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◇◆◇◆◇
それからしばらくして到着した軍の部隊に憂姫たちは保護された。
ユズリハの魔法によって体の傷は回復していた憂姫だが、血と魔力の消耗が激しく、都立中央医療センターに運び込まれることとなった。
奇しくも担当医は春の件で憂姫を診た女医であり、彼女か呆れ顔を浮かべながら下した診断によると「全治一週間」とのことらしい。
憂姫としてはすぐにでもクロハ救出のために動きたかったところだが、ユズリハの言葉もある。女医の鬼の形相に負ける形で、大人しくベッドの上で体を癒すことにした。
実際、一週間は長いが耐え切れないほどではない。あれだけ無茶をやったことを考えれば、むしろ短いとさえ言える。
「前のときはどうだったんでしたっけ……」
確か、Aランクに上がる切っ掛けとなった事件だった。
外でAランクのパンドラと一騎打ちになり、当時Bランクだった憂姫が死闘の果てに勝利した。
そのときも魔力や生命力を限界寸前まで振り絞り、その後遺症で事件後の三ヶ月は自分の足で立つことすら出来なかったと思う。
それがこの程度で済んだのは、間違いなくユズリハの回復魔法のおかげだろう。いや、アレが回復魔法なんて安易な分類が出来る代物かと言われれば甚だ疑問だが――。
首を振って思考を切る。話を戻そう。
待つのはそれほど問題ではない。だから問題はただ一つ、クロハの身の安全だ。
師が、ひいてはその依頼主がクロハを求めたのには何らかの理由があるはず。それが成されれば、用済みとなったクロハは殺されるだろう。
この一週間が致命的なロスにならないか、そればかりが気掛かりだった。
せめて敵の目的が分かっていれば……詮無いことだが、ついついそう思ってしまう。
……ああ。そういえば、もうひとつだけ気掛かりなことがあった。
「……遥は、今日も来ませんか」
ふう、と溜息を吐く。
軍に保護された際、自分とは別の場所に運び込まれた遥。それ以来一度も会えていない。
担当医に聞いてみたところ、彼はこの病院ではなくどこかの研究所で療養しているらしい。
後ろ暗い人間が多い魔導師という職業において、公的な記録の残る検査を嫌う者は少なくない。遥もその一人――というか事情を知る憂姫からすれば、遥がマトモに検査など受けたらどんな事態になるのか、想像するだけで胃が痛くなる。
だから、まあ、それはいいのだが……彼の性質からして、見舞いの一つも来ないというのはそこそこ意外なことだった。
まさか自分に合わせる顔がない、なんて平和な理由であるはずもない。
……あるいは、そんな時間すら惜しむほどあちこち駆け回っているのか。
「……無茶、してなければいいですけど」
言ってから、まあ無理だろうなと嘆息する。
あの無謀と無茶が服を着ているような男にとって、それはきっと呼吸するなと言うのと同義だろうから。
……だから、せめて自分が側にいないと。
そのためには、少しでも早く復調しなければ。
憂姫は体を横たえ、備え付けの時計を見上げる。
泥でも詰まっているかのように進みの遅い短針が、カチリと音を立てた。
◇◆◇◆◇
結局、遥の姿を一度も見ないまま入院生活は幕を閉じた。
一週間程度の入院では持ち込んだ私物も大した量ではなく、トートバッグ一つに全て詰めてしまえる。
病院からの帰途。じんわりとした梅雨の日差しは少しだけ鬱陶しい。
最寄り駅で降り、C区画を歩く。
ここ数ヶ月ですっかり見慣れた街並みは、あの凄惨な殺し合いなど影も感じさせないほど、元通りになっていた。
「わ、もうこんなに直ってるんですね……」
2222年現在、魔導師やパンドラによって建造物が破壊されることは非常に珍しくない。
そのせいで建築学も医学同様目覚ましい発展を遂げており、どんなに酷く損壊しようが数日で復元が可能となっていた。
さて、と憂姫は歩みを早める。
街並みを眺めるのも嫌いではないが、それはまた今度。全てが片付いた後だ。
懐から携帯端末を取り出し、起動。遥との個別チャットを開き、見る。
今日の日付が変わる頃に送られてきたそれは、こう書かれていた。
『話がある』
『退院したら出来るだけ早く帰ってきてくれ』
「……はぁ」
なんとなく分かる。あまりいい話ではないのだろう。いつもの飄々とした道化の仮面はどこへやら、だ。
そんなことを思っているうちにも足は進む。気付けばこの区画で最も見慣れた家、今や憂姫の帰るべき場所でもある儚廻家の前に立っていた。
鍵を開け、玄関をくぐる。
「ただいまです。……遥ー?」
一言声を掛けるが、応える声はない。
これまた全て直っていた窓などが開いているから遥はいるはず。ならば彼の性格からしてドッキリの類だろうか。
目を閉じ、周囲の気配を探る。
一階には誰もいない。二階、クロハの部屋から遥の気配がする。
やはりドッキリか。だとしたら事前に看破した以上、素直にハメられてやることもない。
……たまにはこちらから仕掛けてみるのもいいかも。いつもからかわれてばかりなのだし。
少しの悪戯心と、入院中に一度も顔すら見せなかったささやかな仕返しに。
憂姫は【スケープゴート】時代に習得した暗殺者の隠形を使い、完全に己の存在を消して気配の元へと近づいていく。
やがてクロハの部屋に辿り着いた憂姫は誰も気付けないくらい僅かに、本当に僅かにドアを開ける。
その隙間から、自己脱臼による拘束解除の応用で室内に侵入して――
――そして、見た。
「クンカフンハ! クンクン! クンクン! スゥー……ハァー……フンフンフンフンフン!!」
部屋の中央、四つん這いになって、服の山に頭を埋めている男の姿。
ゴシックロリータというのだったか、クロハが好んで着る彼女の私服に、いつも来ているロングスカートのクラシックなメイド服。全て、全てクロハの物だ。
それは、いい。この部屋はクロハの私室だ。彼女の服がここにあるのは、首を切れば死ぬ程度には普通のことである。
じゃあ……この、その、服の山に頭を突っ込んで、一心不乱に匂いを嗅いでいるらしい、この男は?
「スンスン、スンスンスン! フゥーン! フゥーン! フンッ……ッッッンンンンンンンフゥ!」
儚廻遥という名のコレが、現在進行形でやっていることもまた、普通のことなのか?
……回答。
んなわきゃねーよ。
「……うわあああああああああああああああ!!?」
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!?」
「ぎゃあああああああああああああああああ!!!」
「ウオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!」
結果。
直したばかりの窓ガラスが、全部割れた。
◇
ところ変わって、リビング。
遥と憂姫は向かい合って正座をしていた。
「……弁明を聞いてください、裁判長」
「どうぞ」
「ちょっと匂いを嗅ぎたくなったので嗅いでました。大変素晴らしい香りでした」
「弁明しろよ……」
憂姫は頭痛を堪えるように頭に手を置き、きろりと半眼を向ける。
「……この話はまた今度にします。私に話したいことがあるんですよね? それも結構重要な」
「ん、その通り。話が早くて助かるよ。……ああ、いや、その前に言わなきゃいけないことがあったな」
言い、遥は座ったまま頭を下げて、額を床につける。
所謂土下座。手足をしっかりと揃え、床にピッタリと張り付くような姿は、手本のように綺麗な土下座だった。
一気に憂姫は混乱する。
「……え!? いや、あの、ちょっと!? さっきの話はひとまず終わりましたし、謝るなら私よりクロハちゃんに!」
「違うよ、そうじゃない。――一週間前、僕はお前たちを守れなかったどころか、暴走した挙句にお前に襲い掛かった。その謝罪だよ」
一切顔を上げず、土下座を保ったまま遥は言う。
「守ってあげられなくてごめん。迷惑掛けてごめん。傷つけてごめん。あんなことはもう二度とないよう尽力する」
「……。なんですか、それ」
「ああ、こんな謝罪じゃ何もならない。ちゃんとお前の学院の口座に金を振り込んでおいた。足りなければ、もう少しくらいは払うよ」
「そういうことじゃないです。……その謝罪はどういううつもりかと聞いているんです!」
怒りを隠さず、憂姫は叫んで立ち上がった。
遥はようやく頭を上げ、しかし正座は崩さず憂姫を見上げる。
「どういうつもりも何も、そのままの意味だよ。何の含みもなく、言葉にした通りの謝罪だ。……ああ、信じられないとかそういうこと? それは……うん、それもごめん。日頃の僕が全部悪い」
「違います! 何を謝っているのかなんて、ちゃんと分かっています! いいですよ、受け取りますよ。迷惑掛けられたことも傷つけられたことも、ちゃんと謝罪を受け取って、水に流しますよ!」
元より憂姫は根に持ってなどいない。あんなにもなるくらいに遥が無理をした、無理をしなければいけなかった。それが分からないほどの馬鹿ではない。
自分だって、昔似たような暴走をして遥に迷惑を掛けた。それを許してくれた相手に、自分だけが怒ることなどどうして出来ようか。
だから、憂姫が頭に来たのはそのことではない。
「なんですかっ、『守ってあげられなくて』って!? 私は、私はっ! 遥と一緒に、クロハちゃんを守る側の人間でしょう!?」
それが、なんで。
「なんで、勝手に守られる側の人間にしてるんですか!?」
「お前が弱いからだよ」
ふ、と。
遥の雰囲気が、冷めた。
それまでの自罰的な様子から一転して、冷徹に事を遂げる魔導師の顔になっている。
「……。話がある、と言ったな」
遥が立ち上がる。憂姫に目を合わせて、口を開く。
それから続く言葉に、憂姫は自分の耳を疑った。
「三日後、敵の拠点を強襲する。場所は外。目的はクロハの奪還だ。――汐霧。お前はコロニー内に残ってオペレーターをしてくれ」
「…………、な」
何を言っているんですか、と言おうとして、声が出ない。
だって、それは、つまり。
「この先は、明らかにお前には荷が勝ち過ぎる。今までとは比べ物にならない。だから下がっていろ。……多分、後は僕一人でも何とかできるから」
そう言う遥の瞳は、冗談や嘘を言っているものではない。
本気で言っているのだ。こんな、こんなことを。
お前は足手まといだから、邪魔にならないところにいてくれ――と。
本気で。この男は、どこまでも本気で。
……この時、憂姫は二つのことを知った。
一つ。人は心の底から怒った時、言葉を吐く余裕など跡形もなく消え去るということ。
二つ。かつてクロハが言った通り、否それよりも更にずっと――遥にとっての自分は、対等でも何でもなかったのだということ。
「ッ、ッ……!」
衝動のままに目の前の相手を殴り飛ばそうとする体を必死に抑える。
どんなに心ないことを言われたとしても、反論もせずに暴力に走るのでは。それを認めるのと同義だ。
それだけは、断じて許せるものか。
「……へえ、意外だな。てっきり殴りかかってくるかと思っていた」
「そうしたいと……心底から思っていますよ」
「だろうね。それだけのことは言った。ああ、これについては謝るつもりも金を払う気もないから悪しからず」
「いらないですよ、そんなもの。……ああ、少し落ち着いてきました……」
激情の熱から少しずつ、本当に少しずつだが覚めていく。
気づかぬうちに握り締めていた両の拳からは血が滴っている。微かに痛むが、どうしようもなく体が熱い今はちょうどいい。
「……。聞きます、遥」
「ああ。答えるよ、汐霧」
「……私はあなたにとって、一体なんですか?」
「道具だ。ある女の子を救うための、絶対に壊すわけにはいかない、大切な道具」
「……そうですか」
それがどういうことか、掘り下げたりはしない。
必要なのは、自分が相手にどう思われているか。
そして。
「もう一つ聞きます」
「答えよう」
「考えを変える気は、ありませんか」
「ないよ」
「……そうですか」
理由も、脈絡も、そこに至るまでの道筋と必要ない。
それだけ分かれば十分だった。
次に自分が何をすればいいか。それが分かったのだから。
決意の時? 否。それはもう済ませている。
ならば今こそ決断の時。踏み出そう。
前へ。
「言います。私は足手まといなんかじゃありません」
「言おう。僕はそうは思わない」
「重ねて言います。私がいないと、きっと失敗します」
「重ねて否定する。僕はそう思わない」
「更に重ねて。私は師匠だろうと斃して見せます」
「更に否定を。僕はそう思えない」
「最後に一つ。……私は、死にません」
「最後に一つ。……僕もそう思いたかった」
予定調和のような、明快で明確な流れ。
その果てがどこにあるのか、憂姫も遥も理解している。
憂姫が遥に望むもの、遥が憂姫に望むもの。
どちらも容易く得られるものではなく――戦って、相手を下した先にあるもの。
故に、憂姫は言うのだった。
「――私と戦ってください、遥」
予告
東京パンドラアーツ
第96話
「あの日の続き」