楽園のお姫様
――昔、僕が【ムラクモ】にいた頃、ある少女の護衛に連れ出されたことがあった。
【ムラクモ】ではなく先生個人への任務だったため、本来なら僕は関係なかったのだが……『授業』の一環だのなんだのと言いくるめられ、半ば強制的に手伝わされたのだ。
その時僕に与えられた役目は、その少女に一番近い位置での護衛につくこと。言い換えればこの少女の遊び相手だった。
当時の彼女は正に純粋無垢、透明で空虚、名実ともに人形といった風情であったため、クソガキ真っ只中だった僕も邪険に出来ずに接し続けて――
「ね、ね、お兄様。今日はなにして遊ぶのかしら? もし決まってないなら私、久しぶりにお兄様のあやとりが見たいのだけれど」
――結果、見事に懐かれてしまったのである。
僕は眉間にしわが寄るのも構わず、まとわりつく少女を振り払いながら、言う。
「……いい加減聞いてくれないかな。お前は僕の妹じゃない」
「あら、随分と優しい話し方をするようになったのね。昔のぶっきらぼうで無愛想なのも素敵だったけど、今のお兄様はもっともっと素敵だわ」
「聞いてくれ。頼むから」
「もう、いいじゃない、これくらい。別にセツナお姉様の場所に入り込もうとしてるわけじゃないわ。だって私から見たら彼女だって立派な『姉』なんですもの」
「そういうことじゃなくて……ああ、クソ」
事実、確かに僕と妹はコイツの兄や姉、あるいは親に当たるのかもしれない。
しかし、だからといってはいそうですかと頷けるわけがない。当然だ。そう簡単に妹がポコポコ増えたら溜まったもんじゃない。
「……とにかく、この件はまたいつかしっかり話し合おう。今はそんなどうでもいいことに構っている暇がない」
「ええ、そうみたいね。お兄様の今のお顔、とっても生き急いでいるみたい――あら、これは昔からだったかしら?」
「正確にはこの体になってから、かな。仕方ないだろ。明日には死んでるかもしれないんだから」
「あらあら、お兄様ったらそんな大事な秘密を簡単に教えちゃってもいいの? 私、こう見えておしゃべりなのよ?」
「心配するな、どう見てもお喋りだ。けどお前は誰にも話さないだろうし――大体、もうとっくの昔に知っているだろうが」
「――ふふ、うふふふふふ! アハハハハハハハ!!」
くるくると宙を泳ぎながら『結界装置』は哄笑を上げる。
狂気と愛情、憎悪をドロドロに煮込んだシチューのような人物像。正論で人の突かれたくないところをグサグサと突き刺すのが趣味なくせして、自分はその抜け穴をするりと泳ぎ潜りやがる性悪女。
コイツと話すのは氷室に付き合うことと同じかそれ以上に疲れる。
……だから嫌だったんだ。ここに来るのは。
「……結界っていうのは大雑把に言って自分の境界線を拡張する魔法だ。自分の体に起きてることが分からない魔導師なんていない。365日、24時間東京全土に結界を張ってるお前に分からないことがあるものかよ」
「あら、そんなことはないわ。確かに私はお兄様の秘密もやりたいことも知ってるけど、それとこれとはお話が別。だって見れることと見ることは違うのよ? そうね、例えばお兄様の毎日なんて全く見ていないもの」
「それは……自分で言うのもなんだけど、少し意外だな」
自惚れのようだが、どうせ毎日全てを覗かれていると思って過ごしていた。嬉しい誤算だ。
僕がそう言うと、『結界装置』は不服そうに頬を膨らませた。
「疑わないでも本当に本当よ。それに意外でもなんでもないわ。だって、その方が次ここで会ったときにたくさんお話が聞けるでしょう?」
「どうせ聞くなら同じだろうが」
「違うわ。もう、乙女心が分からないのは相変わらずなのね。……だからこの前の事件でお兄様がここまで来てくれたとき、ようやくお話ができると思って楽しみにしてたのに」
この前……MB事件で汐霧父を殺したときのことか。
あの時はコイツも余裕がなかったのだろう。今こうして『触覚』に使っている大結界の余剰分の魔力すら全て、すぐそこで眠っている本体を守るための結界に注ぎ込んでいた。
僕たちが汐霧父を排除したと同時に結界を修復、この触覚を顕現させようとしていたが……ぶっちゃけ関わるのがしんどかったためスルーして帰ったのだった。
「悲しかったわ、寂しかったわ。あのあとちょっと泣いちゃうくらいに」
「あー……うん、まぁ、それで?」
「このままじゃ私がかわいそうよ。だからね、お兄様。かわいそうなかわいい妹のお願い、ひとつくらい聞いてくれてもいいんじゃない?」
「…………嫌だ、と言ったら?」
「泣いちゃうわね。絶対に。激しく。きっと結界なんて保てないだろうから……ふふ、そうね。どこかに大きな穴が空くんじゃないかしら?」
「お前な……」
そんなことになればコロニーは大混乱だ。外には正規軍が防衛線を敷いているとはいえ、大結界の穴にパンドラが気付かないわけがない。
何十何百という数のパンドラが雪崩れ込み、コロニーは陥落。せっかく作った友達も死に絶えて僕の努力は漏れなく水の泡、と。
「…………………………………………言ってみろ」
「もう、そんなに身構えないでちょうだいな。別に無理難題じゃないのよ? ただ呼び方を戻して欲しいってだけ。それくらいいいでしょう?」
「はぁ? 呼び方って、僕は」
「私のことを一度も呼んでない? いいえ、いいえ、そんなことは全然ないわ。お前、お前と何度も何度も呼んだでしょう?」
私の名前は“お前”じゃないわ、と『結界装置』。
「……『結界装置』と呼ぶなって言ったのはお前だろ。痴呆か?」
「とぼけちゃ駄目よ、お兄様。昔のお兄様はもっと違う素敵な呼び方をしてたでしょう? それに戻してちょうだいってお願いしてるだけよ」
「あのな、お前ももう十三だか四にもなるだからいい加減――」
「お説教は聞きたくないわ。いじわるは無視しちゃうわ。昔みたいに呼んでくれるまで、お兄様とは口をきいてあげないんだから」
つーん、とふわふわ浮きながら斜を向く『結界装置』。
だがその目はうっすらと開いており、頬はぴくぴくと震えている。哄笑を我慢しているのは明白だった。ああもう、本当に面倒くせえ。
……とはいえこのままじゃ話が進まない。少々恥ずかしいが、仕方ないか。
「……………………………悪かったよ、お姫さま。謝るから機嫌を直してくれると嬉しい」
「――うふふっ、しょうがないんだから! お兄様にそこまで言われちゃったら、かわいい妹の私は許してあげるしかないじゃないっ」
にこにこ、というよりニヤニヤという表現が似合う笑顔で『結界装置』――お姫さまは僕の周りをくるくると回る。
僕は心底辟易とした気持ちで、溜息を吐き出した。
「……その歳でお姫さま扱いされて喜ぶとかクソ痛いよ、お前」
「あら、お兄様ったら本っ当に乙女心が分かってないのね。女の子はいつになってもいつまで経ってもお姫様に憧れて、王子様が現れるのを待ってるものなのよ」
「気持ち悪いな。吐き気がする」
「ふふ……ええ、そう、そうね。私もそう思うわ」
ドロリとした憎しみと狂気を滲ませ、お姫さまは昏く笑う。
出来るなら構ってやりたいが、何度も言ったように今の僕には時間がない。彼女の歪みを黙殺して、口を開く。
「今日僕がここに来たのはお前に確認したいことがあるからだ。本題に移っても?」
「まあ、酷いお兄様。そういうときはせめて、口だけでも『君に会いに来た』って言うべきよ」
「さっきの話じゃお前は僕の周りのことを知らないんだったな。説明するから聞け」
「ふふ、うふふふ! 強引なお兄様も素敵ね。ああ、ああ、とってもゾクゾクしちゃうわ」
お許しが出たので、話していく。分かっているところは情報をまとめて、分からないところはそのままに。
あわよくば推理の答え合わせ、未だ残る謎のカンニングを目論んでの試みだったが……お姫さまは終始ニコニコと笑っており、考えが全く読めない。
結局、そのまま話は終わった。
お姫さまは器用に空中で正座しながら――何故か、僕の頭をよしよしと撫でる。
「……何のつもりだ?」
「とっても頑張ってるお兄様を労ってあげようと思って。大変だったのね、頑張っているのね。ほら、よしよし、よしよし」
「やめてくれ。今のお前は物に触れられないんだ。視覚的に撫でられてるのに感触がないなんて、ちょっと変な気分になる」
「あら、お兄様は私に触れて欲しいの? そういうことなら次会うときを楽しみにしてて。きっとお兄様に触れるように練習しておきましょう」
出来るだけここに来るつもりはないのだ。どうでもいい、そんなこと。
「……僕が聞きたいのは一つ。藍染の隣にいた結界使いのことだ」
「どうしてソレのことを私に聞こうと思ったのかしら?」
「彼女が恐らくここの『候補生』だからだよ。並外れた結界魔法、世間知らずで感情的な仕草、何より昔のお前にそっくりの風貌――まず間違いないだろうさ」
「ふふ、そうね。そう考えるのが自然でしょう」
『候補生』というのは隠語でも何でもなく、文字通り候補である人間のこと。
では何の候補かといえば――それは次の『結界装置』となる人間の候補に他ならない。
そもそも『結界装置』というのはその辺の一般人や魔導師から選出されるものではない。このスカイツリーの構造とシステムに合わせ、結界魔法に優れた人間を研究者共が作り出している。
母体ではなく試験管と培養槽で育まれた命。それが『結界装置』であり、目の前の少女も同様だ。
しかし幾らこの時代の研究者といえど、望み通りの人間を完璧に作り出す技術は未だ完成させていない。
それゆえ少しずつ条件を変えて遺伝子を掛け合わせ、大量の子供を作る。その子供達が『候補生』であり、彼らは塔内で様々な訓練を受ける。
それら全てを終えた後、最も優れた一人が『結界装置』となるのだ。
……本当に胸糞悪い話だ。しかもこの話のせいでコイツには兄と呼ばれているのだから、やってられない。
いや、話を戻そう。
「本当に『候補生』なら、悪魔崇拝の宗教組織に与するどころか塔外にいる時点であり得ない。考えられるのは三つ、脱走か誘拐か処分かだ」
「そうね、正しい考え方じゃないかしら」
「お前以上にこの塔について詳しい奴なんていない。一時期でもここにいたならお前が知らないわけがない。だからお姫さま、教えてくれないか?」
「ええ……なるほどね。お兄様の言いたいことはよく分かったわ」
ふむふむ、とお姫さまは口に出して頷いて見せる。
やがてパッと目を開くと、満面の笑みを浮かべた。
「いいわ、それくらい。他でもないお兄様の頼みだもの。特別に叶えてあげちゃうわ」
「ありがとう。礼は時間があるときに必ず」
「ええ、楽しみ。気と首を長く長く長くして待っていましょう。――はい」
言い、手をこちらに差し出してくるお姫さま。
その意図を理解してひざまづき、その半透明の手の甲に――実際は触れられないので振りだけだが――口付けを行う。
時代錯誤もいいところの行為だが、お姫さまのご機嫌は取れたようだ。機嫌良さげに右手を抱きしめている。
そこで僕は、この機を逃さないようにと――
「――それで、お兄様。もう一つは?」
口を開こうとして、硬直した。
その様をにこにこと眺める悪趣味な自称妹と少しだけ視線を交換し、溜息を吐く。
「……バレてたのか」
「当然よ。私はお兄様の妹だもの。例え血の繋がりがなくたって、それくらい分かるわ」
そう、もう一つ。
今日ここに来たのは結界使いの情報収集のためと、あと一つ、比較的どうでもよく、しかし出来れば済ませておきたいものがあったのだ。
「聞いてあげるわ、聞きたいわ。どうぞ話してみてちょうだい?」
「……《部隊編成》で達成するべき依頼の中に二日間の塔の巡回警備ってのがあった。それを僕と汐霧が達成したことにして欲しい」
遠い昔の話のようだが、僕と汐霧が部隊を組むためには学院から提示された依頼をこなさなければならないのだった。
そのうち訓練生の教導は半ば失敗、行方不明児童の捜査はもっとヤバいものを引き当ててしまった。
要するに、もう塔の巡回警備しか残っていないのだ。僕と汐霧が部隊を組むための条件を満たすには。
「本当ならちゃんと二日やって正式に達成したいところなんだけど、今はその時間がない。頼めるか?」
「………………………………」
今度は即答とはいかなかった。
しかしそれも彼女なりの考えががあってのこと。それをよく知っていて、共感もしている僕に言えることはない。
お姫さまが話し出すのをじっと待つ。
「……ねぇ、お兄様」
「なに?」
「お兄様って、そんなにあの人間が必要なの?」
「あの人間じゃ分からん。名前で言えよ」
「名前なんか知らないわ。最近出会ったばかりなのにずーっとお兄様に引っついて助けてもらってばかりの女のことよ」
結局覗いてるんじゃねえか、と言わなかった自分を褒めてやりたい。
こめかみをグリグリと揉みながら、僕は彼女が差しているだろう人物の名前を口にする。
「……汐霧のことか?」
「ああ、そんな名前だったかもしれないわね。どうでもいいけれど。あのヒトガタのゴミと一緒に私の聖域を汚して、お兄様の手を煩わせた屑女のことなんて欠けらの興味もないもの」
「は、人間嫌いは相変わらずか」
「あら、お兄様は好きになったのかしら?」
「まさか。大嫌いなままだよ」
「ふふ、そう。安心したわ」
暗く昏く笑い合う。共通の、誰にも言えない憎悪。それを口に出してしまえることに心の底から安堵してしまう。
「はは、仮にも『結界装置』の言うことじゃないね」
「別に人間を守りたいからやってるわけじゃないもの。それ以上にあのパンドラとかいう汚物が嫌いなだけ。死ぬ理由がないから生きている人間と同じよ」
吐き捨てるように言う様は、先ほどまでの狂気的でありながらも穏やかだった様子とは似ても似つかない。
要するに、コイツはそれだけ人間のことが大嫌いなのだ。
そしてその感情が理解出来るのは、きっと僕しかいない。
「人間なんてみんな死ねばいい。私を生贄てして作った研究者、そのことを忘れてのうのうと生きている一般人、彼らを守ろうとする魔導師。みんなみんな死ねばいいのだわ」
「ああ、分かるよ。あの日あの時あの場所で、人間は誰も僕と妹を救えなかった。そんな無能に生きている価値はない。生きる資格すら存在しない。今すぐ地獄に堕ちるべきだろうさ」
言いがかり? そんなわけがない。
距離があろうがパンドラがいようが知らなかろうがメリットがなかろうが、人間は僕の妹を救わなかった。それだけで見限るには十分だ。
人間はただ、パンドラよりはマシなだけ。妹に直接手を掛けたパンドラよりはまだ見れる存在というだけに過ぎない。
「ああ、でも僕って半分はパンドラで半分は人間なんだよね。これってお前的にアウトなんじゃない?」
「ふふ、お兄様は普段絵を描かないのね。黒と白を混ぜ合わせたら灰色ができるわ。灰色ってね、黒とも白とも違う色なのよ?」
「なるほどね。ご教授ありがとうございます、お姫さま」
大袈裟に礼をするとお姫さまもくすくすと笑う。
それが一段落着いたのち、僕は最初の質問に答えてやった。
「汐霧は大事だよ。でもそれは道具としてだ。アレを守るのはセツナを救うのに必要だからだ。じゃなければとうに見捨てているさ」
「うふふふふふっ! ああ、ああ、安心したわ。そういうことなら承ってあげましょう。ただし埋め合わせはちゃんとすること。いいわよね、お兄様」
「それくらい当たり前だ。近いうちにまた来るよ」
言って、立ち上がった。
身を翻し、転移装置の方に向き直ると背中越しにお姫さまが声を掛ける。
「またね、お兄様。頑張ってね、お兄様。ちょっとだけでも愚痴に付き合ってくれて、すごく嬉しかったわ」
「こちらこそ。頼みを聞いてくれてありがとう。あと愚痴については気にするな。お前の苦しみが分かるのは僕だけで、お前が作られたのは僕のせいなんだから」
「正確にはお兄様のお父様の、ね。お兄様に罪がないことくらい分かっているわ」
そう言ってくれるのはありがたいが、罪と責任は違う。コイツが作られたことについて僕に責任はないが、罪は確かにある。
僕とセツナという『結界装置』のプロトタイプがいなければ、コイツは生まれなかったのだから。
それは、どうしようもなく事実だ。
「僕とセツナには罪がある。お前の先例となった罪が。お前の苦しみの源点となった罪が」
「その罰ならもう下したわ。私の兄と姉になってもらう――ええ、そんな世界で一番無慈悲な罰を」
「……分かったよ。今度からはそう認める」
「ありがとう。ええ、愛しているわお兄様。――ふふっ、うふふふふふふふふ! あはははははははははははは!」
そんなけたたましい哄笑とともに。
僕は《楽園》から、現実へと送り出された。