少女よ、これが絶望だ a
「――うあぁあッ!」
身を貫いた本能的な恐怖に、気付けばホタルは一歩踏み込み、小太刀を二本とも抜き放っていた。
交差する軌道の居合が二つ。魔力によって朱色に輝くそれらは音も何もかもを置き去りに、目にも留まらぬ速さで迸る。
ホタルの必殺。
師のシグレの『一閃』を自分なりにアレンジした居合。
人間には躱せない。魔法を使えない目の前の男では尚更、絶対に。
事実、遥は全く動かなかった。
怖気の走る笑みを浮かべ、ただ立っていただけ。
斬撃が当たる。
首が落ちる――
「なんて、いい夢は見れた?」
嘲笑。
軽薄な言葉。
そして、居合が二つとも空中で停止した。
「…………………………な、」
間抜けな驚愕の声。代わりに眼球が激しく揺れ、その原因を懸命に探し当てる。
一瞬の空白の後、それは見つかった。
男の両手、顔の前でクロスした両腕の先。
親指とそれ以外の指で刀身を挟み、止めていたのだ。
真剣白刃取り、その片手版。
想像を超えた光景にホタルは絶句し、目を見開く。
「目ぇ」
その大きく開かれた右目に、遥は躊躇なく親指を突っ込んだ。
ぐちゅんっ。
そんな粘着質な音が、酷く大きく聞こえた。
「ぎッ、ィィあァアッッ!?!!」
激痛と異物感にホタルは無我夢中で叫ぶ。思わず刀から手を離してしまう。
遥はその様を嗤う。へらへら、へらへらと、笑う。
そして、眼窩に引っ掛けた指に力を入れて――
「あははははははははははははーーーーー!!」
思い切り、振り回した。
「ァァァァァァァァァアっ!!?」
悲鳴、回る身体。生理的に溢れた涙が軌跡を描く。
苦痛、恐怖。ホタルの脳内はその二つに支配され、ただみっともなく悲鳴を上げることしか出来ない。
――眼球というものはそう簡単に潰れない。遥は狙って眼窩と眼球の間に指を突き入れたのだから、尚更。
だが、ホタルはそのことを知らない。
ただでさえ一つしかない瞳、そこに指を突っ込まれ、掻き回されながら振り回される恐怖。正気がガリガリと削られていく。
「あっはは、ヘイパアァァスッ!!」
「な――!?」
遥が叫び、眼窩を支点にホタルをぶん投げる。
彼女の身体は慣性に従って吹き飛び、銃を構えていたアイにぶつかって止まった。
ホタルを受け止めたアイは、言う。
「っつ……ホタル、無事!?」
「っぁ……いや……いや……! 目ぇっ……私の、私の右目っ……!?」
「潰れてもないし壊れてもない! 無事だ!」
「ぁっ……ぁっ……」
「……くっ!」
必死に元気付けるも、目を覆い、ビクビクと痙攣するばかりでまともな反応が返ってこない。
アイは舌打ちし、その元凶たる遥を睨め付けようとして……その遥がどこにも見当たらないことに気づいた。
「ッ、どこ!?」
「イィイヤッハァーーーーーーーーーーーッ!!!」
けたたましい歓声。空高くから。
咄嗟に頭上を見上げれば、両手を広げた遥が獰猛な笑みとともに自分目掛けて降って来ている。
恐らくホタルに気を取られた一瞬のうちに飛んだのだろう。アイは瞬時に状況を把握し、銃口を照準する。
「舐めないでください……!」
構え、発砲。
線ではなく面の銃撃。魔力により破壊力と貫通力が底上げされた鉛玉が広がり、遥を呑み込まんと飛散する。
逃げ場のない空中、防ぎようのない手数。
だというのに遥は笑みを濃くする。
そして、広げた両腕を薙いだ。
「あっはぁ!!!」
刹那、その笑い声に弾かれたように銃弾がバラバラの方向に乱れ飛ぶ。
魔法ではない。銃弾の弾け方、きらりと光った何か。アイには心当たりがあった。
そう、これは資料にもあった“ハルカ”の武装の一つ――
「鋼糸……!」
瞬間、アイはホタルを引っ掴んで後ろに跳ぶ。
一瞬遅れてアイのいた空間を鋭利な何かが連続して空を切る。数は四つ、全てが人体の肩や足の付け根に当たる箇所だ。
切断か拘束か、鋼糸の威力が不明なため分からないが、どのみち当たっていい類の攻撃ではない。
「チッ……!」
とにかく、一度態勢を立て直さなければならない。
アイは決断すると同時、足元に向けて引き金を引く。
次の瞬間、拡散した弾丸のいずれかが運良く地雷に当たったのか、轟音とともにアイの周囲に土煙が立ち上った。
「わあお」
適当極まる驚愕の声とともに、遥は左右の手を薙ぐ。
鋼糸が巡り、土煙を切り裂き……しかし人間を縛る手応えは返ってこなかった。
手首を返し、土煙を吹き散らす。ある意味当然と言うべきか、晴れた先にアイとホタルの姿はなかった。
気配は――演習場を囲む鬱蒼とした樹海の中。
「……アリスー! それありなのー!?」
「ありが10匹でぇー?」
「やかま死ねぇー!」
そう叫び返し、遥は前方の樹海に向き直る。
そして思い切り息を吸い込んで、叫んだ。
「ホタルちゃーん! アイくーん! 今から鬼ごっこするよー!!」
その最後に、一際凄絶な笑みを浮かべて――
「――捕まったら罰ゲームだからねぇー!!!」
◇
影が二つ、木々の間を縫うように走っている。
「ホタル、目はどう?」
地を這う根を飛び越えつつ、アイは並走するホタルに声を掛ける。
樹海フィールドに入って数分、幸いなことにホタルはすぐに正気に返った。こうして移動が出来る程度には立ち直っている。
アイの問い掛けに、ホタルはふるふると首を振った。
「……潰れてはないみたいだけど……やっぱり駄目。うまく見えない」
そう言ったホタルは右目を手で覆っており、そこからは内側の粘膜が傷ついたのか血がだらだらと垂れ落ちている。
そのせいか、そもそも指を突き込まれたせいか。どちらにせよ右目に移るものは全てぼやけてしまっていた。
失明の恐れはなさそうだが戦闘に耐え得る状態でないのも事実だ。
「……一応、音と気配を感知して戦闘は出来るから」
「でも……」
「……分かってる。そんな状態じゃ、アレには敵わない」
例え“ハルカ”を嫌っているからと言って、直に味わった実力を否定するほどホタルとアイは愚かではない。
魔法が使えない、という欠点すらある種の武器にしているのだ。相当に戦い慣れている。
「……あいつ、実力を隠してた。アイたちの油断を誘ってたんだよ。あと一歩のところで一気にひっくり返して、アイたちを馬鹿にするためだけに」
「……性根が腐ってる。とんだ糞野郎」
「うん、だから絶対に殺す。アイを……このアイを虚仮にしてただなんて、許されることじゃないもの」
ぼそりと零すアイ。その表情からは戦う前に抱いていた憧憬など完全に霧散している。
今あるのは、自分のプライドを傷つけたクソ野郎を殺してやるという純粋な殺意だけだった。
その感情とほぼ同じものを感じながら、しかしホタルは冷静にアイをたしなめる。
「……気持ちは分かるけど、無策は危険。さっきの二の舞になる」
「うん、だからまずは体勢を立て直そう。アレの一番厄介なところは意識の隙を抜けてくるところだから。正面戦闘で純粋な身体能力勝負に持ち込めばまず負けることはないはず」
魔法の使えない遥と違い、ホタルとアイは魔法による身体強化が出来る。
例えるなら軍人と幼児が喧嘩するようなものだ。多少の戦闘技術の巧拙で覆せるものではない。
「もうちょっと行ったところにある程度開けた場所があったから、そこで――」
作戦会議が終わりかけた、その時。
腰ほどもある巨木の根を乗り越えた、その時。
そう、その時だった。
全身を無数の虫が這い回るかのような悪寒が二人の身を這い回ったのは。
「……いた」
ゾッとするような囁き声。
瞬間、ホタルとアイは転がるようにその正反対の方向に走り出した。
「ウソ、見つかった!?」
「アイ駄目走って! 追いつかれる!」
叫び、今まで以上の速度で走る。
――振り切れない。
木々の間を抜け、根を飛び越え、走る。
――一定の距離を保ったままぴったりと追ってくる。
魔法による強化を施し、加速して走る。
――少しづつ、少しずつ距離が詰められ始める。
ただ自らの生存のみを想って、走る。
――風を切って迫り来る音、足音、息づかいが耳に届いた。
それでも、走る。
――逃げられない。逃げられない。逃げられない。
そして、ついに。
「見ーつけたー!」
――その声は真後ろから聞こえた。
ほれぼれするほどハートフル