あの日の続き
◇◆◇◆◇
白く、静かで、広い部屋。
扉が一つ、窓が二つ。子ども向けの玩具と遊具が幾つか。
耳に届くのは、カチカチと鳴る時計の針と自分の吐息だけ。
そんな閑静な部屋が、クロハに充てがわれた部屋だった。
「……本当、よく再現したものね」
ここはかつての教団の一室、クロハが生まれ育った場所とよく似ている。瓜二つと言っていい。
五年前の【ムラクモ】の襲撃で永遠に喪われたはずの内観だが、大方姉が自分のために用意してくれたのだろう。
昔、姉が言っていた「よく努力の方向を間違えちゃうんだ」という言葉。あの頃はよく分からなかったが、なるほどこういうことか。
呆れを込めて溜息を吐く。この部屋に連れてこられてからおよそ一週間が経ったが、その程度で尽きるものではない。
……そう、一週間。
遥が敗けたあの日から、もう一週間も経つのだ。
「……ハルカ、無事だったのかしら……」
あの時は必死に平静を保っていたが、こうして一人になるとその心配ばかりだ。
遥は強い。それは自分が一番よく知っている。だがそれと同じくらいに、彼が最強無敵の超越者でないことも、また。
今度こそ綱を渡り損ねたとして、何もおかしなことはないのだ。
それに、心配といえば憂姫のこともだ。条件通りに自分が大人しく従った以上、生きてはいるだろう。だが心の方は?
幾ら強力な魔導師といえど彼女は自分たちと違って普通の人間だ。あんな拷問紛いの攻撃を受けて、心に消えない傷を負ってはいないだろうか?
浮かぶのは嫌な想像ばかりだ。
「……こんなこと、考えてもどうしようもないのに」
そもそも自分が心配出来る身分ではない。
くるっぽー、と時計から鳩が飛び出す。短針が正午を指していた。
食事の時間だ。
監獄さながらに扉の下部が開き、トレイが現れる。載っているものは飲み物に食べ物だ――これまた、過去の自分が毎日口にしていた。
並々と注がれた紅い液体に、臭みのある生肉。ピンクと白の中間色の、ぷるぷるとしたゼリーのような物体。
元々は人間だったもの。
鮮度を――何より魔力を損なわないために、最低限の加工すら為されていないそれは、否応にでも生前の姿を想起させる。
幼き日々、邪教の神子への供物として捧げられ、生きたまま食べることを強要されていた時よりは……まだ、マシだけど。
それでも――人肉を喰らい、血を吸い、脳髄を啜ることへの苦痛も吐き気も忌避感も、何一つとして和らぐことはない。
「……いただきます」
食べない、という選択肢に意味はない。ここで食べずとも拘束されてミキサーにかけたものを腹に直接流し込まれるのがオチだ。
『どんな傷でも再生する』というのは裏返せば『何をしても死ぬことがない』ということでもあるのだから。
だから、食べる。食べてきた。
この一週間、毎日。
口元を、服を、体を、血や脳漿で汚しながら、ずっと。
「……遥の料理の方が万倍マシね」
言ってから、流石に失礼かと苦笑する。
遥の料理。特にカレー。どうすればあんなにも凄惨な味の代物が出来上がるのか未だにクロハは分かっていない。
まあ、大雑把なのだろう。いろいろと。
その時、部屋の扉がノックされた。
この場において自分に気を遣う人間など一人しかいない。
「どうぞ」
入室を促すと、今度は一般的な開き方をした扉から現れる赤髪の少女。
クロハの姿を見つけ、顔を明るくした後、食べているものを見てすぐに沈痛げな表情になる。
「クロハ……」
「ええ。一週間ぶりかしら」
言葉通り、姉であるこの少女と会うのは一週間ぶりとなる。
何か用件あってのことだろう、そう思って姉の言葉を待つクロハだったが……少女は何も言わない。
そのまま少しの間無言の時間が続き、耐えかねたように少女は言った。
「……うん、久しぶり」
「…………」
……そのたった一言を言うまでに、どれだけの言葉が無残に立ち消えて行ったのだろう。
喜びも謝罪も心配も、全てその資格が己にないと自罰している。
「……ねぇ、お姉ちゃん。お話の前にひとつだけ。いいかしら?」
「ああ……うん、もちろん。なに?」
「私は、あなたが私のためにやってくれたことを知っている。あなたが私のために動いてくれていることを分かっている。……それだけは覚えていて」
「……そんなことないよ。これは全部、全部。ワタシのためにやっていることだから」
「うん、そう言うと思った。でもね、そんなことを言う人ほど誰かのために全てを費やしているものなの。知っているんだから」
「……ふふ。それは、あのお兄さんのことかな」
根負けしたように、少女は穏やかに苦笑した。
あのお兄さん――きっと彼のこと。
クロハは言う。
「ハルカと話したの?」
「うん。この一週間、いろいろと支度があったから。その一環でね」
「……ハルカが、話したの?」
「まさか。大した話はしてないよ。平行線なのはすぐに分かったもの。ただ……なんでだろうね、よく似てると思ったから」
「ああ……」
それはクロハ自身思っていたことだ。
遥と姉は似ている。在り方とか、考え方とか、いろいろと。
あるいは似ているからこそ、自分は遥を好きになったのかもしれない。
「……用件を言うね。実験の準備が整ったから連れて来いって」
「ええ」
トレイをその場に起き、立ち上がる。
実験。この一週間ひたすら人を食らわせられたのは――魔力と禍力をひたすら高めようとしていたのは、そのためか。
「……安心して。今は辛くても、きっと救ってみせる。ワタシが絶対に何とかするから」
――だから、どうか今だけは耐えて欲しい。
そう言って、少女は踵を返した。
その後に続いて部屋を後にしながら、クロハは小さく呟く。
「…………ごめんね」
◇◆◇◆◇
外は二種類のエリアに分類される。
一つは支配区。パンドラが跋扈する彼らの領域。
ここではパンドラの侵入を阻み、また少しでも多くの領土を得るため軍の主力部隊が日夜死闘を繰り広げている。年間生存率が50パーセントを切る、東京コロニー最大の激戦区である。
もう一つは混成区。正規軍の基地と数百体のパンドラが混在する領域。
支配区から大多数のパンドラを殲滅し、前線が引き上げられた際に生じる区域がこの場所だ。第一区から第百八区に分割され、それぞれの区画ごとに軍の基地が存在している。
混成区に残ったパンドラを一匹残らず殲滅することで、初めて東京コロニーはその領土を広げることが出来るのだ。
遥と憂姫が訪れていたのは、そのうちの第九十七区だった。
『転移完了を確認。うん、こちらから確認できる問題はなしだ。そっちはどう?』
森林に囲まれているひらけた草原に響く氷室の声。しかしこの場所にいるのは遥と憂姫だけだ。
声の元は遥の持つ端末。本人はコロニー内の自身の研究所からモニターをしている。
「問題ない。モニターは正常に出来ているか?」
『ああ。キミたちが心配することは何もない。心ゆくまで戦うがいいさ』
「悪いな。場所を貸して貰って」
『なに、キミとボクの仲だろう? それにキミたちの戦闘データは取っておきたいからね。まぁ後で金とお礼は請求するけど』
その言葉通り、この区画は氷室が所有する土地である。
遥がパンドラアーツとなった三年前、その力を存分に振るうことが出来るように用意した訓練用の場所。氷室の研究所に転移装置が設置されている。
この場所なら例え何が起ころうと――仮に遥が禍力を解放しようと誰にもバレることはない。
遥が憂姫との対決に選んだ舞台だった。
「帰りはまた頼む」
『りょーかい。後は二人で好きなだけ』
プツン、と通信が途絶える。
梅雨時に珍しい快晴。
人が消えてから、自然本来の美しさを取り戻した絶景。
晴れやかな青空の下、遥と憂姫は対峙する。
「さ、準備は整った。後は戦うだけだ」
「……そうですね」
遥は憂姫の力不足を、自分一人でも事足りると分からせるため。
憂姫は遥一人では不足だと、自分も戦えると証明するため。
「お前と正面から戦うのって、これが初めてか?」
「いいえ。前に一度、訓練校で」
「ああ……そういえば。でもあの時途中で止められたしなぁ」
「お互いに全力でもなかったですしね」
けれど今日は違う。
中途半端に終わることだけは、絶対にあり得ない。
「ま、殺さないようにはする。でも手加減はしないから、覚悟してかかって来い」
「上等です。逆に無様にぶっ倒してやりますから、そうなっても恨まないでくださいね」
片や徒手空拳。パンドラアーツの身体能力、【死線】から学んだ対人戦術、あらゆる人間から盗み取った戦技の数々を最大限に活かせる構え。
片や左手に拳銃、右手にナイフ――一剣一銃と呼ばれる構え。汐霧で培った銃術、ユウヒが習得したナイフ術を両立させる、Aランク魔導師汐霧憂姫の全力戦闘体勢。
「じゃあ、早速」
「では、尋常に」
――あの日の続きを始めよう。
開幕の宣言は不要だった。
憂姫の砲火が唸り、遥へと殺到する。
駆け出した遥がそれらを片っ端から吹き散らす。
頑固者同士の大喧嘩が、始まった。