇよ。寝てるガキ起こしたコイツら、シメてるんだからよぉ?」
「ガキ…って、はぅあぅああああ〜っ!」
ジェイクはギルヴェルトの言葉に、その背後でトゥーラに乗せられた幼子を見て奇声をあげた。ギルヴェルトと死にかけの門兵なんてどうでもよい、と幼子に向かって一直線に走り出す。
(ちょっ!ちっちゃい子がいるよーっ!サーベルタイガーに乗ってるとか、かわいすぎーっ!)
ジェイクは大の子供好きだった。本当は魔獣討伐隊ではなく、子守りの仕事に就きたかったくらいに。しかし、体格に恵まれた彼は、親の勧めで魔獣討伐隊への入隊したのだ。ジェイク自身、そのことに不満を持っている訳ではない。危険な職であるため、実入りもよい。魔獣に立ち向かう討伐隊は、その勇姿が子供にも人気がある。何よりも、街中でも子供のほうから寄ってきてくれるから、というのが大きかった。そう、周囲が少々引くくらいにジェイクは子供が好きだった。
だから、今は目の前にいる幼子しか見えていなかった。そして、幼子が出した「…こわっ」という小さな声を聞き漏らしていた。
その声を耳に拾い、幼子がトゥーラの毛皮を、ぎゅっと掴んだのをギルヴェルトは見逃さなかった。
ーガシッ!
ジェイクの幼子へと伸ばされた手が空を切る。
「いでえええぇぇぇーっ!」
「テメェ…何しようとしてんだぁ?」
さっきまで門兵の頭を掴んでいたギルヴェルトの手が、今度はジェイクの頭を絞めつけていた。おかげで門兵2人は命拾いした、と這う這うの体でギルヴェルトから離れた。その門兵を隊員たちがさらに引きずって、ギルヴェルトから距離をとる。
「いやーっ!俺の可愛い子があああぁぁぁっ!」
「テメェの、じゃ、ねぇっ!!」
ードガッッ!
なおも幼子に両腕を伸ばし、バタバタさせて藻掻くジェイクを、ギルヴェルトは容赦なく蹴り飛ばした。離れていた男たちの横をジェイクは「こどもぉぉっっっ」と叫んで吹っ飛んでいった。
(((((あほだ…)))))
どういった事情でギルヴェルトが子供を連れているのか、何も聞かされていないし、誰も知らない。しかし、子供を起こしただけで門兵が半殺しなのに、恐がらせたら本気で殺されると思わなかったのか、と避難した男たちは思ったのだった。