8.5話・二人の少女と晩ご飯
8話と9話の中間話。
ちっさい同士って素晴らしい。そんなお話。
――四月某日。
汐霧憂姫が儚廻家に住むことが決まり、二日が経った日の夜。
時刻は晩飯時、普通なら和気藹々とした団欒の時間が流れるはずのリビングは――その実、異様な雰囲気に満ちている。
「…………」
「…………」
テーブルを挟んで座る二人の少女。
彼女らの間には、例え発情期の猿だろうと問答無用に黙らせるような重さに包まれていた。
「あの、クロハちゃん、何か……」
片や絹のような銀髪、紅の瞳を持つ少女。
華奢な外見に反して魔導師養成機関であるクサナギ学院に属する、東京でも指折りの戦闘力を誇るAランク魔導師。
名を汐霧憂姫というその少女は、正面からの視線に困ったような笑顔を返した。
「…………」
その視線の主は、漆のように艶のある黒髪、宝石のような赤色の瞳を持つ幼女。
色白な憂姫と比べても際立つほどに色素が薄く、触れたら崩れてしまいそうな儚げな容姿をしている。
名をクロハというその幼女は、警戒心に満ちた視線を油断なく憂姫に送っていた。
「…………」
「…………」
無言の時が続く。その間に家主である青年、儚廻遥の姿はない。
というより、それこそが現状の原因に他ならなかった。
とてつもなく重苦しい空気の中、憂姫は記憶を辿る。何故、どうしてこうなったのか、と。
――そもそもの発端は今から二時間前、時計の短針がちょうど5時を指した時のことだった。
学院の訓練も無事終わり、いざ帰ろうと遥の所属するクラスを訪れた憂姫。
そんな彼女の前を、教官に引きずられて横切っていく生徒の姿があった。
『教官。僕可愛い女の子のためにご飯を作る用事を思い出しました』
『そうか。未提出の課題を終わらせた上で存分に果たすといい』
遥だった。
彼はそのまま職員棟の教務課へと消えて行き、後には途方に暮れたように立ち尽くす憂姫の姿だけが残ったのだった。
ちなみに教室に残っていた梶浦謙吾に聞くところによると、どうやら遥は春休みの課題をまとめてすっぽかしたらしい。
散々自分に小学生だなんだと言っておいて、本人の方がよほど小学生染みてるじゃないか――などと思ったのは、どうでもいい秘密である。
ともあれ遥は連行され、教務課に缶詰め。恐らく朝帰りだろう、待たずに帰るのが賢明だ、というのが梶浦の弁だった。
こうして憂姫は一人で帰宅し、晩御飯を作ろうと思い立って――そこでこの家のメイド、クロハと鉢合わせたのである。
反応は、劇的だった。
『あ、クロ……』
『っ!!!』
黒髪の幼女は、その可憐な外見からは想像出来ないほど俊敏な動きで跳び退き、テーブルを挟んで逆側へと着地。
そしてそのまま、体を膨らませて威嚇する猫のように憂姫をじりじりと窺い見て――早一時間。今へと至るのであった。
……どうしてこうなったんだろう。一通り思い返した憂姫の脳裏に浮かぶのは、そんな感想のみだった。
そりゃまぁ、いきなり彼女の生活圏に侵入して来た自分に気を許してくれるとは思わないが……だからと言って、ここまで嫌われるような身に覚えもない。
理不尽な現状と、幼気な子どもに本気で警戒されるという決して軽くない精神ダメージの数々。
内心でる~、と涙を流し、憂姫は小さく溜息を吐いた。
――と。
くうぅ。
か細く、それでいてどこか力強さを感じる何かの音が、リビングに響いた。
「…………っ!」
微かに、しかし確かに頬を染め、身を震わせるクロハ。
今のはあなたのお腹の音ですか――そんな言葉が喉から出かかるも、寸前で理性が押し留める。
果たして、それは口に出していいことなのか? ただでさえ良好とは言えない彼女との関係に、致命的な亀裂を入れてしまわないだろうか?
疑惑が渦巻き、憂姫の動きが止まる。しかし悲しいかな、憂姫はどこまでも魔導師だった。
隙を窺わせぬためのポーカーフェイス、動揺を隠すための不動。
魔導師としての必須技能であるこれらを、しっかり習得してしまっていた憂姫は――無意識ながら、クロハに顔を向けたまま思考に没入してしまっていた。
――腹の音を聞かれた挙句、何も言われずにひたすら凝視される。
そんなことをされた側は、一部のマゾ野郎を除けば堪ったものではない。年頃の女子なら尚更である。
当然、クロハもその例に漏れることなく。
「……ぅ……っ、く、ふぅっ……!」
「え、な、く、クロハちゃん!?」
悔しいやら情けないやらで、瞳いっぱいに涙を溜めて嗚咽を零すクロハ。
自分の行動が原因とは露知らず、まさかの展開に慌てふためく憂姫。
どこからか聞こえ出す『泣~かしたぁ泣〜かしたァッ!!』というクズ野郎のBGM。
まだ始まったばかりの夜は、早くも混迷を極めていた。
◇
――30分後。
「落ち着きました?」
「……ええ。醜態を見せたわ」
頷き、澄ました顔で答える幼女。
未だ目は少しだけ充血しているが、そこに突っ込むような性格の悪いクズ野郎はここにいない。
憂姫はエプロンの紐を後ろ手に締めながら、クロハに質問する。
「それで、クロハちゃんは何が食べたいですか?」
「……何でもいいの?」
「はい。材料もたくさんあるみたいですし、一通りは作れるかと」
「それじゃ……カレーがいいわ」
「はい、分かりました。すぐに作りますから、少しだけ待っていてくださいね」
安心させるように笑いかけ、必要な食材を取り出していく。
洋食はあまり得意ではないが、カレーくらいなら問題ない。米は既に炊いてあるし、半刻少しもあれば作れるだろう。
「甘口でいいですか?」
「子ども扱いしないで頂戴」
「あ、そうじゃなくて……実は辛いの駄目なんです、私。だから出来れば甘口にしたくて」
「……。作ってもらう立場で文句を言うほど恥知らずじゃないわ」
「ありがとうございます」
「…………」
礼を言う憂姫に、クロハは胡乱げな視線を向ける。気を遣って無理やり理由を付けたのだと思ったのだ。
実際のところ憂姫はかなりの甘党、というより子供舌なのだが、そんなことをクロハが知るはずもない。
ともあれ許可も取ったことで、憂姫は調理を始める。
作るのは人参とじゃがいも、玉ねぎと豚肉という一般的な食材に蜂蜜、柑橘系のジャムを使って風味つけをしたもの。
それほど珍しくもなく、調理の手順もほとんど普通のものと同じだ。
まずは食材を切り、野菜類をレンジで加熱。その間に豚肉を炒め、加熱が終わり次第野菜類も加える。
指針としては玉ねぎが分かりやすく、ある程度色がついたら蜂蜜、ジャムを投入。水分が飛ぶまでよく炒める。
最後に水を入れ、沸騰するまで焦がさないよう気をつけながら加熱。
沸騰したらあくを取り、ルーを投入。弱火でとろみがつくまで煮込み――完成。
「……よし、できた」
味見をするも、ちゃんと自分の思った通りの味付けとなっており胸を撫で下ろす。
――良かった、今日に限って失敗なんてことにならなくて。
「……浸っているところ悪いけれど、もう盛り付けてもいいかしら」
「っ!?」
いつの間にか後ろに立っていたクロハに、憂姫の肩がビクリと揺れる。
――と。
「あ」
どこか体が当たったのか、カレーを入れた鍋がぐらりと傾く。
このままでは鍋ごと全て床に溢れる――そんな角度。
だが、速度を武器としている憂姫にとって、この程度焦るほどもない事態。
視界がスローモションに切り替える。生じた動揺を完全に消し去る。傾ぐ鍋の取っ手を見切り、掴み取ろうと――
「――っ」
――した瞬間、下方から突き出た二本の腕が、鍋を支えた。
その持ち主――クロハは表情一つ変えずに鍋を押し戻し、憂姫をじっとりと見詰める。
「気を付けなさい。例えカバー出来るとしても、ミスを前提に動くのはよくないわ」
「ご、ごめんなさ……っじゃなくて! クロハちゃん、大丈夫ですか!?」
クロハが触れた場所は鍋の下。言い換えれば、少し前まで火にかけていたちょうどその場所。
そこをべったりと、しかも数秒間も触っていたのだ。酷い火傷になっていないはずがない。
事実、クロハの両手は皮が破れ、真っ赤に爛れ、見るも無残なこととなっていた。
「……ああ。ごめんなさい。ご飯前に気持ちの悪いものを見せて」
「そんなこと言ってる場合ですか……! ああもう、手を出してください。治療します」
「いらない。こんなもの、放っておけば治るもの」
その言葉に、憂姫が疑問を覚えるより先に。
クロハの手は――再生を始めた。
傷口から血色の煙が立ち昇る。
それと呼応するように、損傷した皮が、肉が、元通りになっていく。
瞬きを一つ挟むと、少女の両手には、もうどこにも傷など見当たらなかった。
今し方目の前で起きたことに、憂姫は半信半疑で呟く。
「魔法、ですか……?」
「残念だけど、そんなに綺麗なものじゃないわ。……けど、コックの代金くらいにはなったかしら」
自嘲するように言い、皿へとカレーを盛り付けていくクロハ。
頭の中を渦巻くたくさんの疑問を押し留め、憂姫は一つだけ口にする。
「深く聞かない方がいいですか?」
「……ええ、お願い。ハルカには、まだ止められているから」
「分かりました」
どこぞの変態科学者と違い、憂姫に人を困らせて悦ぶ趣味などない。
確かに聞きたいことは山ほどある。今の“再生”もそうだし、先ほど自分の後ろに立っていたのもよく考えると不自然だ。
幾ら警戒を解いていたとはいえ、ただの小さな女の子が自分の後ろを取れるだろうか?
……そんなわけがない。汐霧憂姫という人間の性質上、そんなことを許せるはずがない。
しかし、だからと言ってこの幼女が自分と同じ――あるいはそれ以上の実力者かと問われれば、首を捻らざるを得ない。
体運び、隙の有無、魔力……どれも確かに一般人のものではないが、少なくとも自分より劣るだろう。
では何故か。気にならないと言えば嘘になる。
しかしそれは好奇心だ。必要に迫られているわけでも、何かの役に立てようとしているわけでもない。
そんな軽い気持ちで詮索するのは駄目だろう。
思い出したくない、隠したい何かを抱える人間がいることを、自分はよく知っているのだから。
「ご飯にしましょう。私もお腹が空いちゃいました」
「ええ、そうね。……ありがとう、ユウヒ」
「あ……」
幻聴か、聞き間違いか。
今、クロハに自分の名前を呼ばれた気がする。
彼女の口から一度も出ることのなかった、名前を。
「ほら、席について。料理が冷めてしまうわ。早く食べましょう」
「……ふふ、はい。そうしましょう」
座り、手を合わせる。
いただきます、と重なる声。スプーンでカレーを掬い、口に含む。
味は先ほど味見したときと同じで、普通に美味しい。悪くない出来だ、と憂姫は密かに自賛する。
そんな憂姫に対して、クロハは驚いたような表情と、呟きを零した。
「……おいしいわ。とても、おいしい」
「そう言ってくれて、よかったです」
「いえ……こんな、レトルトよりおいしいカレーを食べたのは初めて……」
「え」
微笑みを浮かべていた憂姫の表情が、固まる。
家主である遥の話では、料理は彼が担当していたはずだ。
カレーのような簡単な料理は、基本的に手間暇をかけるだけ美味しくなる。
それが、レトルトより美味しいものを食べたことがない、とは――
憂姫の思考を見透かしたのか、クロハはひらひらと片手を振る。
「ああ、勘違いしないで頂戴。別にご飯を貰えてないとかそういうわけではないから」
「なら、どうして……?」
そう聞くと、クロハはげんなりとした表情を浮かべた。
「……ハルカ、実は料理下手なの。それも本人が気づいてない、性質の悪いタイプの」
「そういえば……味覚が異常に過敏って話は聞きましたけど」
昨日、突然のたうち回り出した時は頭がおかしくなったかと思った。
「ええ。だからハルカの料理は基本的に味がないわ。食べていて、まるで空気を噛んでいるような気分になるのよ」
「それは……」
「でもそれはまだいい方。美味しくはないけど、別に害はないから」
「……料理の話ですよね?」
「ええ、紛れもなく」
冷蔵庫を見た限り、遥が使うのは一般的な食材のはずだ。
それをどう使えば人体に害を与えられるのか、憂姫には想像もつかない。
クロハは鬱々と溜息を吐き、口を開いた。
「ハルカの料理の基準は二つ。それが食べられるかどうかと、味覚にダメージが来ないかどうか。すなわち、純粋に味が無いケースと――味覚が麻痺するくらい吹っ飛んだ、凄まじいケース」
「凄まじいって……」
少なくとも料理に対する評価ではない。あってたまるか。
「……だから、それと比べるとあなたの作ったのはずっと美味しいわ」
「それは、喜んでいいのでしょうか……?」
「さぁ……少なくとも私はありがたいけれど」
ありがたい。嬉しいとかではなく、ありがたい。
……もはや何も突っ込むまい。そう決心した。
「あ……このことはハルカに秘密にしておいて」
「私は構いませんけど……クロハちゃんはそれでいいんですか?」
「ええ、いいの。……なんだかんだ、思い入れがないわけでもないから」
言って、目を細めるクロハ。
きっと何か悪くない思い出があるのだろう。散々な評価だったにも関わらず、その目はとても優しげに見えた。
そんなクロハの様子に、憂姫は微笑みを返す。
「……はい、分かりました。このことは私たちだけの秘密です」
「ええ……そうね。このことは、私たちだけの秘密よ」
どちらからともなく小指を交わし、指切りげんまん、と口ずさむ。
彼女たちの間に流れる空気は、最初の気まずさが嘘のように、穏やかなものだった。
「ごちそうさまでした。……お皿、片付けるわ」
「あ、私がやります。クロハちゃんはゆっくりしててください」
「私だけ何もしないのは気が咎めるわ。ユウヒこそ座ってなさい」
「……ふふ、それなら一緒に片付けましょうか」
「ええ、それがいいわ」
こうして今日も夜が更けていく――。
レシピをまとめるのって難しい。
作中のレシピはウチで使っているものを簡単にまとめたものですが、どこか変な点などあればご指摘お願いします。
主人公不要説。