4.虎と幼子と足枷と
「トラしゃん…」
魔獣サーベルタイガーも幼子にとっては、大きな虎だった。確かに虎に見えなくはない。トゥーラは虎特有の縦縞模様をしており、白黒のホワイトタイガーだ。
ただ、ちょっと普通より大きくて、ちょっと爪が鋭くて、ちょっと太い牙が口からはみ出ているくらいの違いしかない。大いに突っ込むところだが、幼子の脳内動物園ではホワイトタイガーとサーベルタイガーは同じものと処理された。
(白いトラさんだぁ。もっと近くで見たいっ!)
動物が好きな幼子は、よいしょっと立ち上がりトゥーラに向かって歩きだした。幼子が動き出したことで、トゥーラはエンジの疎ましげな視線を感じた。目に見えない槍のように、グサグサと刺さってくる。猛烈に逃げ出したかったが、ギルヴェルトの「絶対に動くなよ」という命令との板挟みでトゥーラの精神が悲鳴をあげていた。
トゥーラの泣き出したい気持ちも知らずに、幼子は目の前まで来ると、恥ずかしそうに服の裾をつかんでもじもじしている。大型の動物で、もふもふの毛並みを触りたいのだが、触ってよいものかと一応の遠慮をしていたのだ。もっと言えば、首に抱きつきたいと思っており、ちらちらと上目遣いでトゥーラを見ている。ギルヴェルトがジェスチャーで屈むように合図する。エンジが怖くて、これ以上は本気で勘弁してほしいと目で訴えるが、ギルヴェルトは手振りを大きくして伏せを要求していた。
「…ギャゥ、ギャギャウ」
のそりとトゥーラは伏せの体勢をとる。その前に、エンジに苦情はギルヴェルトに言ってくれ、と伝えることを忘れない。エンジはエンジで、トゥーラに興味を持たれるのは面白くないが、幼子が嬉しそうなので我慢していた。あとでギルヴェルトに御礼をしようと決めて。
「ほわぁぁぁ!」
幼子は、真正面に降りてきたトゥーラの顔に歓声をあげた。トゥーラが伏せをして、幼子と目線が合うほどの体格差である。頬を紅潮させ、幼子のキラキラした瞳が眩しい。これだけの表情をされたら、トゥーラも満更ではない気分になる。
「…さわってもいーい?」
こてん、と首を傾げて伺いをたててくる幼子に、トゥーラは首を持ち上げ喉をさらす。恐る恐るといったふうに、幼子は両手を伸ばしてトゥーラに触れる。最初は表面を撫でるように、それから毛の間へ手を入れる。わしゃわしゃと掻くようにふわふわを堪能していると、トゥーラは「ゴロゴロ」と喉を鳴らして、気持ち良さげに目を細めた。
その瞬間、幼子の箍が外れた。思いっきりトゥーラに抱きつき、柔らかい毛に頭から突入していた。ぐりぐり頭を擦り付け、腕もわしゃわしゃ動かして全身で至福の時を感じていた。
「ふあああああ!ふあふぁ〜…もこもこぉ〜…」
幼子が嬉しそうにトゥーラに抱きつくその様子に、ギルヴェルトは驚きを隠せなかった。相手が幼子といえ、トゥーラが急所をさらしたのだ。自分が動くなと命令をしていたとしても有り得ないことだった。
(このガキ何者だ?)
トゥーラが喉元の毛を触らせたのは、単純に胴体の方には枝や葉が刺さっており、幼子には危ないと思ったからだった。九割はエンジが怪我させるなよオーラを出していたこともあるが。
紅竜が護るように囲い、魔獣サーベルタイガーを手懐ける幼子。ギルヴェルトに対しても普通の子供のような拒絶反応は見せていなかった、とトゥーラと戯れる幼子を観察する。
肩の下あたりまで伸ばされた白い髪、瞳は菫色だったな、とさっき見た幼子の顔を思い出す。日焼けしていない白い肌に、子供ながらに整った、将来は美形になりそうな顔立ちをしていた。薄い布地1枚のお粗末な服装、裸足であることが森に入る目的を持っていないことが明らかだった。まるで陽の当たらない場所で、出歩く必要が全くないかのように思えた。
「…っ!?おいっ!」
トゥーラを触り倒していた幼子の、恐ろしい事実に驚愕したギルヴェルトが急に声をかけた。
「はひっ!?」
はしゃぎすぎたせいか、紅潮した顔の幼子が振り返ると、ギルヴェルトは既に幼子の後ろに立っていた。幼子がギルヴェルトを見て顔を笑顔をひきつらせる。ギルヴェルトは鬼のような形相になっていた。
(こわっ!なに!?トラさんもふりすぎた!?)
幼子はトゥーラから、ぱっと手を離して両手を上げ、ギルヴェルトに向けて降参のポーズをとった。そのままギルヴェルトと見つめ合うこと数十秒、万歳の体勢で相手の出方を窺っていた。幼子は動かし続けていた腕を上げていることに限界を感じて、笑顔だった顔をしかめる。
「す、すまんっ!怖がらせたな…」
しかめられた幼子の顔が泣きそうに見えて、ギルヴェルトは慌てて膝を折り、幼子と目線が合うように身を屈めた。呼び掛けたはよいものの、ギルヴェルトは気づいた事実を、幼い子供に何と言って訊ねるべきか迷っていたのだ。
ギルヴェルトを鬼の形相に変えた事実、それは幼子の左足首に填められている金属製の装身具だった。
エルルケーニッヒでは、足首に填める装身具は"奴隷"の証である。奴隷といっても人としての尊厳は守られている。所謂、奴隷落ちというのは、多額の借金をかかえた者が自身の身を売り、奴隷商に借金の肩代わりをしてもらう。身売りした代金と利息を返済するまでの縛りだ。なかには、貧しい家の者が口減らしのために、100歳から150歳の子供を奴隷商人に売ることもある。だが、それは丁稚奉公させるようなもので、貴族や商家、職人の元で勤めあげれば、職に就きやすくなるという利点が大きい。現在の奴隷制度は、民の救済措置的な役割を担っていた。
子供の年齢などわからないギルヴェルトだとしても、目の前の幼子が100歳に遠く及ばないことは解る。つまり、幼子は誘拐されたか、心無い親に売られた闇奴隷に他ならない。
正規の奴隷は、取り決められた奴隷商人が人を人としての接するのに反して、闇奴隷は人を商品、物として扱う。劣悪な環境で使い捨てる労働力や、盗賊などの犯罪者の慰みモノとして二束三文で売り払われる。価値のある商品は丁寧に手入れされ、手入れにかけられた金の分だけ高額で売られていく。そのほとんどが幼い子供か、見目麗しい少年少女ばかりだった。
そう考えれば、幼く綺麗な顔立ち、日焼けしていない肌も、服装も、強面のギルヴェルトに臆することない様子も合点がいくのだった。
闇奴隷を扱う闇商人は表だった人間は小綺麗な者を使うが、奴隷の監視には恐怖を植え付けるために人相の悪い者をあてがう。ただ、物心つく前からそれが当然ならばどうだろう。この幼子のような反応をするのではないか、とギルヴェルトは思った。
「う〜。て、おろち…てもいーでしゅ…か?」
「あ、ああ。もちろんだ」
たどたどしく、しかし子供らしくない口調に苦い思いで、ギルヴェルトは幼子の行動を注意深く見ている。ほっとしたように幼子は腕を下ろし、気を付けの姿勢をとった。
(やはり、行動にいちいち許しを乞い、直立の姿勢をとり、余計なことを喋らない。そういう風に躾られているのか)
幼子は腕が怠すぎて、だらんとさせていただけだし、発音の悪い言葉が恥ずかしくて口ごもったのだ。そして、年長者には敬語を使うという知識が、無意識に幼子の口調にでていたのだが、ギルヴェルトは別方向へ思考を走らせていた。
(自我が芽生える前から自分が闇奴隷とは知らずに育てられ、もしかしたら売られていく道中だったか?この子を買った相手はかなりの金を持っているのだろう。闇商人の元にいる奴隷なら、これほど高価な"足枷"を着けることはない。買ったクソ野郎の趣味だろうな。この子を運んでいた商隊が魔獣に襲われ、生き残っていたのをエンジが拾った…?)
どんなに高級な貴金属の装身具であっても、闇奴隷に着けられる奴隷の証は"足枷"に違いないのだ。
犯罪である闇奴隷の売買に街道を使うことはない。人目を避け、北の森を抜けようとして失敗したのだとギルヴェルトは結論付けた。
「なぁ、お前、その足の、どうしたんだ?」
ギルヴェルトは、はっきりと"足枷"とは言えず、幼子の左足首を指差して訊いた。
「ん〜。…わかん、わからにゃ…いです」
幼子は知らないのも当然で、それはデアが幼子の御守りとして装備させた装身具だった。銀の輝きを放つミスリル製、細やかな意匠を施した装飾に、幼子を護る魔法をふんだんに付与した逸品である。そして、邪魔にならないようにと足首に装備させたのだ。もちろん、重さや装備していることを感じさせない魔法も付けてある。
デアは城内のことは影武者スライムから情報を得ていたが、世間一般のことには疎かった。
デアが知っている奴隷は首輪を填められる存在であり、今のように人として扱われるものではなかった。戦時下、デアは奴隷の解放にも尽力しており、人の尊厳を守る現在の奴隷制度の礎を築いていた。そのデアの意志を継いだ者たちにより、家畜同然の証であった首輪から、服を着れば隠れる足への装着に変わっていったのだ。だが、デアは【無限牢獄】についていたため、その事を知らなかった。
故に、そんなデアの親心満載の装身具は、世間では幼子を縛る"闇奴隷の足枷"と言われてしまうものだった。
「・・・・・・」
幼子の「わからない」という答えに、ギルヴェルトは自身の推測が全て当てはまることに言葉を失った。例えば、親にでも貰ったと言われるなら、奴隷の証なんて知らない無知な親もいたものだ、とまだ救われたのに。
幼子は黙ってしまったギルヴェルトに不安になってきていた。
(子供が高価そうなもの持ってるって思われてる?はっ!泥棒とかしてないよっ!たぶん…。このままだと助けてもらえないかも!?)
「あ、あのっ…」
記憶がないだけに盗んでいないとも確信できないが、上手く回らない舌で、幼子が必要のない言い訳をしようとした時、「グルゥ…」とエンジが唸った。
ギルヴェルトは黄金色したエンジの目に睨まれていた。
(いらんこと言うなってことか…)
竜種は聡慧な魔獣、幼子の状況をエンジは理解しており、それを幼子に告げるな、とギルヴェルトを制したと思った。ギルヴェルト自身も、幼子に何をどこまで訊けばよいのか解らなくなっていた。まずは城で保護して、その後のことは追々考えることにした。
エンジは、「いつまで此処にいるつもりだ、いい加減帰るぞ」と促したつもりだったのだが。結果は同じだから、どちらも違いに気づかなかった。
「とりあえず戻るか…」
そう言ってギルヴェルトが立ち上がると、幼子は急に高くなった視界に驚いていた。ギルヴェルトが片手で幼子を抱き上げていたのだ。
「わわっ!」
ギルヴェルトの片腕に座る、お子さま抱っこにバランスを崩しそうになって、幼子は太い首にしがみついた。
「よしよし、ちゃんと掴まってろよ?」
幼子が怖がらないことに密かに安堵して、余裕を取り戻したギルヴェルトは、にっと口端を上げて笑っていた。
幼子はギルヴェルトの傷痕のないほうの横顔を間近に見ていた。急に抱き上げられたことに驚いたが、少したれ目の蒼い瞳が優しいことに嬉しくなった。
「あいっ!!」
何とか助けてもらえそうだ、と思った幼子は笑顔とともに元気に返事していた。その眩い笑顔にギルヴェルトは目を細めて動揺を押し隠した。
魔獣が跋扈する北の森から城へ戻ると決めたギルヴェルトは、幼子を軽々と抱えたままエンジに言う。
「エンジ、お前も帰るだろ?俺とコイツを乗せてくれるか?」
じっと幼子を見ていたエンジの返事は、顔を横に背ける拒否だった。エンジは陛下以外を乗せて飛ぶことはないだろう、とギルヴェルトも予想していた反応だったため、特に腹をたてることなく苦笑していた。竜で飛んで帰れるなら早い、とダメもとで訊いただけなのだ。
「しゃーねぇな、俺らを乗せるのはイヤだとよ」
ギルヴェルトは冗談めかして幼子に言うと、きょとんとした瞳で彼を見返し、エンジの方に顔を向ける。
「りゅうしゃん、きらい?」
「そうじゃねぇよ、エンジは陛下以外の奴を乗せないだけで、お前のことを嫌いなわけじゃない」
幼子は、竜は人を乗せて飛ぶのが嫌いなのか、と問うたつもりだった。ちょっと質問の意味を勘違いされたが、得たい答えは返ってきたので頷いておいた。
(へいか、って陛下?王様の竜なのかな?さっきからお兄さんが言ってる『エンジ』が竜さんの名前なのねー)
幼子は、臙脂色してるから『エンジ』なんて単純なネーミングセンスだな、と意味もなく考えていた。ぼーっとしていた眼前に、エンジの恐竜面が迫ってきていて、ふんすっと鼻息をかけられた。
「ふひゃぁ!」
「グルルゥ」
エンジは幼子に謝っていた。幼子を乗せるのはよいが、ギルヴェルトは嫌だと葛藤した末、苦渋の選択で否を選んだのだった。
「どうちたのー?」
幼子はギルヴェルトの腕から身をのりだし、エンジの鼻先を撫でながら小首を傾げる。エンジが気持ち良さそうに黄金色の瞳を細めて、少しだけ鼻を強く押し付けてくるのを幼子は抱きつく形で受け止めた。ギルヴェルトは幼子が潰されないように半身を引いて支えていた。エンジの懐くような行動に、槍でも降ってくるんじゃないかと思いながら。
しばらく幼子から顔を叩かれたエンジは、体を起こし翼を広げる。エンジが帰る気になったのを見てとったギルヴェルトは、数歩下がって飛び立つのを待っていた。が、幼子を見たまま、なかなか飛び立たない。
「ぁ?…ぁー、ちゃんと連れてくから心配すんな」
ギロリ、とギルヴェルトを睨んだエンジは、再び幼子を見つめていた。一向に飛び立たないエンジに、痺れを切らしたギルヴェルトが舌打ちする。
「お前が行かないなら、俺たちが先に行くぞ」
「りゅうしゃん、ばいばい?」
幼子の落ち込んだような声に、ギルヴェルトが諭すように応えてやる。
「ちょっとだけバイバイだな。エンジに、また後でって言ってやれ」
「エンジしゃん、またねー」
幼子がそう言ってエンジに手を振ると、ギルヴェルトは踵を返してトゥーラに付いてくるよう促した。森の中へと消えていく幼子を、名残惜しそうにエンジは見送っていた。
(ギルヴェルトがいれば無事に城へ行くだろうが、まぁ、念のためだ)
「グルラアアアアアーッ!!」
幼子一行の気配がエンジのテリトリーから外れる頃に、エンジは咆哮をあげ北の森を後にしたのだった。
森全域に轟く咆哮の意味は『幼子に手を出したら殺すぞ』という魔獣たちへの警告であった。