表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
東京パンドラアーツ  作者: 亜武北つづり
だけど死ぬのは私じゃない
56/169

全力善壊

 全力でその場を蹴り飛ばす。

 たったそれだけのことで、足場となった廃ビルは崩落を始めてしまった。なんて脆い、という感想が意識の端で浮かんで消える。


「【瞬節】」


 短い呟き。加速する男の痩身。黒で統一された衣服が翻り、瞬く間に互いの距離がゼロになる。

 抜き手も見せぬ男のナイフと僕の手刀がぶつかり、地上30メートルの空中で火花が爆ぜた。


「あれぇ、なんだやる気満点じゃないですか! てっきりまた逃げるのかと思ってたのに!」

「―――」


 けたたましく笑う僕には応じず、男の腕が一閃される。

 斬撃か――身構える僕の眼前をコートの袖が通過する。


 そこから産み落とされる、大量の手榴弾(ボール)

 直後、それらが一斉に爆発した。


「チッ!」


 四方八方から押し寄せる白い爆炎。それが何を意味するか、理解した僕は舌を打つ。

 魔力だ。魔力を使用した、対パンドラ用の手榴弾だ。


 先のナイフは魔力も魔法も関係ない、ただのナイフだったから素で受けても問題なかった。

 だが、これを、この数を喰らうのは、不味い。完全に致命傷、下手すればオーバーキルだ。


 だから、僕は。


「【アーツ――」


 手のひらに魔力を集中。秒を跨がず臨界に達し、僕の左手が点滅するように輝く。

 上限。これ以上は溜められない、という肉体のサイン。


 それを全て無視して(・・・・・・・・・)、僕は更なる魔力を手のひらに注ぎ込んだ。


 ボゴ、ボゴリ。まるで蛇口を塞がれた水道管のように、左腕が不自然に膨らみ、輝き、また膨らんで。


「――クライ】!」


 爆発する。

 血、肉、骨、魔力。水々しく弾けた左腕(ばくだん)が、その全てをブチ撒けて白い爆炎を迎撃する。


 【アーツクライ】。限界を超えた魔力量を手のひらに集中、暴発させる自爆技。

 如何に魔法の爆炎といえど、この技は【アーツ】と同等かそれ以上の魔力を全方位に放つようなものだ。相殺出来ないはずがない。


 ……まぁ、僕も無傷とは言えないけど。


「あは」


 表面が丸ごと削げた顔、肩ごと失った左腕、大穴が空いた右胸。

 心臓と脳はとうにか無事……というか、それだけしか守れなかった。自分の魔法にも関わらず、だ。汐霧や梶浦だったら自分の魔法で傷つくことなどあり得ないだろうに。


 本当、才能って残酷だ――


「――けれど、それで充分なのでした」


 再生開始。再生終了。戻り戻って元通り。

 口の端を歪みに歪め、僕は心の底から笑ってみせる。

 心臓と脳が無事? 充分だ。それだけあれば生きられる。僕はそういうバケモノなのだから、それでいい。


 すぐさま男の気配を追跡(トレース)。下方からタン、タンと何かを踏み蹴る音を聴覚が捉える。

 崩落するビルの破片から破片へ飛び移り、みるみるうちに降下していく男の姿。


「よっ、と――」


 その場でくるりと上下を反転。足を空へ、頭を地面へ。

 膝を折りたたみ、力を圧縮、圧縮、圧縮し――撃ち出す!


 ――バヅンッッッ!!!!!


「イィィィヤッホオォォォォォォォォォ!!」


 後ろへと流れる景色。衝撃に軋む肉体。

 僕は哄笑を上げながら、男目掛けて砲弾よろしく空を翔ぶ。


 開いていた距離が詰まるまで、約一秒。

 その一秒間で、僕は右腕を千切れんばかりに引き絞っていた。


 限定解放。


「加減は無しだ―――!」


 咆哮。全霊を込めて拳を振るう。

 瞬間、銃声にも似た破裂音が連続して響いた。

 亜音速、音速、超音速――解放された右腕の初動が、それら全てをまとめて上回ったのだ。


 回避も防御も許さない、必中にして必殺の一撃。


「―――」


 対し、男は驚異的な速度でナイフを両手に展開する。

 盾にでもするつもりか。速さは尊敬に値するが、それだけだ。特殊合金製のナイフ程度、今の僕なら真正面から粉砕出来る。


 そんな僕の予想に反して、男はナイフを小さく薙いだ。

 攻撃か。いや、これは――まさか!


「――ふっ!!」


 短い気勢。男の腕が薙がれて流れる。

 それに引っ張られるように、絡め取られるように。僕の拳の軌道が――僅かに、ズラされた。


 ――ドォンッッッ!!!!!


 爆撃じみた轟音。遥か下方で生じた衝撃に、僕らの自由落下が一瞬止まる。

 受け流された。パンドラアーツの一撃を。それも魔法でも何でもない、素の技術で。


 彼が何をやったのか、それは分かる。拳にナイフを合わせて力の流れを変えたのだ。

 術理自体は珍しくない。格闘技でもそんな技があったはずだし、インファイトの基本でもある。


 だが――出来るものなのか?

 超音速以上の速度で、爆撃さながらの威力で迫る拳を、受け流すことなど。


「流石、汐霧の師匠ってか――」


 磁石のように弾き合い、離れる。

 直後に落下が終わり、僕らは地面に叩きつけられた。


 無論、その程度でどうにかなる僕らではない。落下した次の瞬間には疾走を始めている。


 先ほどと違い、男は逃げない。問答の結果か、それとも知られ過ぎた(・・・・・・)からか、僕を逃がす気はないらしい。

 辺りの地を蹴り壁を蹴り、汐霧のような三次元的な動きで距離を詰めてくる。


 ――上等だ。僕だって、逃げる気も逃がす気もない。

 地を蹴り飛び出す。空を殴り軌道修正。廃墟の壁を蹴って加速、中空を蹴って更に加速。慣性など徹頭徹尾無視した機動で、僕も距離を詰める。


 手刀とナイフが高速でぶつかり合い、夜の街に大量の火花が散った。


「あっはははははははははははははは!!!!!」


 (わら)う。

 振るわれるナイフを真っ向から殴り砕いて、笑う。


 (わら)う。

 廃墟の一つを蹴り飛ばし、巨岩サイズの散弾に変えながら、嗤う。


 (わら)う。

 すれ違いざまに喉を裂かれ、腹を捌かれ、片目を貫かれて、(わら)う。


 微笑(わら)う。

 投擲された十二のナイフ、その全てを腕の一振りで塵芥に帰しながら、微笑(わら)う。


 嘲笑(わら)う。

 僕らの攻撃で崩壊していく街を、嘲笑(わら)う。


 ……そして。


「――【センレンアーツ】ッ!!」


 正真正銘、全身全霊。【アーツ】と同威力の弾丸を千発放つ、最大最強の魔法(・・)を撃ち放つ。

 弾丸。いつもの砲撃ではない。【アーツ】の威力をそのままに、千発に千切ったといえば分かりやすいか。


 だが、例え弾丸サイズだろうと【アーツ】は【アーツ】だ。

 パンドラアーツの無尽蔵の魔力量を解き放つ、理外の一撃に他ならない。


「っ……!」


 幾ら汐霧の師匠でも、これは予想外だったらしい。

 弾丸の間を縫うように飛んで避けていくが、僅かな体勢の崩壊までは防げなかった。


 だから、僕は笑う。


「逃がさないよ」


 地を蹴る。空を蹴る。稲妻のように(はし)り、肉薄。

 男の目は僕に反応しているが、体が追いついていない。


 絶好のチャンス。だが僕は焦らない。

 先の経験から、強力な一撃は逸らされるかもしれない。それでは意味がない。

 確実に、着実に敵を滅ぼさなければならないのだ。そのためには焦ってはいけない。


「きひっ――」


 男の左腕を掴む。手首と腕関節を握り潰して、絶対に離さないように掴む。

 片腕をミンチにされて、男は声どころか呼吸一つ乱さなった。素晴らしい精神力、忍耐力だと密かに賞賛を送っておく。


 跳躍。

 空中で跳ね、慣性のベクトルを真上に。


 男の体を背負うようにして頭上に振り上げる。

 直後、自由落下が始まる。

 僕は先生のように、満面の笑みを浮かべて――


「――ひィィィヤっははハハハハハハハハハハハッ!!!!!」


 ぶん投げる。

 重力と、膂力をフルに乗せて、地面へと。


 そして、さっきの拳圧とは比べものにならないほどの衝撃、轟音が轟いた。

 人がいれば百や二百は巻き込まれるだろう規模の大破壊が眼下で巻き起こる。


 そして右腕には掴んでいた男の左腕の感触が残っていた――そう、とても物理的に残っていた。

 投げた際に千切れてしまったのだろう。断面からは骨の残滓と、新鮮な血液が覗いている。


 僕はそれをポイと投げ捨て、再び空を蹴って加速する。

 ある一つの確信があった。


 ――アレで死んだはずがない。


 重傷だろう。すぐには動かないだろう。けれど致命傷にはならなかったし、そのうち動き出す。

 なにせ汐霧渾身の魔法でさえほとんど無傷だったのだ。であればあの男はまだ、絶対に生きている。


 その思考が呼び水になったかのように、土煙が晴れる。

 どんな術を用いたか知らないが男は生きている――どころか、意識すらあった。

 地面に埋まり込んでいた体を引きずり出し、すぐにでも逃げようとしている。


「さぁ、トドメだ」


 機動力は殺した。魔法も使える状態じゃない。反撃も防御も回避も不可能だ。

 ならば今度こそ全力の一撃を叩き込み、終わらせる。


 右腕を振りかざし、解き放つ。

 地を這う今の彼には、絶対不可避の一撃。

 拳に命を奪った最低の感触が残る――


 ――その、はずだった。


「【この人は殺させない】」


 何処からか響いた、幼くも艶やかにも聞こえる女の声。

 男の頭、その数十センチ前に空色の壁が生まれ、僕の拳と衝突した。


「邪魔を、するなァッ!!」


 叫び、右腕に力を込める。しかし障壁の硬さは異常だった。僕の一撃のエネルギーがそのまま叩き込まれたのに、ヒビすら入る気配もない。

 逆に、力に耐え切れなかった右腕が破裂してしまう始末だ。


「チィッ……!!」


 跳ね飛んで後退する。その間に右腕は再生したが、男にも距離を取られてしまった。

 もう魔法も使えるのか、左肩から溢れていた血も止まっている。


 そんな彼の隣に、一つの影がいつの間にか寄り添っていた。


「大丈夫ですか? すみません、到着が遅れました」

「いや……助かった」

「そうですか。……良かった、本当に……」


 安堵し、溜息を吐く影。やがて月光に照らされ、その姿が浮き彫りになる。

 少女――女? 顔はあどけなさが残っているが、身長が高いせいかどうにも年齢が分からない。10代後半、またはその前後だろうか。


 夏の夜空のように綺麗な群青色の長髪。瞳も同色だ。身長はは高めで、スタイルもいい。服はドレスのような黒色のワンピースを纏っている。

 恐らく、彼女が男の呼んでいた保険の一人なのだろう。なるほど、しっかりと役割を果たす辺り有能な――


「……待て」


 この姿……どこかで。

 いや……そうだ。でも、何故……ここに、いる。


「何故、……何故、お前がここにいる……?」

「黙れ下郎。私はお前の発言を許していない」


 鋭い視線と、混じり気のない怒気を向けられる。

 そして納得した。コイツは違う、なるほど彼女(・・)ではない、と。


 よく見れば、違うところはたくさんある。そもそも彼女はスタイルが良くないし、黒色の服も着ない。白色じゃなければ魔力の伝導率がどうとかなんとか……とにかく、ちゃんとした理由があったはずだ。


「……失礼、人違いだったみたいだ。で、お前は誰? そこの男の仲間?」

「喋るなと言ったはずですが」

「あ、もしかして奥さんだったり? でもそうすると年の差何歳なんだろう。はは、いい趣味してますね」

「――貴様、撤回しなさい」

「やめろ、落ち着け」


 こちらに飛び掛かって来る五秒前、という少女を男が制す。

 残念だ。向かって来ていたら生け捕りにしてやれたのに。


「でも、あの男」

「奴の口に乗せられるな。恐らくお前の正体にも気付いている」

「そんな……!」

「やだなぁ、僕そんな娘と会ったことないですよ? あ、でも今から仲良くしたいって言うなら考えなくもないですよ? とてもとても撫で回しがいのあるお身体のようですし、とりあえず裸になってくださいな」

「【ふざけるな】ッ!」


 瞬間、前触れなく僕の体が動かなくなる。

 状況だけなら汐霧父の『服従』のマガツに似ている……が、そうではない。火力はあちらだが、技術力的にはこちらの方がよほど上だ。


 全身に力を込めて拘束から逃れようとするも、ビクともしない。

 恐らく結界系統、対人結界の魔法だ。禍力を使えば破ることが出来る――しかし、今禍力を使うのは絶対に避けなければならない。


 この結界は恐ろしく堅固だ。必然、破るなら相応の禍力が必要となる。それだけの禍力を使えば、間違いなく軍や研究所の連中に捕捉されるだろう。

 クズ共のちょっとした暗黙の了解に『E区画を監視しない』というものがあるとはいえ、禍力反応があれば話は別だ。総力を挙げて殲滅に乗り出すだろう。


 せめて先日の《楽園》エリアのように探知されない場所、または探知出来ないような状況であれば話は別なのだが――


「……どうでもいい」


 そう、そんなことは本当にどうでもいい。今大切なのはこの状況で、ないものねだりをしてる場合じゃないのだ――。

 そんな僕の内心を知ってか知らずか、男の応急処置を終えた女が意気揚々と言う。


「この男、どうしますか。殺してもいいですか?」

「出来るのか?」

「出来ない理由がありません。しない理由はもっとです」

「なら、好きにしろ」

「はい!」


 女は花が咲いたような満面の笑みを浮かべ、僕へと手のひらを向ける。何をする気か――考えるまでもない。僕を殺す気だ。

 ……最悪、禍力を使って拘束を解く。この際二人の殺害は諦めるしかない。一瞬刹那で結界を破り、クズ共に捕捉される前に全力で逃走する。


 出来るかどうかは賭けになるが、これしかない。

 僕は女の総身、そして自身の心臓に極限まで神経を澄ませて、


「――遥、動かないでください!」


 空が輝いた。

 そう錯覚するほどの大量の光が、僕らの頭上を覆っている。


 よく見ると、それは幾つもの小さな塊だった。

 一切の隙間なく敷き詰められた――数多の銃弾。魔導銃で精製された、とんでもなく高威力のもの。


 直後、僕が気付くのを待っていたかのように、それらが降り注いだ。


「な――!?」

「【瞬節】」


 男は右腕一本で女を抱え上げ、加速して退避する。瞬間僕の体に自由が戻る。射程外まで距離が離れたのか、意識が途切れて魔法が解けたのか――どちらでもいい、僕も退避しなければ。


 後退しようと足に力を込める。しかしその寸前、背中に何かが触れる感触。

 そして、カチンッという小気味のいい音が耳朶を打つ。


「【コードリボルバ】」


 景色が急激に流れる。僕の意思とは無関係に足が浮き、瞬く間に後方へと着地した。

 この魔法、何より今の声は――


「汐霧」

「ごめんなさい、遅くなりました」


 足音を鳴らし、銀髪の少女が並び立つ。

  月明かりに照らされて浮かんだ姿は、全身が血に塗れていた。


 玉のような肌にも、絹糸のような髪にも、お気に入りの特注コートにも、半分以上が赤錆色に染まっている。


「お前……その血は」

「心配しないでください。ほとんど返り血です」


 汐霧は平然と答える。

 確かにこの量の血が負傷によるものなら、彼女はとっくに動けなくなっているだろう。そういう意味では嘘じゃない、が。


「それより、遥こそ無事ですか? 結界で拘束されてたように見えましたが……」

「ああ……うん、まぁ。割とピンチだったから助かった。ありがとう」

「そうですか……よかった」


 安堵したように微笑み、汐霧は前へと向き直る。

 視線の先にいるのは彼女の師匠と、抱えられるようにして守られている結界使いの女。

 互いが互いを油断なく見遣る中、男が口を開いた。


「どうする? このまま続けるか」

「はっ、そっちから仕掛けておいて何を今更……なんて言いたいところですけど」


 本来なら誰が死のうと殺すまでやるつもりだったが、優先順位が変わった。

 あの結界使いの女についての推測が当たっている可能性があるなら、今この場で殺すのは出来る限り避けるべきだ。


 そもそも現状、一対一ならともかく汐霧の師という守備がいる以上、彼女を殺すとすれば禍力の使用が必至となる。

 加えれば汐霧の状態も気になる。これ以上の戦闘続行はメリットよりデメリットの方が大きいのだ。


 そして、恐らくそれは向こうも同じだろう。


「英断、痛み入る」

「心にもないことを……ああそうだ、ちょっと待って。聞き忘れてたことが一つ」

「なんだ」

「はは、いや、これだけ戦り合って名乗りの一つもなしってのはちょっとばかり味気ないなーと思いまして。あなたのお名前なんてーの?」


 いい加減、いちいち一般名詞や代名詞で呼ぶのも少々辛い。隣の結界使いと合わせて“男”“女”ではそこらに蔓延るどうでもいい人間のように聞こえてしまう。

 女の方はともかく、この男はそんな人間では断じてない。


 そんな僕のとても綺麗で真摯な心が伝わったのか、はたまた気まぐれか。男は存外あっさりと教えてくれた。


藍染(あいぞめ)だ。藍染九曜(あいぞめくよう)

「ん、覚えた。それじゃさようなら。いい夜を」

「同じ言葉を返しておこう。また会う日を楽しみにしている」


 それはつまり、次会うときは今日のように容易くはないということだ。

 男――藍染は背中を向け、空気に溶けるようにして去る。なるほど、逃走用の力は蓄えていたらしい。女の邪魔が入らなかったとして、果たして殺せたかどうか。


「……疲れたな」


 溜息を吐いて思考を切る。今日はいろいろなことがあった。

 肉体的な損傷とは無縁な僕であるが、精神ばかりはどうにもならない。こうも凄まじい濃度の一日を過ごせば、流石に疲れもする。


 僕は隣の汐霧へと視線を向け、へらへらと笑った。


「さて、それじゃ僕らも帰ろうか。考えることが山積みだからね」

「……………………あ、えっと」


 ふらふらと、ぼんやりとした様子の汐霧が、緩慢に声を上げる。


「すみません……ぼーっとしてました」

「はは、だから言わんこっちゃない」


 右目や聴覚、味覚と違ってパンドラ化していないとはいえ、今の僕の鼻はそこらの犬よりずっと効く。

 その嗅覚が先ほどからずっと捉えていたのだ――何かが腐るような、鼻につく異臭を。


「邪魔なの脱がすから万歳して。はい、ばんざーい」

「……ばんざーい……」


 朧げな意識――まるで催眠にかかったかのような所作の汐霧からコートと制服の上着を脱がし、肩口を晒けさせる。

 そこにあるのは横一閃に走った切傷。ナイフによるものと思われる。決して深くはない。


 問題は、その傷口から感染したように広がっている、緑や紫に腐食している肌だった。


「うっわ見事に腐ってる。グロっ」

「……ごめんなさい……」


 ――恐らく藍染の部下の三人を足留めしていたときの傷。連中のナイフに塗り込んであった毒の類だ。

 勘の鋭い彼女のことだ、戦闘中に嫌な予感か何かを察知して――特攻じみた攻撃で撃破、もしくは無力化したのだろう。


 そして最低限自分が死なない程度の回復をかけてここまで疾走。見事僕のピンチを救い、敵が去って緊張の糸が切れた、と。


「ま、これなら大丈夫かな」


 実際流石の応急処置で、命に別状はない。家に帰って適切な処置をすれば入院する必要もないだろう。

 僕なんかのせいで要らぬ怪我を負ってしまったのは心が痛むが、それはまた後回しだ。


 ――だから、そんなどうでもいいことは置いといて。


 僕は懐から携帯を取り出し、通信画面を開く。

 アドレスの中から一人の男の名前を選択して、と。


「あー氷室? 明日そっち行くけどいい? ちょっとお願いしたいことがあってね。ほら、いつかの借りも含めてさ――」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ