死蹂奏《カルテット》
◇
廊下を、憂姫は走っていた。
マンション内は非常灯すら点いておらず、視界はゼロに等しい。
しかし憂姫にも、それを追う者達にも、そんなことは何の障害にもならなかった。
「【アサルトスフィア】セット、ロック!」
憂姫の周りに無数の魔弾が形成される。
その光によって辺りが照らされ、暗闇から憂姫と追跡者達の姿が浮かび上がった。
誘導弾が解き放たれるのと、八人による一斉射が行われたのは、ほぼ同時だった。
「つっ……!」
擦過した銃弾に頬を切られ、赤い液体が飛び散る。
一発の威力なら憂姫の魔弾、しかし数の差が圧倒的だ。追跡者達――軍の一個分隊は、一度の射撃で憂姫の10倍近くを軽く撃ち込んでくる。
「ッ!」
頬の血を指で払い、疾走の速度を上げる。後ろからは散発的に銃弾が飛んでくるも、憂姫の疾走が速く、また完全に無音なこともあって当たる気配はない。
いや、そもそも軍人たちにとって命中するかどうかはどうでもいいのだ。
何故ならここは廊下という一本道。幾ら巨大なマンションと言っても、果てがないはずがないのだから。
そして、それはすぐに訪れた。
「……」
憂姫が足を止める。目の前には壁があり、左右に道はない。
そして自分の来た道からは、八人もの戦闘のプロが迫っている。
袋小路。絶体絶命。
そんな言葉が頭を過って、消えた。
やがて分隊の隊長らしき男が一歩前に出て、重々しく口を開く。
「……『神子』をどこに隠した? 答えなければ射殺する」
「……」
「そうか。――撃て」
八つの銃口が火を吹いた。
夥しい数の銃弾が吐き出され、憂姫とその周囲の空間をまとめて破壊し尽くす――
その寸前で、憂姫が動いた。
「【コードリボルバ】」
引き金を引く音。瞬間、憂姫の全てが超音速まで加速する。
跳躍し、背後の壁に足から着地。その壁を蹴って角度を転換、天井へ。稲妻のようにそこで加速が終わる。
そのまま銃撃が終わるまでたっぷり一秒、上下逆さまのまま力を圧縮、圧縮、圧縮して――
そして、終わりの引き金が引かれる。
――カチンッ。
「【コードリボルバ】ッ!」
打ち出された砲弾のように加速した憂姫が部隊の中心に激突。その爆撃じみた衝撃で落下地点にいた二人の意識を奪い去る。
驚愕とともに向けられる銃口。想定外の奇襲への対応としては余りに速く――しかし、この零距離で憂姫を捉えるには余りに遅かった。
「カラフル――」
憂姫の片手が光り、解ける。現れたのはグリップとグリップを繋ぎ合わせて作り出された片手版の二丁拳銃。
使用者の魔力を衝撃に変換して放つ魔導銃、その名を――
「【コードストライカ】ッッ!」
肉を裂き、骨を砕く音が連鎖した。
憂姫を中心に撒き散らされた戦車砲の如き魔力衝撃。軍人たちは紙切れのように吹き飛び、周囲の壁に叩きつけられて気絶する。
憂姫は再び【コードアサルト】を展開し、七連射。魔弾を軍人たちの顔面に叩き込み、顎を正確に砕き割る。
そして最後の一人、隊長格の男へと歩み寄り、胸倉を掴んで引き起こした。
「死にたくなければ吐いてください」
「……」
「起きているのは知っています。あなたにだけはわざと弱めて撃ち込みましたから」
「っ……誰、が」
「そうですか。なら用はありません」
言い、憂姫は男の顎を拳銃を握った右手で叩き割った。
形容しがたい音とともに沈黙した男を憂姫は冷めた目で一瞥し、身を翻す。
そして頭上の天井を見て、呟いた。
「クロハちゃん、もう出てきても大丈夫です」
「……必要なかったわね、私」
トン、と憂姫のすぐ上にあった通気口からクロハが飛び降り、着地する。
万が一の場合の憂姫のバックアップとして待機していたクロハだが、彼女の言葉通りその必要は全くなかった。それどころかただの一人すら殺さずに制圧してしまったのだから。
間近で見るAランク魔導師の強さに、何をどうすれば人の身でここまで強くなれるのかと半眼になってしまう。
「……まあいいわ。それよりユウヒ、彼らにトドメは刺さなくていいの? もし嫌なら私がやっておくけれど」
「クロハちゃんにやらせるくらいなら私がやってます。そうじゃなくて必要ないんです。顎を砕いたので魔法は使えないですし、後続の足を引っ張ることも出来ますから」
警戒させて足を鈍らせるなり、治療する時間の分足を止めさせるなり、むしろ殺さない方がよほど利となる。
「それで次は、っ……」
歩き出そうとした憂姫の体が、不意にふらつく。
すぐに持ち直すも、その眉間に刻まれた皺は手負いの獣を彷彿させる。
クロハは急いで駆け寄った。
「ユウヒ!」
「ごめんなさい、大丈夫です……もう、落ち着きました。次の場所に向かいましょう」
「駄目。少しでいいから休みましょう。もうこれで三部隊も相手にしたの、疲れるのだって当然だわ。ずっと全力疾走しているようなものなんでしょう?」
「……気持ちは嬉しいですけど、そんな余裕はありません。既に二部隊相当の気配がすぐ下の階層から来ています」
「だとしたなら尚更よ。そんな状態で行って負けたら目も当てられないでしょう」
「……なんとかします」
その返答に、クロハは心の中で嘆息する。何故自分の周りの人間は、こうも無茶と無理ばかりを得意とする人種ばかりなのだろうか。
クロハは憂姫の手を取り、引っ張って歩き出す――下階ではなく、上階を目指して。
「上に退がるわ。防衛線を引き直しましょう。残り時間はあと……30分くらいね。だったらそれでもギリギリ持ち堪えられるはずよ」
「危険です! せめて二部隊のうちどちらか片方だけでも片付けておかないと……!」
「それこそ危険でしょう。各個撃破が狙える状況じゃない。恐らく二部隊同時に相手にすることになるわ。幾らあなたでも……勝てたとして、少なくない手傷を負うことになると思う」
自分は、それが怖くて仕方ない。
クロハはそんな本音を何とか喉元で押し留める。それを言ってしまえば、自分のことを想って、自分のために戦ってくれている遥と憂姫を蔑ろにしているようなものだから。
首を振って思考を打ち消す。今必要なのは、そんなものじゃない。
「……ユウヒ。ハルカの真似がしたいなら、悪いことは言わないわ、やめなさい」
「……!」
「ハルカがあんなに無理と無茶を重ねられるのは、彼の中に【死線】の教えがあるから。自力で、自分の意思で限界を超えられるからよ。そんなの誰にでもできることじゃない。いいえ、できる方がおかしいの」
そんな教育をした【死線】も、それを可能とする資質のあったハルカも。
一部とはいえその過程を見てきたクロハには分かる。アレは彼ら以外の誰だろうと模倣していいものではない。
「厳しいことを言うわ、ユウヒ。あなたは私を守りたいと思うのと同時に、ハルカの『相棒』という言葉に応えようとしているのだと思う。でもアレは嘘よ。あの人がよく使う、ただただ残酷なだけの戯言。本気にしては絶対に駄目なの」
「………」
憂姫とて馬鹿ではない。あれに一欠片すら本心が込められていないことくらい、言われた瞬間に気付いている。
ああ、分かっている。冷静に、客観的な事実として、分かっているのだ。
「だからユウヒ、逃げましょう? あんな言葉に命を懸けるなんて馬鹿げている。いえ、そもそもあなたが命を懸けること自体がおかしな話なの。ただ一緒に暮らしていただけなのに、私のせいでこんなことに巻き込まれて――」
「――違いますよ」
堰を切ったように溢れた言葉を、憂姫は意志の力とともに撃ち砕く。
遥の言葉は嘘だ、そんなものに命を使うなど自分の大安売りに他ならない――そんなことは分かっている。どこまでも正しいと思えるし、心の底から賛同出来る。
だからこそ――自分がここにいて、こうして戦っているのは。
決してそれだけのためではないと、自信を持って言い切れるのだ。
「……遥の言葉に思うことがなかった、と言えば嘘になります。そういう心があったのも、きっと事実です。でも――誓って、それだけなんかじゃないですよ」
「え……?」
「当たり前です。あんなやっすい嘘っぱちの言葉なんかより、クロハちゃんの方がずっと大事に決まってるでしょう」
私をなんだと思ってるんですか、もう、と憂姫は冗談めかして憤慨してみせる。
ああ、全く。お高くとまるつもりは毛頭ないが、あんな言葉でどうにかなる安い女と思われるのは心外もいいところだ。
「確かに遥の言葉は嬉しかったですよ。でもそれだけです。あんなのに動かされたりなんてされてやりません。私が今ここでこうして頑張っているのは、単純にクロハちゃんを守りたいからですよ。だからいくらでも無理するし、したいし、出来ちゃうんです」
何を今更という話だが、クロハにとっても自分にとっても、戦う理由の再確認は必要なことだと思えた。
憂姫は穏やかな表情を浮かべ、それを告げる。
「ここで敵を削るのは、無理をしてでもやらなければいけない必要なことです。私が今一番成し遂げたいことのために必要なことなんです。……だから行きます。行って、倒します。難しいことなんてない、たったそれだけのことなんですよ」
「っ、この分からず屋! そんな意地を張って、もし死んだらどうするのつもりなの!? あなたは私たちとは違うの、人間なのよ! 銃弾が一発でも当たったらそれで死んじゃうのよ……!」
「ありがとうございます。でも大丈夫です。一発だって当たりませんから」
地の利はある、先制の条件も整っている――ならば話は簡単だ。自分なら出来る。
一つ、『非殺』という誓約を破り捨ててしまえばいい。
心を凍らせろ。
存在を暗闇で塗り潰せ。
殺意を鋭利に研ぎ澄ませ。
血塗れた暗殺者を、ここに。
「な……にを……ぁ、だ、駄目! それは絶対、絶対に駄目!?」
「……おかしなクロハちゃんですね。何が駄目なんですか?」
「分からない、けど……! けど、何をしようとしてるか分からないのに、それが駄目なことなのは分かる! やめて、お願い……私なんかのために、あなたを犠牲にしないでよ……!!」
「……」
涙まで浮かべて懇願する少女を前に、憂姫の心に妙な感慨が湧く。
ああ、なるほど。この娘がこんなだから、私も遥も、こんなにも守りたいと思えるのか。
ならばもはや、迷いはない。
「クロハちゃんは先に屋上に行っててください。後で絶対に迎えに行きますから」
「あ……!」
クロハの手を優しく解き、階下に向かおうとする憂姫。その後ろ姿に、クロハは何か言いたくて、しかし言葉が出てこない。
そんなクロハを、憂姫は一度だけ振り返り、微笑んだ。
「心配してくれてありがとう。でも、大丈夫ですから」
そして、憂姫は走り出した。
後には静寂と、行き場のない罪悪感だけが残った。