夜方、彼らは七日を手に入れた
◇
――一心不乱に街を駆けていた。
「っ、はっ、はぁっ……!」
激しく息を切らしながら、道行く人々を突き飛ばしながら走る。様々な罵詈雑言が投げつけらたような気がしたが詳しくは聞き取れなかった。
――せめて10分前であれば、まだそれくらいの余裕はあっただろうに。
「っつ……!」
走馬灯のように蘇る記憶と胸に走った鋭い痛み。自分がこうして走っている理由、そのそもそもの原因を少女――クロハは回想する。
10分と、その更に10分ほど前。自分がこの世で最も信頼と親愛を寄せる青年に、非情なまでの拒絶を叩きつけられた。
予想は出来たし、実際に幾度となく思い描いていた結果。しかし密かに期待していた『優しい世界』を裏切られた衝撃は、まだ幼い少女に受け止められるほど軽いものではなかった。
衝動的に逃げ出し、自分にとっては敵地同然の街を一心不乱に駆けること10分。少女の頭は九割が激情に支配されていたが、残る一割がその気配を感知した。
一定の距離を保ち、一定の速度で自分を追う――追跡者の気配を。
「はぁっ……う、くっ……!」
目の端に涙が溢れ、視界が滲むのを感じながら自問する。
――何故こんなことになっているのか、そもそも何故自分ばかりがこんな目に遭うのか? こうしてすれ違う人々はみんな幸せそうなのに、どうして自分ばかり?
理不尽な現実への悲しさと悔しさ、それに甘んじるしかない自分への不甲斐なさに、クロハは目頭が更に熱くなるのをどうすることも出来なかった。
「ッ、こっち……!」
角を曲がり、更なる大通りへ。人混みも人の目もクロハにとっては恐怖の対象だが背に腹はかえられない。とにかく何が起きても誰かに助けてもらえるように、人通りの多い方へ――
――誰かに助けてもらえる? こんな、こんな自分が? 何より、その『誰か』はあの地獄からは助けてくれなかったのに?
そうだ。あのとき助けてくれたのは『誰か』じゃない。助け出されたあと、あの地獄の記憶とひとりだけ助かってしまった罪悪感から救ってくれたのは、やっぱり『誰か』じゃない……!
思考の渦に溺れながら、クロハは必死に逃げ続ける。半分以上無意識に、ひたすら人通りの多い方に向かって。
その様子をどこぞの畜生が見ていたら、恐らくこう言ったことだろう。
人に限りあり、人通りにも限りあり。果てのないものなど何もないのだ――と。
「あっ……!?」
クロハは声を失う。気がつけば周りには人通りどころか人影すらない。四方を背の高い建物に囲まれた、完璧な袋小路。
この場所に逃げ込むよう誘導されていたと、混乱した頭では気付くことも出来ない。
「逃げ、ないと……!」
――どこへ?
現在位置も分からず、ここへどうやって来たかも分からないのに、どこへ逃げる?
焦り、逡巡する間にも気配は近付いてくる。相変わらず一定の速度を保ったまま、しかし着実に距離を詰めてくる。
クロハは分からない。その正体も、何故自分を追ってくるのかも、自分がどうするべきかすらも。
けれど一つだけ――捕まれば自分にとって愉快なことが起こらないことだけは、容易く想像出来た。
「……っ!?」
瞬間、気配が消える。正確には、空気に溶けるようにして分からなくなる。近くに迫っているのか、それとも遠くに離れたのか。どちらでもあるようでどちらでもない、そんな気さえしてしまう。
もはや少女に出来ることは、ただ身を縮ませて息を潜めるのみだった――。
◇
「……うわぁ、大人気ない。幼女一人に本職三人とか人の心ないんですかアナタ」
「この状況を作り出した本人が言うと説得力が違うな」
そーですかい、と嘆息混じりの言葉を返す。
公園から所変わって、今いる場所は背の高い建物の上。二、三十メートルほど下方にクロハの追い込まれた袋小路がよく見下ろせる特等席だ。
とはいえそんなステキな場所も、今は僕が独占しているわけではない。縁に足をかけて座る僕の隣には一組の男女の姿があった。
と、何かの機械を片手にクロハを見ていた女が口を開く。
「――照合、終わりました。90%以上の確率で『神子』本人であるという判定が出ています」
「そうか。ならいい。下がっていろ」
「はい」
「お、良かった良かった。これで僕の義務は果たしたことになりますね。アナタの方はちゃんと守ってくれるんですか――ねぇ、藍染さん?」
「問題はない。契約は守る」
答える男――コロニー最高の暗殺者、藍染九曜は淡々とそう答えた。
その態度に、僕は昨日【ムラクモ】から帰るときに届いていた二つの連絡のうちのもう片方を思い返す。
『汐霧憂姫について交渉を求む』
簡潔に、それだけが書かれていた。
それに対して僕はこう返した。
『代わりに《神子》についてお話しませんか?』
正直、これは賭けだった。
藍染たちが探している『神子』とやらがクロハとイコールであるとは限らない。『神子』という単語が何か別のものを指している可能性も充分にあった。 故に承諾を得られるか怪しかったのだ。
結果として藍染は承諾したが、そのことは当然分かっているのだろう。交渉の舞台の前提条件として僕の言う『神子』――即ちクロハを連れてくることが定められた。
義務だの何だの言ったが、要するに藍染の目的と僕の思う『神子』が噛み合っているか、という話である。
そして現在、僕はその義務を守った。
次は藍染の番だ。
「あなた方が交渉の結果をきちんと守るかどうかという前提。つまり交渉なんかなかったことにして力づくでクロハを攫わないかという点ですが――」
「その気があれば、とうに実行に移している」
「ええ、そうですね。この時点で動かないのであれば信じられます」
それを証明するために、藍染には部下の方々を使ったらしい。
指折りの部下三人でクロハを追い立て、追い詰める。そしてもう逃げようのない状況で敢えて手を出さない。
現に彼ら彼女らはクロハを射程圏内に捉えているが、一向に手を出そうとはしていなかった。今の状況ならクロハを攫うことは決して不可能ではないにも関わらず。
「ほら、本当にいいんですか? 自分の目の届くところに標的ちゃんがいるんですよ? 少し頑張れば手だって届くかも。依頼の遂行が第一なんじゃないんですか、暗殺者ってのは?」
「目先の欲を追う人間は【トリック】にいない。そう教育をしてある。……それに、下手に動けば貴様とも戦うことになるだろう。命を懸けたサイコロを振る回数は少ない方がいいと俺は考える」
「ごもっとも。余すところなく同意しますよ。……ああ、前提ついでにお聞かせくださいな。あなた方は信者ですか? それともただの雇われた犬?」
「俺はただの雇われだ。宗教に興味はない」
「はは、そうですか。それは安心しました」
へらへらと笑い、下方を見下ろす。そこには気配を消した部下の方々を、五感で必死に探ろうとするクロハの姿があった。
……あまり時間をかけると先にアイツの神経が擦り切れてしまいそうだ。出来るだけ手短に済ますことを心がけよう。
「さ、前提を払ったところで本題に移りましょう。あなた方の要求を聞かせてください」
可能な限り軽く言ったつもりだが、空気が重くなるのは避けられなかった。
しばしの沈黙の後、藍染が静かに口を開く。
「こちらの要求はただ一つ、『神子』の身柄のみだ。素直に差し出すなら謝礼を出すことも約束する」
「へぇ、それはお幾らくらいですか?」
「一学生には充分過ぎる額とだけ言っておく」
その言葉は僕の携帯端末に連絡を入れたことも合わせて、お前の身元など完全に割れている――という警告も孕んでいたのだろう。
だが、それ以上に分かることだってある。
「なるほど、つまりそれだけあなたのクライアントさんは潤沢な資金源をお持ちなようで。あなた、引いては【トリック】を雇うのだってはした金じゃ済みません。宗教は儲かるとよく聞きますが、果たしてその資金源は何由来のものなのか……」
「御託はいい。答えを聞こう」
「ああ、すみません。全面的に却下です」
僕の答えは予想していたらしく、藍染に反応らしい反応はない。
ただ、藍染の半歩後ろに控えている女の殺気が二割ほど増した。
「そうか。愚かな選択だ」
「ええ、愚か者の専売特許ですから」
「ならその愚か者にも分かるように言っておこう。貴様が相手取るのは千を超える信者を誇る教団と我ら【トリック】の魔導師だ。貴様とユウヒが如何に強かろうと多勢に無勢、『神子』を守り切ることなど叶わない。無駄に命を散らすことになるだろう」
「本当にそう思っているなら交渉の余地はありませんね。今すぐ殺し合いましょう?」
ハッタリだ。この場では、僕は藍染に絶対に勝てない。
それでも藍染がそうしないことは分かっている。絶殺を約束された場で敵を殺すのが暗殺者だ。その代名詞とも言える藍染が、こんな不確定な要素だらけの場で戦闘に踏み切るわけがない。
「ああ、僕からも要求を出しますね。今から七日間、あなた方には僕たちに対して一切干渉をしないで頂きたい。要は一週間放っておいてくれってだけです。どうです? 謙虚で可愛らしいお願いでしょう?」
「却下だ。クライアントからは出来るだけ早い解決を求められている」
「でも具体的な日数は指定されていないんですね? だったらそれはそのクライアントさんの落ち度です。あなたが気にすることじゃない。違いますか?」
「違わない。だがそれが貴様の要求を呑む理由にもならない」
今、藍染は言外にこう言った。――その要求を我々が呑む利点は何だ? と。
待ち望んだ言葉の到来に、僕は内心でほっと息を吐く。
「……あなたが知り合いだったり女性だったりすればプレゼントの択にも幅が出たんですけどね。残念ながらあなたと僕は初対面も同然で、何より同性でだ。そんなあなたに思いつくプレゼントなんてお仕事一択です」
「前置きはいい」
「いいえ、まだ置かせて頂きます。状況を整理しますね。あなた方は神子の身柄を欲していて、僕と汐霧がその障害となっている。そのうち汐霧はお師匠さんであるあなたが応じればいいでしょう。ただ、僕は違う」
とんだ自画自賛に反吐が出そうになるが、まとめてゴクンと飲み込んで、へらへらと笑う。
そう、僕は違う。人間とはどこまでも違う。この世に二人だけのパンドラアーツ、その片割れなのだから。
――だから、その異質さよ。僕への矛だったお前は、今だけ僕の盾となれ。
「結論を言いましょう。僕の右腕を差し上げます。研究するなり解析するなり、どうぞお好きに」
「…………」
場に先の比ではない沈黙が降りる。
へらへらと笑ったままの僕、徹底して無表情の藍染、その藍染をじっと見る女。
絶対零度の遥けき刹那は、やがて終わりを告げる。
「……いいだろう。貴様の要求を呑む。これから七日間、168時間に渡り儚廻遥と汐霧憂姫、『神子』に対する一切の干渉を断つと約束する」
「そうですか。それは良かった」
へらへら、へらへら。
笑って、笑って、僕は右肩に手をかける。そしてゆっくりと手のひらに力を込めて――引き千切った。
――ブヂッ! ゴギィッ!! ズル、ズルルルルル!!!
肉の弾ける音、骨の砕ける音、いろいろな管がところてんのように引き抜けていく音。
肩口から怒涛の如く血液が溢れ出し、服と、コンクリートと、僕を汚していく。
そうして千切り切った右腕を、僕は藍染に差し出した。
「はい、どうぞ。返却は結構ですから」
「ああ」
僕から見ても凄惨な光景に、やはりというか藍染は眉一つ動かしていない。後ろの女は真っ青な顔をしているというのにだ。
……この程度じゃ揺さぶりにもならないか。クソ、本当に人間かコイツ?
「では交渉はここまでということで。まずはあなた方から撤退してください。後をつけられてはたまりませんので」
「ああ、了承した」
僕の住居などとっくに割れているだろうが、藍染は特に何も言わずに身を翻した。
……ああ、そうだ。最後に一つ、言い忘れていたことがあった。
「そこの女の人、一つだけいいですか?」
「……何か?」
「お名前、教えてくれますか?」
「断ります」
すげなく言って、今度こそ藍染と女は姿を消した。下を見ると部下の方々も引き上げたようだ。
唯一、息を荒げ、頭を抱えて座り込むクロハの姿のみ見つけられる。
「……よっと」
僕はその場から飛び降りた。
重力と慣性のお仕事で鳴った着地音に、クロハの肩がビクリと震えた。
「ひっ……!? ……あ、あぁああああ!!」
叫び、殴りかかってくるクロハを受け止める。
ファミレスのときとは比べ物にならない殴打を何発も見舞われ、鼻血と歯が宙を舞う。それもやはり、棒立ちのまま受け入れた。
クロハにとってこれは当然の権利で、僕にとっては当然の罰だ。いや、権利や罰という言い方すらおこがましいかもしれない。クロハが幾ら僕を殴っても、彼女の傷が癒えるわけではないのだから。
それからクロハの落ち着きが戻るまで、僕はずっと殴られ続けた。