顔が近い
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◇
半死半生の体を必死に動かして、ようやく到達した地上で憂姫が見たもの。
それは、地獄だった。
「ぎぃやあァァァァァあああああああ!!」
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」
「来るなっ、くる……いぎ、ぎ!? うぎぃぃぃぃぃぃぃぃ!!?」
連鎖する悲鳴。軍人達がみっともなく逃げ惑い、一秒後に八つ裂きにされて沈黙する。
その中心に立つのは、憂姫がよく知る男の姿だった。
「……はる、か……」
腕を振るうたびに人が死ぬ。
地を蹴るたびに人が死ぬ。
咆哮するたびに人が死ぬ。
彼は、暴虐の限りを尽くしていた。
ふと憂姫のすぐ近くに何かが飛んで来た。
水の詰まった皮袋を力一杯地面に叩きつけたような、そんな音が上がる。
人体が弾け飛んだ音だ――憂姫はそう理解しながらもそちらを向く。
予想通り、着地の衝撃で体の至る所が裂けて潰れている女性の死体。腹から下がないのは遥の拳を喰らったからだろうか。
襟元の階級章は大尉。それを見て、あのマンションで戦った中隊指揮官の女軍人だと思い至る。
では遥が戦っているのは、梶浦率いる正規軍ではなく、その裏切り者達か。
思い描いた最悪の事態が現実でなかったことに憂姫は安堵する。
だが……このまま遥のあの状態が続けば、それもまた現実となるだろう。
そうなれば幾ら遥でも殺される。万一殺されなかったとしても、その時はコロニーが崩壊するだろう。
「止め、ないと」
懸念はそれだけではない。今は理性が一欠片でも残っているのか禍力を使っている様子はないが、その自制が消えたらどうなるか。
今すぐにでも止めないと、遥に待つのは破滅だけだ。
……だが、出来るのか。
この一歩歩くのがやっとの体、意識を保っていられるのもあと数分。ただでさえ、まるで叶わない実力差があるというのに。
今の遥を打倒するだけの力が自分にはない。
立ち向かっても、ただ無駄死にするだけ。
――それでも。
呼吸を整える。裂けた足、割れた膝に気力を振り絞って力を込め、立ち上がる。
辺りに人影はない。全員死んだか、どうやらあの女大尉が最後の一人だったらしい。遥の周辺には、それが何人だったかも分からないほどの血肉が溢れている。
その、遥が。
立ち上がった憂姫に、おもむろに向き直った。
「……なんて顔、してるんですか」
理性を放棄した化け物の顔。瞳からとめどなく血涙を流し、口元だけが獰猛な笑みを描いている。
その顔を見て、憂姫は思わず苦笑してしまった。
……いつもの笑顔は、そりゃ見れたものじゃなかったけれど。
「今のあなたよりは……万倍マシですよ」
「…………」
憂姫が期待した、いつもの飄々とした返答はなく。
ただ、獲物を見つけた化け物の目だけが、返って来た。
遥が駆けた。
彼我の距離が一瞬で征服され、目前に拳を振り上げた遥の姿が現れる。
回避も防御も間に合わない。せめて目だけは逸らすまいと、迫る拳を睨みつける。
その拳が、目と鼻の先でピタリと止まった。
見えない壁にぶつかったように轟音を撒き散らして、唐突に。
「……え?」
「―――ッ!」
後方に飛んで距離を取る遥、その体を追うように、白い光を帯びた蒼氷が次々と出現する。
ただの氷でないのは、一目見て分かった。
「――っ、ぁ」
瞬間、憂姫の体から力が抜け落ち、その場に崩れ落ちた。
使い果たした魔力、全身の傷から間断なく流れ続ける血液。その両方の致命的な欠如による肉体の限界だ。
目の前のものが見えなくなり、音も遠く届かなくなる。
――今ここで意識を失えば、そのまま二度と目を開けることはない。
それは憂姫本人はもちろん、彼女を救けた人物も理解していた。
「凍りなさい」
たった一言で魔法が発動し、憂姫の全身が凍りつく。しかしそれは攻撃を意図してのものではない。
その通り、数秒ほど時間が経つと、産み落とされるように蒼氷から解放される憂姫の姿。
その全身に傷はなく、顔色もすっかり生気を取り戻していた。
「……死にたくないならそこでじっとしていなさい。傷は治したけど、血と魔力は完璧に戻せたわけではないから」
「……え……」
憂姫は呆然と声の主を仰ぐ。
涼やかな金髪碧眼。白皙の美貌、淡麗な容姿はまるで人形のようだ。凍りついたかのように無を徹底している表情が、より一層その印象を強くさせる。
あらゆる機関からその力を欲され、その全てに見向きもしない天才魔導師。
遥が『お嬢さま』と呼び慕う、その少女の名前は――
「那月、ユズリハ……?」
「ユズリハでいい、汐霧憂姫。長いもの」
そう言い、ユズリハは片手を振るう。秒を跨がず飛来する極光――しかし憂姫たちの寸毫手前で停止し、音を立てて氷結した。
氷結は侵食し、やがて極光の主にまで届く。堪らず後退する遥。
無感情な瞳でそれを見るユズリハに、憂姫は自身の混乱をそのまま口に出した。
「なんで……ユズリハさんがここに……?」
「そんなの、あのお馬鹿を止めるために決まっているでしょう。――どうせあなたもそうなんだから、隠れてないで出て来なさい。藤城純」
「……あー、やっぱバレてたか」
トン、という足音。
どこにいたのか、憂姫を挟んで反対側に藤城が降り立つ。染めたと一目で分かるくすんだ金髪の頭をガリガリと掻く彼を、ユズリハは睨むようにして、言った。
「この娘を見殺しにしようとした理由を聞くわ」
「そりゃ誤解だな。オレはお前が助けると踏んで行かなかっただけだよ。無用な手助けほど邪魔なものもあるまい?」
「どうだか……」
「大体命についての問答はお前とだけはしたくねぇなぁ。どの口で綺麗事ほざいてるのか不思議で堪らねえよ、なぁ?」
「……?」
「ハッ、身に覚えがないって顔だな。そのうち殺してやるから楽しみにしとけよ」
「……何のことか分からないけど、ひとつだけ。――身の程を知りなさい、愚か者」
「あ、あのっ……!」
言い合いは次第にヒートアップしていき、互いが互いに殺気を向け出す始末。
このままでは不味いと直感した憂姫は、何を言うかも考えないまま、口を挟んだ。
「あなた達は……その……!」
「――ここにいるのか、はたまたアイツのあの状態を見ても驚かないのか、ってところか?」
ひとまず殺気を収め、憂姫の言葉を継ぐ藤城。
どう言ったもんかね……と彼は少し思案した後、口を開いた。
「何の理由もなく、学院の落ちこぼれなんぞに構わんさ。己の全てを捧げた目的があって、それを叶えるためにアイツの友達をやっている。オレも梶浦も、そこの女もな」
「…………」
ユズリハか何も言わない辺り、それは真実なのだろう。
遥の周りには学院――どころか東京コロニー全体で見ても類を見ないほどの天才が集まっている。あれは偶然などではないということらしい。
「誤解ないよう言っとくと、オレ個人としてハルカのことは結構好きだよ。もしアイツが目的と関係なかったとしても友達やってもいいってくらいには気に入っている」
「…………」
「……が、しかし。そもそもその目的がなければ話すこともなかったと、まあ、そういうことだ。そこの冷血女も同じだろうさ」
「……分かったような口を利かないで。不快よ」
「そりゃ良かった。オレは何するでもなくお前がいるだけで不快だったからな。これでトントンってわけだ」
「…………」
両者の間に再び凄まじい殺気が満ちる。
出会った当初の遥と自分でさえここまで険悪ではなかったと思う。何があったらここまで仲が悪くなるのだろうか。
そこで、再び魔力の流星雨が降り注いだ。
いつの間にか頭上高くまで移動していた遥の魔法、遥が【センレンアーツ】と呼ぶそれは――しかし手を振りかざしたユズリハと適当な調子で蹴りを放つ藤城によって、一つとして憂姫に届くことはなかった。
「……無駄話はそろそろおしまい。そろそろあのお馬鹿をを止めないと」
「ったくあの馬鹿が……ああ、どうする? 各々勝手にやるか? それとも協力するか?」
「……拘束と詰めは私がやるわ」
「ならオレは前で適当に打ち合いながらの誘導かね。まあ妥当だろうさ、反吐こそ出るが……んじゃ任せた」
言うが早いが、藤城は無造作に遥へと向かっていく。悪感情を隠しもせず、必要以上の連携を取る気は一切ないらしい――いやそんなことよりも。
「藤城っ、何を……!?」
遥と師の死闘を見ていた憂姫の目には、それが自殺行為と等しく映る。
あんな隙だらけで無防備な体勢では、今の遥の速度に対応出来るはずがない。一秒かからず挽肉にされる。
事実、遥は一秒足らずで藤城へと肉薄、拳を引き絞っていた。
だめだ、殺される。
変えようのない未来を前に、憂姫は目を見開く。
そして、見た。
――避けざまに遥の顔面へと拳を叩き込む、藤城の姿を。
冗談のように遥が吹き飛んだ。
「顔が近い」