戦火の咆哮 d
腰から注射器を引き抜き、喉に突き刺す。残るトキワはあと一本……しかし、ああ、糞、そんなことよりも。
歪む視界、狂う感覚、酷い酩酊感の中で――アリスと、体勢を立て直したシグレが向かってくるのが分かった。
「……ッァァアアアアアアアアアアア!!!」
故に遥は咆哮し、立ち向かう。最低、最悪のコンディションでもお構いなしに。
そして繰り返される死の舞踏。しかしその光景は、先ほどまでとは似て非なるものと化していた。
斬撃とともに舞う鮮血。
爆撃とともに舞う肉片。
反撃は、ない。
自身の身を襲う攻撃の怒涛に対し、遥は最早防戦一方となっていた。辛うじて直撃こそないものの、それもまだという話。
動きからキレが失われ、ただ泥臭くもがくしかない。
「ッッァア゛!」
両手を打ち鳴らし、鋼糸を展開する。目視の難しい暗器による不意打ちは、当たり前のように難なく躱される。
剣閃が脇腹を抉り爆風が背を焼く。鋼糸は誰にも当たらぬまま、ドームのように戦闘圏とそれ以外を隔てた。
これでは逃げ場がなくなるどころか、万一の場合の憂姫の救援すら届かなくなってしまう。
回収しようにも、そんな余裕はもうない。
「――疾」
「あっは、ハルカその程度!? その程度なの!? ねえねえねえねえ!!」
劣勢を晒す遥に対し、アリスとシグレは容赦なく攻め立て、責め立てる。
ほらほらどうした、お前はこんなものじゃないだろう、期待に応えろ裏切るな――曇りのない残酷極まる応援を攻撃に乗せ、叩きつけるのだ。
「ヅッッ……!」
死に体ながら、遥はその期待の最低限を何とか越えて行く。
トキワの作用によってエラーを吐き出し続ける五感、激烈な痛み、嘔吐感に耐え、逆襲の機会をひたすらに待ち忍ぶ。
その瞬間がやって来るか、それより先に自分が力尽きるか。
己の命をベットした賭けに……遥は勝利した。
「……あれっ?」
今まさに遥を殴り飛ばそうとしていたアリスの体から急に力が抜け落ちる。
シグレによる背中の負傷、遥によって折られた肋骨、更にこれまでの小さな傷の数々。底なしの闘志と殺意で無視していたダメージの積み重ねが、ようやく表に出てきたのだ。
その瞬間を遥は見逃さなかった。
「オォッ!!」
「あれまっ!?」
地面スレスレまで体を落とし、猛然と突進。そのままアリスの下半身にぶちかまし、吹き飛ばす。
寸前で自ら跳んでいたため大したダメージにはならないが……今の遥にはそれで充分だった。
「【三日斬月】」
「ッ!」
風のように疾走しながら放たれた三日月型の剣閃を、遥は転がって躱す。
そして回転受け身の要領で近くの地面を手で叩き――そこに埋まっていた地雷を起爆させてやる。
「……っ」
如何なシグレと言えど人一人を簡単に吹き飛ばすような爆風に抗う術はない。故に馬鹿正直に突っ込むことはせずに迂回する。
一方遥は爆風により凄まじい勢いで転がり、その場を離れることに成功した。
全身無事なところを探す方が難しいほどの重傷だが、幸い欠損している部位はない。
だから、再生する。
全身から骨や内臓が弾け、結合する音を鳴らしながら、遥は立ち上がった。
「シィィィィ……!」
そしてようやく――ようやく。
五感が正常に戻り、酩酊感が抜け落ちる。
体が動く。
不具合なく。十全に。
溜まりに溜まった息と血を吐き出し、迫り来るシグレ、アリスを睨みつける。
自分は満身創痍、翻って敵二人に大した傷はない。アリスは戦闘不能には未だ遠く、シグレに至ってはほぼ無傷だ。
勝ち目など皆無、待ち受けているのは更なる傷と痛みばかり。
それでも遥は戦うことをやめない。
愚直に前だけを見つめ、真っ向から己が敵を迎え撃つ。
「ウ……ォオ、オ――オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッッ!!!」
命を振り絞るような咆哮。
ウォークライⅡ。
ウォークライの重ね掛け。
『ハルカ』の正真正銘、最後の切り札。
更なる痛み、痛み、痛み。肉体は当たり前のように限界を迎え、損傷と再生の均衡が崩壊する。
ただ立っているだけでも壊れていく体。ゼロを振り切りマイナスに突入した肉体強度。
保って三分。それが限界。それまでに解除しなければ全身が、脳や心臓までもがグチャグチャに潰れて死んでしまう。
――問題ない。一分あれば充分だ――
上体を落とし、疾駆する。その速度は先ほどよりも更に速い。刹那のうちにウォークライで怯んだ二人の懐に身を投げ込んだ。
先制の手刀。心臓へ向けてまっすぐに解き放たれたそれを、シグレは半転して躱した……が。
「――っ」
避けきれずに掠った胸部から鮮血が舞った。
シグレは常より僅かに目を見開く。反射神経に優れる自分に攻撃を当てたというのは決して侮っていいものではない。
「フゥッ――」
それ故、シグレは最適な行動を取る。
見切り一閃、自身の体を紙一重過ぎていく腕を掴む。パキポキと小気味のいい音を立てて砕け折れる腕。
紫を通り越してドス黒く変色していたが、何ら気にすることなく力を込め、引いてやる。
ぐらり、と体勢を崩す遥の体。
シグレはその腹に、容赦なく刀の柄を叩き込んだ。
何か水々しいものが破裂する音が響いた。
「バ、ブ、ギュッッ……!」
遥は口から異音を奏でながら、一歩二歩と後退する。
今の一撃で胃が破裂したのだろう。頬がリスのように膨れ、そこに食道を逆流した血と胃液が凄まじい勢いで溜まっていくのが分かる。
「……!」
「ヒャッハァーーーーー!!」
追撃しようとしたシグレだが、その様子から何かを直感したのか素早くバックステップ。
反対に、そんな直感など知ったことかとアリスは直進し、追撃を仕掛けた。
アリスの五指が遥の首を握り潰そうと迫った――その瞬間。
「……ッッッォォオオエエエエエエエ゛エ゛エ゛エ゛エ゛エ゛エ゛ッッッ!」
勢いよく顔を上げた遥が、口の中のものをまとめて噴出した。
胃液、血、ぐずぐずになった内臓の残骸。それらがカウンターのタイミングでアリスの顔面へと降りかかる。
攻撃体勢に移っていたアリスは避けられなかった。
真っ向からゲロと血のシャワーを浴びてしまう。
「っっっァアァァア!?!? 目ぇっ、目がァァァアッハハハハハハハハハ!!」
「――ウゥラァアッ!!」
目を焼く強酸に視界を奪われ、狂笑しながら転げ回るアリス。遥はその尻を思い切り蹴り飛ばす。
水切り石のように跳ね飛んだアリスはそこら中の地雷を起爆させ、後退したシグレのすぐ側で止まる。連続した爆風と衝撃に、シグレは一瞬の停止を余儀なくされる。
土煙が巻き上がり、視界がゼロになる。
シグレは土煙を散らそうと刀を構えるが――キンッ! 寸前で構え直し、音もなく飛来した何かを叩き切った。
真っ二つになった注射器が中の液体をブチ撒け、回転しながら何処かへ落ちていく。
遥の生命線である精錬薬トキワⅡ。彼以外が使えば瞬く間に精神を壊す劇薬。
遥はその特性を利用し、こちらの裏をかいて必殺の一手として使った。
――その一手を予測出来ていたシグレは、乾坤一擲の不意打ちを難なく処理した。
シグレは再び刀を構え直し、詰みの一撃を放とうとして、気付く。
自身を包囲して迫る幾つもの風切り音――鋼糸が奏でるそれ特有の音。
「……ふふっ。そっか、これが狙いかぁ」
いつの間にか立ち上がっていたアリスがひとりごちる。
土煙と爆風で視界と行動を奪い、注射器で注意を引く。そしてあらかじめ全員を囲むように配置していた鋼糸が本命、と。
暗器に類する鋼糸はただでさえ目視が厳しい。それを確実に当てられる状況を作り出したこと、あの極限状態からここまでの布石を打てたことは素直に素晴らしく思う。
事実、あと一秒足らずで鋼糸は到達し、自分たちを拘束するだろう。そうなっては最上級の魔導師といえどどうすることも出来ない。
だが――ああ、だがしかし。
「あと一手足りなかったねえ」
「……」
同意するようにシグレは納刀した鞘に手を添わせる。
そう、あと一手足りない。確かに回避こそ不可能だが、それがどうした。如何な硬度を誇る鋼糸だろうがシグレにかかれば簡単に切り裂くことが出来てしまう。
これで詰み。
鋼糸を失ってしまえば、遥がアリスとシグレの二人に決定打を与えることは絶対に出来ない。
その事実は二人にとって周知であり――
「―――ッ!!」
――当然、遥も当たり前に分かっていたことだった。
「うっそ!?」
アリスは声を上げる。
それは攻撃の準備が出来た自分たちに馬鹿正直に突っ込んでくるという自殺行為に対してでも、鋼糸の射程圏内に自ら入り込むという自殺行為に対してでもない。
目を血走らせ、空気を限界まで溜め込んで膨らんでいる彼の胸部を見たからだった。
その予備動作から繋がる技を、二人は知っていた。
今日既に二度放たれている戦技。
自損技。
ウォークライ。
「ウ゛――オ゛、オ゛……ッオ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛ッ!!!!!」
ビリビリと震える空気。
意思に関係なく萎縮する体。
二人の動きがその一瞬、完全に止まった。
遥の全身が弾け飛ぶ。
骨と血を花火のように散らしながら、それでも両手を握り込む。
その十指から延びる鋼糸が一瞬、燦然と輝いて。
そして、静寂が訪れた。
「…………」
「…………」
「…………」
遥も、アリスも、シグレも、誰も動かない。否、動けないのだ。
三人の体には鋼糸が至る所に蔓延り、雁字搦めにしているのだから。
下手に動けば体のどこかが切り落とされる。それどころか遥が指をもう少し握り込むだけで、全員が同時にバラバラの死体となるだろう。
つまりは将棋で言うところの千日手。
これ以上ないほどの引き分けである。
そのまま無言の時間が続き……程なくしてアリスが口を開く。
「……最後のあれ、ウォークライ。そう、ウォークライⅢって言えばいいのかな。ねえ、確かウォークライってⅡまでが限界じゃなかったっけ?」
「………………ぼ、……く、は…………だれ、だ……?」
「ああなるほど。そうだね、そうだったね。限界突破はお手の物と……ああ、そっかそっか。忘れてたよ、うん、あははは」
かつて【死線】が先生としてハルカに課していた教育。前提条件として限界を超えることが求められる、必死の日常。
生存の確率が一割を切るような教育を十年間、ほぼ毎日ハルカは受け、そして乗り越えたのだ。
【死線】が死んだ今とて、それは特に変わっていなかったらしい。
アリスは嬉しそうににこにこと微笑んだ。
「…………」
一方の遥は、それを気にするだけの余裕などどこにもなかった。
ウォークライⅢ。ウォークライⅡに更にウォークライを掛けるという、術理としては単純な戦技。
メリットは身体能力がウォークライⅡより更に上がること。デメリットは肉体崩壊の速度が早まり、制限時間がウォークライⅡの十分の一程度になること。
……使ってから理解した戦技の概要を分析し、苦笑する。なんだこの技馬鹿じゃねえのと。
要するに最大でも十八秒しか使えない上に、効果が切れればこの体たらく。気のせいか再生まで酷く弱まっている。
まさかここまでコスパの悪い技が存在するとは。
自分が開発した技を嗤い、そんなものを使った自分をそれ以上に嘲笑う。
遥は内心で――実際に行うだけの力がもうないから――へらへらと笑う。笑って、笑って……遅々として進まない再生を待つ。
ようやく喋れる程度まで回復したのは、それから三十分も後のことだった。
「……おい……シグレ、アリス」
「んにゃ? あ、ようやく喋れるようなったん? よかったよかった、アリスちゃんそろそろ膀胱が炸裂しそう。ぶっかけてい?」
「……なんだ」
「今回の、戦闘……の、条件……覚えて、いるか」
戯けて見せるアリス、無表情のシグレ。
彼らと違って今もまだギリギリの遥は、片方の戯言に付き合わず自分に必要なことだけを話していく。
「もっちろん。私たちの命令権とハルカの命令権。勝った方が相手のを貰えるってお話でしょ? あ、そだそだ。じゃあ今みたいな引き分けの場合はどうしましょ?」
「は……馬ぁ、鹿。ちげえよ」
「あれ? そだっけ」
「お前たちへの、命令権は……僕が、お前たちと戦ってやる、その条件だ……。僕への命令権は……お前たちが、勝ったらだ。違うとは……言わせない。そうだろう、シグレ」
元よりアリスには期待していないのか、遥はシグレだけにそう聞く。
アリスは自分に都合良く物事を捻じ曲げるが、シグレは違う。そもそもそんなことをしようという意思がない。ある意味で嘘を吐く心配が欠片もないのだ。
果たして、シグレは頷いた。
「ああ」
「ふぅーん……じゃ引き分け狙いだったってわけ? 最初から」
「……お前ら二人に、勝てないのは……最初から分かってたから、ね。こうするしか、なかったんだよ……」
薬や戦技で誤魔化そうともこの二人相手に敵うわけがない。
本気が全力に移り変わる瞬間。そこを死力を尽くして突いて引き分けに持ち込むのが、遥の唯一の勝ち筋だった。
「はは、まあ……だから、さ」
遥は己の指から力を抜き、鋼糸を緩める。
支えを失い傾ぐ体。地面へと吸い寄せられるように倒れながら。
それでも笑って、遥は宣言した。
「僕の、勝ちだ」