諸々全ての始動、起動
◇◆◇◆◇
夢を見た。
今から数年前、僕が先生の生徒を辞めたすぐ後のこと。
巨大で、虚しく、空々しいその場所。
灰色の石柱が数多立つ、墓場というその場所で。
ゴミのような少年が一人、とある墓標の前に座り込んでいた。
「…………」
痩せこけた頬、痩せ細った身体にボロ布を纏った、文字通りの餓鬼。
目は落ち窪み、声は枯れ、固まった泥と血が息を吐くたびにボロボロと剥がれていく。
そんな幽鬼のような総身の中、唯一瞳だけがギラギラと燃えていた。
「…………」
やがて用が済んだのか、少年はゆっくりと立ち上がる。垢のように落ちる泥と血が綺麗に整備された道に跡を作っていくが、少年が構う様子はない。
ボロボロ、ボロボロと。まるでそれが足音かのように、少年はゆっくりと身を引き摺る。
やがて墓石の迷路を抜けた少年は、墓場の入り口へと辿り着く。
「……もう、いいの?」
唐突に投げ掛けられた問いに、少年がギチリと目を動かす。
入り口である植物で作られたアーチ。声の主は、そこに潜むように立ち尽くしていた一人の少女だった。
幼い少年より更に幼い。紅の瞳、濡羽のような黒髪が特徴的だ。
少年は再びギチリと目を動かし、前を向く。
「あぁ……もう、いい」
ズルズルと、ボロボロと。
纏っているボロ布と遜色ない身体を引き摺り、少年が歩みを再開する。
少女はその後ろを置いて行かれないように――そして追いつかないように追いかけ、歩く。
10分か、1時間か、1日か。彼らから時間の概念が吹き飛んだ頃、ふと少年が立ち止まった。
「…………………………クロハ」
「……なに、ハルカ?」
名を呼ばれた少女――クロハも同様に、その場に立ち止まる。
瞳にあるのは畏敬、恐怖、依存、愛情、不安、憐憫、歓喜。混じりに混じり、本来の色は最早消えてしまっている。
そんな少女を一瞥すらも振り返らないまま、少年は静かに口を開いた。
「……お前、殺してやるよ」
◇◆◇◆◇
目が覚めた。
カーテン越しのどんよりとした朝日に、意識が鋭化されていくのを感じる。
と、その辺りで僕は、腹の上に乗っかる暖かな重量に気がついた。
「……すぅ……」
朝日を受けて輝く黒髪、暖かくも冷ややかな鬱陶しい体温。ドレスのような寝巻きは見るからに高級そのもので、お前これ幾ら使ったんだと拳骨を落としたくなる。
猫のように丸まって寝ているため顔は見えないが、問題ない。そも三人しか住んでいない我が家でこんなことをするのは一人しかいない。
そこで僕は、昨夜深夜にクロハが部屋を訪ねて来た――というより忍び込んで来たことを思い出した。
……ああ。疲れてたし害はなさそうだからと、面倒さに負けて放置したんだっけ。
「……恨むぞ、昨日の僕よ……」
「……むぷぅ……」
……愉快な寝言を立てるクロハを、よほど叩き起こしてやろうかと苦悩して。
嘆息して、ベッドを抜け出す。まだ時間は早朝、いつものコイツが起きるまで六時間もある。多少ぞんざいに扱っても起こしてしまうことはないだろう。
体勢をひっくり返し、クロハと僕の上下を入れ替える。覆い被さるような体勢ですっぽりと隠れてしまうのは、彼女が年齢を抜きにしても小柄な部類だからだろう。
僕は立ち上がろうとして――胸元に感じる些細な抵抗感に眉を動かした。
「……う、ん……」
見ると、クロハにシャツを掴まれている。存外がっしりと掴んでいるようで、離そうとしても全く離れてくれない。
とても無垢な親愛と信頼の形に、僕は笑えず押し黙る。
――クロハが深夜、僕と一緒に寝ようとするのはそう珍しいことではない。
僕を頼りたいのに言い出せない時や、怖い夢を見た時。過去の傷と闇に負けそうになった時。彼女が寂しかったり、苦しかったりした時。
そういう時、クロハはただただ隣にいることに全力を注ごうとする。それが不器用で純粋な彼女の知っている、たった一つの『人の頼り方』だからだ。
「あーもう、自分の髪を食べるんじゃないっての……」
「んぷ……」
口の中に入り込んでいた髪を取り、全体を軽く梳いてやる。
その感触がくすぐったいのか、クロハはむずがるように体を震わせている。その癖逃げようとはしないのだから、面白い。
――儚廻遥というバケモノの全てを肯定し、唯一無上の愛を寄せてくれる、クロハという少女。
コイツがそうしてくれるのは、きっと僕が救ってしまったからだ。僕がその気もないのに彼女を救ったせいで、コイツは僕を“主人”としてしまった。
そして今もなお、僕は彼女の愛情と依存を利用し続けている。
……だから、というわけでは決してない。そのことに後悔も躊躇いも微塵もない。
ない、のだが……
「……でも、僕は変態だからね」
そう、僕は変態だ。目の前にこんなにも綺麗な髪があったなら、それはもう撫でる以外の道はない。全ては必然、運命なのだ。
そんな変態な僕だから、クロハが起きるまで頭を撫でていたいと思ってしまうのも、あまつさえ実行してしまうのも、やっぱり仕方がないのである。
「仕方ない、仕方ない。ねー?」
「んー、やぁ……」
むずがりつつも力を強めてくる彼女に、僕は今度こそ苦笑して。
氷室との約束に遅れるなぁ、なんて考えながら、再びベッドに転がることにした。
◇◆◇◆◇
「とまぁ、そんなわけで寝坊したんだ」
「惨たらしく死んでくれ」
半眼で吐き捨ててコーヒーカップを傾ける氷室に、僕はへらへらとした笑みを返す。
クロハに付き合って二度寝した結果、氷室の待つ研究所に着いたのは六時間後、午前11時ちょうどのこととなった。
ちなみに約束していたのはその三時間前だが、まぁ仕方ない。たまにはそんなこともあるだろう。待たせた相手が相手なので、心が微塵も痛まないのはありがたい。
「それで、今日は一体何の用だい? 遊びに来た、なんてわけでもないんだろう?」
「ちょっと少し相談したいことが出来てね。と言っても、いいのか? 僕の話から始めて」
今日ここに来た理由は二つある。一つは今述べたもの、もう一つは以前氷室に作ってしまった借りの清算だ。
先々月、汐霧が病院を抜け出した時の話だ。僕は氷室に彼女の居場所を探して貰い、その際に『氷室と一日付き合うこと』『誠心誠意ありがとうと言うこと』を約束した。
面倒この上ないが、氷室への借りは冗 談抜きで命に関わる。以前すっぽかした時など、危うく社会的に抹殺されかけた。
そんなわけで、取り敢えずは氷室の案件から済ませようと思ったのだが……
「いいのさ。個人的にはキミの相談内容の方がよほど気になる。キミが持ち込む問題事は刺激的なものばかりだからね」
「はは、助かるよ。やっぱり持つべきものは仲間だね」
「そこは親友と言ってくれると嬉しいんだけどな。ま、いい。この天才を頼りたいんだろ? 話してみるといいさ」
空になったカップを机に置き、氷室は彼なりの話を聞く体勢を作る。
最もその体勢は机に足を乗せ、ソファにふんぞり返りるというアレなものだが……まぁ、どうでもいいか。
僕はゆっくりと口を開いた。
「氷室。お前、『神子』って単語に聞き覚えはあるか?」
「ん、それは言葉通りの意味以外の話かな?」
「いいから。お前の思うように答えてくれ」
「ふむ……『神子』、か」
顎に手を当て、記憶を走査する氷室。少し考える素ぶりを見せてから、指をピンと鳴らす。
「数年前、ボクたちが【ムラクモ】にいた頃に潰した教団が信仰していたモノ……どう、合ってる?」
「……やっぱりそうか」
昨日、男――藍染と話したときからひいた単語。この天才がこう答えた以上、もう間違いない。
嫌な予想が当たったことに渋面を作りながら、僕は言う。
「その時のこと、覚えてる?」
「もちろん。あの人とキミがクロハを持ち帰ったときのことだろう?」
あの人、というのは僕の先生のことだ。傍若無人、唯我独尊を地で行くこの男が唯一敬意を払う相手。
「あのときは凄かったからねぇ。記憶にも残るさ」
「……先生がマジギレしてたものね。僕アレ今でもトラウマ」
「ボクもさ。恥ずかしながらね」
――今から五年も昔のことだ。
その頃のコロニーはまだ『塔』が不完全だったこともあり、パンドラの侵入が毎日のように続いていた。正規軍や魔導師はその度に討伐に向かい、傷つき、日を追うごとにその数を減らしていった。
……だからだろう。あんな馬鹿げた宗教が現れ、あまつさえ力を付けてしまったのは。
「パンドラは増え過ぎた人類を裁く神の使い、愚かな人間を絶やし、選ばれた人間を新世界へと誘う……だっけ? いやはや、なかなか面白いこと考えたもんだ」
「……全くねぇ」
そう。氷室の言葉通り、この宗教はパ ンドラを神の使いとして信仰していたのだ。
最も、それだけならある種の悪魔崇拝のようなもので、似たような宗教は幾らでもあるだろう。魔や禍の類に惹かれる人間というのはどの時代でも必ず一定数存在する。
問題は、パンドラが悪魔や魔物と違って現実に確固として存在していること。そして何より、彼らに仇なす大結界と魔導師という存在があったことだった。
魔導師の暗殺から始まり、軍への妨害工作、禍力に関する人体実験。政治家や士官連中への浸透と接収に、果ては大結界を生成している『塔』へのテロ行為。
正規軍が日夜パンドラとの戦闘に明け暮れ余力がないのをいいことに、奴らはそれはそれは好き勝手に暴れ回っていた。
そんな加速度的にエスカレートしていく連中に、当時の東京コロニーはついに討伐を決意。少しの領土と多大なる人命と引き換えに、ある部隊を戦線から外し、派遣した。
その部隊というのが――
「第八期【天ノ叢雲ノ剣】――僕とお前が属していた組織の名前だ。覚えているか?」
「もちろん。地獄に堕ちても忘れやしないさ」
第八期【天ノ叢雲ノ剣】。僕の先生がリーダーを務めていた、僕をサンドバッグとして拾った組織の名前。
【ムラクモ】はリーダーが変わると期数が更新される。僕が抜けたのはちょうど先生が死んだ時――三年も前だから、今は九期か十期くらいだろう。
「流れは……確かソーマが陽動。ボクとアヤカがオペレーターで、あの人とキミ、トキワとシグレが信者を皆殺し。最後にアリスが施設を爆破して終幕だった。ミオは記憶にないから……バックアップに徹してたのかな?」
「その通り。流石天才、よく覚えてるね」
「ふふ、そんなに褒めないでおくれよ。照れちゃうじゃないか」
「……面倒だけど突っ込んどくよ。ダウトだ」
「正解!」
ビシリと人差し指を指してくるモノホンの変態に冷めた視線を送り、話を戻す。
「……そう、あの教団は僕たちが完膚なきまでに叩き潰した。奴らが根城にしていた施設は爆破したし、研究のデータも全て押収した。教主も幹部連中も軒並み殺した。もし漏れがあったとしても、この短時間で再生出来るはずがないんだ」
「にも関わらず『神子』という単語が出てきた、と」
「ああ。それに先日、クロハや僕の同類と思われる少女に襲われた。無関係とは思えない」
「……なるほどね。オーケー分かった、詳しく聞こうじゃないか」
どうやら興味が向いたらしい。本日最大の懸念事項をクリアしたことに、内心で安堵の息を吐く。
「まずは、そうだね。その単語が出てきた経緯と状況を話してくれ。出来るだけ詳しく、明確にだ」
「ああ、分かった」
言われた通り、昨日のことを話す。
任務で訓練校に行ったこと。同じく任務で行方不明児童の捜査を始めたこと。そこで汐霧が結界の気配を感知し、B区画へと向かったこと。藍染以下【トリック】の暗殺者と交戦したこと。“鬼ごっこ”の後に問答し、殺し合ったこと。結界系統の魔法を操る少女が現れたこと――
全てを語り終えたとき、氷室が浮かべていたのは海より深い思案顔……ではなく、心の底から作り出された呆れ顔だった。
「昨日のE区画の騒ぎ、やっぱりキミが原因か……」
「原因は藍染だよ。僕は悪くない」
「ハッ、この脳筋め。コレ見ても同じことが言えたら褒めてやる」
滑らかに携帯端末を操作し、画面を立体にして展開する。
映し出されたのはどこかの風景だった。崩れ落ちたビル、蜂の巣状の廃屋、クレーターだらけのアスファルト。大規模な市街戦でもあったのかといった有様で、とても人の住めるような状態ではない。
辺りには正規軍や警察のものと思われる車両や人間が散開しており、一様に何かを調べている。
「ここは……E区画?」
「ピンポン大正解。そ、キミが暴れて滅茶苦茶にしたE区画のアフターさ。是非とも感想を聞かせてくれ」
「わぁ、大変そう。そのうちいいことあるさ」
「ふふ、クズいなぁ。キミ、ボクに外道だのゲスだの言えないってこと自覚してる?」
そりゃまぁ、掛けた迷惑や損害を考えれば土下座の百や千でも足りないくらいだとは思うが。
「だってこれ、僕のためにやったことだもの。そりゃ申し訳ないとは思うよ? けど僕にとっては僕の望みこそが一番なんだ。顔も知らない他人を慮る道理なんてないね」
「……ふふっ、変わらず清々しいゲス野郎で安心するよ」
「あはは。だって、そうでしょう?」
周囲に甚大な被害を及ぼすことよりあの男を殺すことの方が僕にとっては大事だったに過ぎない。
どれほど軍の連中の仕事が増えようが、修復や修繕に費用が嵩もうが、笑って看過出来てしまう。
「ま、かの高名な暗殺者と戦ったのなら仕方ないのかもね。どうだった?」
「強かったよ。【破壊想】使わなきゃ殺されてた」
「……それは凄い。彼、本当に人間かい?」
「疑わしいことにね……」
事実、初撃の不意打ちはゼロコンマ数秒でも対応が遅れていればやられていた。
そもそも藍染は暗殺者。相手を徹底的に観察、研究し、綿密な計画を立てて、針の穴を通すような一瞬に全てを賭ける――という世界の住人だ。
昨夜のような、突発的に起こった正面戦闘など最も苦手とする分野だろう。にも関わらず結局の被害は左腕のみ、自身の情報はほとんど一切落とさなかったのだ。
恐らく、次に戦うときこそが本番。仮に全力の殺し合いになった場合、僕も死を覚悟する必要があるだろう。
……考えれば考えるほど頭を抱えたくなる。なんだあの化け物。人間か?
「……まぁ、それは置いとくとして。それで、何か気付いたことはあるか?」
「ふふ、そう急かさないでおくれよ。ボクだって万能じゃないんだ。考える時間くらい貰ってもいいだろうに」
「へぇ……らしくないこと言うね」
「それはそうさ。万能と天才は全く別だ。一緒にしないでくれたまえ」
やれやれ、と氷室。
殊勝なことを言った、というわけではない。このクズナルシーが自分のことを下に置くはずがないからだ。
その辺りに突っ込んでいると一日は飛ぶため、流して続きを促す。
「つまり、今分かっていることはないと?」
「しっかりと考えれば思いつくこともあるだろうけどね。けれど、少なくとも今そうする気は微塵も起きない。精々片手間にでも考えておくとしよう。キミだって分かっているだろう?」
「ん、まぁね」
幾ら興味を引けたからと言っても、この程度の話題でコイツが本気になるはずがない。
氷室の頭なら片手間だろうが頼りになるし、期待も出来る。成果は上々と言えるだろう。
とりあえず、今日すべきことは済ませた。あとは氷室に付き合うだけだ――なんて思った、その時。
「あ」
「ん? まだ何か?」
「うん、ちょっとね」
そういえば、と鋼糸がクソ幼女にバラバラにされたままだったことを思い出す。
アレがあるのとないのとでは、いざという時の手札に天と地ほどの差が出来る。暗雲続きのこの日々だ、いい機会だしついでに依頼しておこう。
僕は懐から鋼糸の片々を束ねたものを取り出して、机の上に置いた。
「それは……」
「鋼糸だよ。この前バラされちゃってね。金は弾むから出来るだけ急ぎで――氷室?」
「―――――」
反応のない氷室を窺い見る。
いつの間にかその顔からは常時の軽薄な表情は消えており、代わりに凍えるような無表情で覆われていた。
「……ハルカ。バラされたっていうのは誰に、どのようにやられた?」
「素性は分からない。赤髪で、歳はクロハより少し上くらいの女の子だった。武器は大型のチェーンソーで、僕が本気で蹴っても壊れないくらいには硬い。鋼糸もそれにやられた」
「そうか。…………ふふ、生意気だな。あぁ生意気だ。凡人如きが全く、虚仮にしてくれる……」
押し殺した声で、ぶつぶつと呟きを溢していく。
そのあまりの気持ち悪さに近寄れずにいると、氷室は不意に立ち上がり、所狭しと並べられた培養槽のジャングルへと歩いて行ってしまう。
そんな彼を、僕は慌てて呼び止める。
「待て氷室、どこへ行く」
「うるさい。ボクは忙しくなったんだ。用件は承っておいてやるから、今日はもう帰れ」
「……お前がそう言うならそうしよう。その代わり」
「仔細承知したと言っている。これ以上言わせるな。ボクは愚図が嫌いなんだ」
冷たく言い放つ氷室の姿は――僕ですら滅多に見たことのない、本気の姿だ。
僕の鋼糸は、元々は氷室が先生用に作成したものだ。彼女が死んだ折に僕が譲り受けることになった。
敬意と畏怖と心酔を注ぎ込んで作り上げた最高傑作――アイツは事あるごとに、この鋼糸のことをそう呼んで誇っていた。
それがこんなにも無残な姿になったのだから、キレるのも道理かもしれない。
「分かった。また会おう」
「…………」
返ってくる声はない。僕は気にせず、唯一の出口である扉へと歩き出す。
そうしてドアノブに手をかけた、その瞬間。
「………………どうして軍が児童の行方不明を『事件』と断定したか、考えてみろ」
小さく、微かな、常時強化されている聴覚がなければ聞き取れないような――そんな声で、氷室が言った。
「忠告、感謝しておく」
同様に僕も返し、後ろ手に扉を閉める。
さて、今日は忙しくなる――。